第4話 クマリの館で見たもの
いきなり真っ暗な部屋に閉じ込められてしまった葵は、ロウソクを持っていない方の手で何度も扉をたたく。しかし、向こうからは何の反応もない。
(どうして!? なんでこんなことを)
外国で若い女性が誘拐されて、僻地の嫁として取り引きされたり、臓器売買されたりする、という話を思い出して、葵は背筋が寒くなった。
聖なるクマリの館とはいえ、国を担うロイヤルクマリではなく、地方に無数にいるローカルクマリなのだ。よくないことに荷担している可能性だってある。
血の気が引いたせいで、手足が冷たくなってめまいがしてくる。立っているのもつらくなり、葵はしゃがみこんで頭を抱えた。
震える手でリュックから携帯電話を取り出したが、電波は届いておらず、助けを求めることもできない。扉の向こう側の気配を探るが、もうマヤはいないようだ。
神経を研ぎ澄ませてみてわかった。部屋の外ではなく中に、気配を感じる。
確かに、何かがいる。
葵は燭台を持って立ち上がり、ゆっくりと壁沿いに進んだ。
生ぬるい、いや、生臭いにおいがする。
部屋の角を折れてすぐに、何かの影が見えた。
床の上に、お盆のようなものが置いてある。その上には、何かの塊。
嫌な予感がする。
心の準備をしてから、葵はゆっくりと炎をかざした。
それは、牛の首だった。
声の出ない叫びをあげて、葵は顔をそむけた。むせるようなにおいは、血と死臭だったのだ。
密室に牛の生首と閉じ込められてしまった。混乱のあまり、葵はうずくまったまま動けなくなる。
しばらくして暗闇やにおいに慣れてくると、臓器を取られたり僻地に売り飛ばされるよりはましじゃないか、と思えるようになった。
そもそも、なぜマヤは、いやクマリは、自分をこの部屋に閉じ込めたのだろう。
考えた末、葵は一つの仮説にたどりついた。
大学の文化人類学の授業で聞いたことがある。
クマリは、厳しい選考過程を経て選ばれる。その条件の中に、「水牛と山羊の生首が並べられた中庭を歩かせ、恐怖に取り乱すことなく平静を保つことができる」というのがあった。若干二~三歳の子どもにひどいことをするなあ、と思ったものだ。
これは、クマリ選考のための部屋で、自分は例の「一日神様」の素質があるかどうかを試されているのかも。
(さっき見たあのクマリの子も、真っ暗な部屋に一人きりで生首と対面したのね。選考の時は三歳くらいだったはずなのに、これを見て平静を保つなんて、肝が据わってるわ)
葵はためらいながらも、ロウソクの火で牛の首を照らした。
血はあらかじめ抜かれていたらしいが、乾いた血がお盆にわずかに付着している。長いまつげに縁取られた半開きの牛の目は濁り、水分の失われた目玉がしぼんでいる気がした。
ゴルカナが完全な仏教国であれば殺生はしないのだろうが、ヒンズー教も信仰されているので、生贄はいたるところで捧げられる。この牛のことを哀れに思いこそすれ、怖がるのはお門違いだ。
「ごめんね、怖がったりして。君の方が怖かったでしょうに」
葵は正座をして牛に向き直り、手を合わせた。
今度生まれてくるときは、天寿を全うできますようにと祈りながら。
暗い中でじっとしていると、時間の流れがわからなくなってくる。
どこからか甘い香りが漂ってきた。
何だかとても眠い。首が据わらず、がくがくと落ちてしまう。
少しだけ、と葵は床に横たわった。あっという間に眠りの淵に吸い込まれていく。
今度は雅楽が聞こえる。
この曲は、幼い頃に神社で奉納した浦安の舞だ。
巫女装束をまとった九歳の葵が、誰かに呼び止められて振り返る。すぐそばに、金色の目と緑の肌をした
そういえば昔、あの少年から何かをもらった。確か。
「アオイ・ムロブシ」
名前を呼ばれて、意識が現実へと引き戻される。
漂ってきた甘い香りに、ついうとうとしてしまった。
目を開けると、ロウソクの小さな光の中に、少女の顔があった。
下まぶたから跳ねあげるように入れられた目張り、額は赤く塗られ、中央に金色で縦長の目が描かれている。
先ほどのクマリだ。
神々しさすら感じる雰囲気に圧倒され、葵はあわてて上半身を起こした。クマリの背丈は、正座した葵とさほど変わらない。
彼女が、ゴルカナ語で何か言う。
意味がわからず葵が首をかしげてみせると、クマリが思いのほか流暢な英語で「クローズ・ユア・アイズ」と言い直す。
クマリが、赤い塗料が入った小皿をこちらに見せる。右手の人差し指でそれをすくって額をなでるジェスチャーをし、目をゆっくり閉じて、再び葵を見た。
赤い塗料は、ティカらしい。額につけるこの国の装飾で、安全祈願としてつけるもの、祝福として与えるものなどがある。
どうやらクマリは、ティカを授けるから目を閉じろ、と言っているようだ。
言われたとおり、葵は目を閉じた。
小さな指が、額を上から下にすっとなでるのを感じる。
ハッカでも混じっていたのか、なでられたところがひりひりする。その感覚は、むずがゆさに変わった。額を掻きたくてたまらない。
「ゆっくり目を開けよ」
クマリの声がした。
さっきまではゴルカナ語か英語で話していたのに、どうして日本語なのだろう。
言われたとおり、葵はゆっくりと目を開けた。
部屋の中が薄ぼんやりと明るくなっている。
いや、これは部屋ではない。
見渡す限り、くすんだ色彩の地平が広がっている。青い荒野、とでも表現したくなるような殺風景で寂しい光景だ。
(どこなの、ここは。さっきまで部屋にいたはずなのに)
葵が呆然としていると、ティカを授けるときは向かいにいたはずのクマリの声が、頭上から響いた。
「目が開いたようだな」
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