第3話 クマリとの出逢い

 葵を乗せた車が止まったのは、ゲストハウスらしいレンガ造りの建物の前だった。くすんだ色の服を着た村の人たちが、集まってくる。


 ワンピースとズボンを合わせたような民族衣装を着た、四十歳くらいの女性が近づいてきた。この人が世話役らしく、クリシュナが運転席から降りて申し送りをしている。


 後部座席のドアが開けられた。

 どうぞ、とうながされて、葵はゆっくりと降り立ち深呼吸する。


 空気のにおいが日本と違う。土埃が混じっていて、どこか懐かしい。


「日本から来た、アオイ・ムロブシさんです」


 ゴルカナ語と日本語の両方で紹介される。

 葵は、旅行前に覚えた片言のゴルカナ語で「よろしくお願いします」とお辞儀をした。


 先ほどの女性が会釈をし、流暢な英語で話し始めた。

「クマリの世話役のマヤです。私は英語がわかりますので、困ったことがあれば言ってください」


 無表情でとっつきにくそうではあるが、英語が話せる人がいることに、葵はほっとする。


 では四日後に迎えにきますので、と言い残してクリシュナが帰っていく。土埃をあげて去っていく車を見ながら、葵は早くも不安になった。


「こちらへどうぞ」


 慣れないスーツケースを引いて、マヤの後に続く。車輪が小石にひっかかって腕が痛くなるから、持ち上げて運ぶことにした。


 褐色の肌の子どもたちが、物珍しそうに寄ってきて笑顔で話しかけてくる。ただでさえゴルカナ語が理解できないのに、一斉にしゃべられては何がなんだかわからない。


 だが、マヤがきつい口調で何事か告げると、子どもたちは黙って向こうに行ってしまった。


「クマリのところへ向かうから通して、と言ったんです」


 葵の多少非難めいた視線に気づいたからか、マヤが抑揚のない声で言う。


「えっ! クマリにお会いできるんですか! すごい」


「別にすごいことではありませんよ。クマリは誰にでもお会いになります。それに、明後日からお祭りですので、旅人は来訪神として遇されるのです」


 通訳のクリシュナが言っていた「一日神様」の話だ。


「民家に宿泊する予定はキャンセルです。アオイには特別に、クマリの館に滞在してもらいます」


「え」


 言葉を失って立ち止まった葵に、マヤが訊ねる。

「不満ですか?」


「いえ。……逆に、いいのかな、と思いまして」

「もちろん。ただ」


 言葉を切り、マヤが品定めするような目でこちらを見つめる。

「大丈夫とは思うけれど念のため。……あなた、男性経験は?」


 一瞬何のことかわからなかったが、処女かどうか訊かれているのだと気づく。葵は激しく首を振った。


「ないです! ありません!!」


 初対面の人に立ち入ったことを訊かれて、葵は耳まで熱くなる。なんなのこのセクハラ! と思ったけれども、考え直す。処女神クマリの館に滞在するのなら、処女でなくてはいけないのだろう。


「よかった。最近の日本人は、未婚でも経験のある人が多いから。一緒に来る予定だったご友人とか」


 え、と声をあげると、マヤはしまったという表情をして、早足で歩き始めた。葵もあわてて後を追う。


 確かに、鏡香にはカレシがいる。デリケートな話だから踏み込まないけれど、一人暮らしの彼のところに何度か泊まったらしいから、そういうことだろう。


 しかし、なぜマヤにわかったのだろう。


 クマリの館は、煉瓦と木でできた古い建物だった。飾り窓の彫刻模様に、不思議と懐かしさを覚える。


 うながされて門を通る。通路は、そのまま中庭につながっていた。ここまでは、誰でも入れるらしい。

 ロの字型の中庭には賽銭箱が置いてある。クマリのお姿を拝見したら、浄財を入れるようだ。


 三階の窓を見上げる。一カ所だけ金色に塗られた窓枠がある。


「クマリ!」


 三階に向かってマヤが叫ぶ。しばらくすると足音が近づいてきた。


 ひょい。


 そんな擬音語が聞こえてきそうなほどてらいのない動作で、金色の窓枠から少女が顔を出した。もっと仰々しく登場するのかと思ったけれど、その飾らなさが逆に無垢の象徴にも見える。


(……これが、クマリ)


 真っ赤な服に金色の腕輪、銀の首飾り、そして下まぶたからこめかみまで跳ね上げるように入れられた特徴的な目張りと、額に描かれた縦長の目。


 赤い服を纏ったロイヤルクマリの写真を旅行ガイドで見たときは何とも思わなかったけれど、このクマリは――葵の夢に出てくる少女にそっくりだ。


 クマリがゴルカナ語で短い言葉を発した。


 こちらを直視しているから、葵に向かって言ったらしい。戸惑っていると、マヤが英語で耳打ちした。


「塩はどうした、と尋ねています」


 ソルトという英単語に他の意味でもあるのだろうか。思い当たらない。おろおろしていると、重ねて声をかけられた。


「ナーガから預かっただろう、と」


 そもそもナーガという固有名詞がわからない。首をかしげてみせると、クマリはため息をつき、マヤに向かって何かを告げると、中に引っ込んでしまった。


 お賽銭を入れた方がいいのか葵が迷っていると、「こちらへ」とマヤにうながされる。


 靴を脱いで館の中へ入る。ここは土足禁止らしい。

 マヤについて廊下を進み、いちばん奥の扉の前で立ち止まる。サイドテーブルの籠の中から、マヤが燭台を取り出し、ロウソクに火をつけた。


「アオイ。スーツケースは置いて、これを持って」


 葵が燭台を受け取ると、マヤは扉をゆっくりと開けた。


 中は真っ暗で、どのくらいの広さの部屋かもわからない。電灯がないから、ロウソクを持たせてくれたのだろうか。

 財布やパスポートが心配なので、リュックは背負ったままにして、葵は中に入った。


 小さな炎で照らしてみたが、部屋の中には何もない。椅子も、テーブルも。


 そして、誰もいない。


「マヤさん、あの」


 かけた声をさえぎるかのように、扉を閉められた。

 バタン、という音が暗闇に妙に響く。


 あわてて駆け寄り、小さな炎を頼りにドアノブを探す。

 が、どこにもドアノブがない。中からは開けられない構造になっている。


(うそ、閉じ込められた!?)

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