第6話 第三の目
(この青い荒野のような世界が、常世)
神主である祖父の影響で、葵も日本神話は少し詳しい。
常世とは、
「……まさか、私、死んだの?」
ティカをつけてもらうとき、葵は目を閉じた。それまでは確かに部屋の中にいたのだ。目を開けるまでのほんの一分かそこらで、世界が変わってしまった。
ということは、ティカに毒が仕込まれていたのだろうか。
立ち止まって額に手をやり、葵はぎょっとした。
いったん引っ込めた手で、おそるおそるなぞってみる。
額の中央が、縦長のアーモンド形に割れている。
その中にある粘膜っぽいものに触れると、痛みに思わずまぶたが閉じた。
この感覚は、目だ。
再び葵は目を開ける。青白い世界の中で、赤い服を着たクマリが変わらずにいる。
オオアリクイに乗った彼女が振り返った。
「アオイは死んでいない。目を開けたので、常世と行き来ができるようになっただけだ」
鏡がないので確認できないけれど、アニメで見たキャラクターのように、額に目がついているはずだ。
(この先ずっと、前髪とか帽子とか絆創膏でおでこを隠さなきゃならないってこと? ……いやいや、問題はそこじゃないって)
気を取り直して葵は、歩みを止めないオオアリクイに追いつき、クマリに訊ねる。
「行き来ってことは、ちゃんと元の世界に帰れるの?」
「もちろんだ。常世と現世は、地面を介して鏡のように裏表になっている。ただ、こちらの層の世界は、第三の目を持つ者にしか認識できない」
第三の目、と心の中で繰り返す。
アニメやマンガによく出てくるから、何となくイメージはつかめる。
「もともとアオイには第三の目があったが、誰かが閉じたようなので、我が開けた。……見てもらいたいものがあってな」
先ほどから見えていた小さな塔のようなものに、だんだん近づいていく。高さは一メートルくらいだろうか。土でできているようだ。
「あれが、アリ塚?」
「そうだ。あの中に女王アリが棲み、産卵している。夜になるとアリが出てきて、地面の穴を通り、現世へ行って悪さをする」
アリ塚付近の地面が何となくぼやけているな、と思ったら、巣穴から出てくるたくさんのアリたちのうごめきだった。
いくつかのアリの隊列の一つが、葵たちのそばまでくる。
アリは何センチか進むごとに少し立ち止まり、触覚を動かして位置を確認し、またせわしなく行進する。
彼らは、地面にうがたれた小さな穴にさしかかると、迷うことなく入っていった。
「アオイ、あのアリの行き先を追ってみろ」
クマリが穴を指さす。そう言われても、アリの一行は最後尾まで穴に入ってしまい、地上からはもう見えない。
「無理よ。地下の様子なんてわからない」
「地下ではない。どちらかというと、この下が地上だ」
「どっちにしろ、土しか見えないけど」
「目を凝らすのだ。第三の目の方だぞ」
半信半疑で、葵は額に意識を集中させた。
本物の両目はすがめて視界をぼやけさせ、第三の目だけでアリの穴を見つめる。
地面がぐにゃりと揺れたかと思うと、穴を這い上がるアリの最後尾が見えた。
カメラで追いかけているかのように、土の中の細い穴を視界が一緒に移動する。
ようやく穴から出る。何かの隙間をくぐると、人の声が聞こえた。
試しに、少しカメラを引きにする感じで、アリ達と距離をとる。どこかの民家らしく、土間から廊下を進むと、少し開いたドアから光が漏れていた。
「明日は休みだって言ったのに、どうして仕事なのよ!」
「仕方ないだろう、お客さんから追加の通訳を頼まれたんだ。農村体験ツアーは言葉が通じない者同士のコミュニケーションを楽しむものなのに、やっぱり言葉が通じないのは怖いから来てくれって言われたんだ」
男女のうち男の方の声に、聞き覚えがあった。
カメラアイの位置を変えて、葵は天井から見下ろしてみる。
やはり、通訳のクリシュナだ。
(私は追加の通訳なんて頼んでいないのに、人の良さそうな顔して妻に隠れて浮気? サイテー!)
二人はゴルカナ語で話しているはずなのに、ここでも脳が直接意味を変換しているのか、葵にもすんなりと理解できる。
「明日、何の日か覚えてる?」
怒りをまぶした声で、女性が言う。
「覚えてるさ。君の誕生日だ。だから、夜には帰るよ。家族を養うために仕事してるんだから、わかってくれよ。通訳、特に日本語は難しいから、他の仕事よりもたくさん稼げるんだ」
「そうね、家に帰っても、いつも携帯見てるものね。最近は食事のときまで。私が日本語や英語を読めないからって、何してるんだか」
「それも営業だよ! 次もまた通訳に指名してもらえるように」
「何度もあなたを指名してくる女性がいるわよね。しかも三人。オプションツアーに泊まりがけで通訳を依頼してくるなんて、おかしいでしょう」
「おかしくないよ。それも戦略のうちなんだ。旅先で開放的な気分になって、ちょっとアバンチュール的なこともあったらいいな、という下心をくすぐって、また来ようという気にさせてる。でも、本当に手は出さない」
「そうやって他の女に色目を使っているのが許せないって言ってるのよ!」
二人の水掛け論は延々と続き、妻らしき女性が泣きながら部屋を出ていった。
クリシュナがため息をついて椅子に座り、瓶ビールをあおる。
部屋の隅でじっとしていたアリ達が動き始める。
彼らはドアの隙間を通り、寝室へと入っていく。葵もその後を追うと、クリシュナの妻がベッドでうずくまっていた。くぐもった嗚咽の声が、暗い部屋に響く。
アリ達がベッドの脚を伝い、布団へとのぼる。彼女のウェーブのかかった黒髪の上を一列で進み、顔のそばへ来る。
アリの大きさは小指の爪より小さい程度で、六本の脚でせわしなく動いており、体の大きさに比べて、動く速度が速い。
クリシュナの妻の涙に濡れた褐色の頬に、先頭のアリが脚をかける。
しかし、彼女は手で払いのけるどころか、アリに気がついてすらいない。
アリたちは頬の隆起を器用にくだり、彼女の鼻の穴へと入っていった。
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