第2話 ゴルカナ国の一日神様

 またあの夢だ。

 人が登れないような高い山と鏡のような湖、そして赤い服の少女。


 人生の節目で、葵は必ずこの夢を見る。最後に見たのは大学の入学式の日だった。


「……いよいよ実物を見られるのね」


 大学二年生になった室伏葵は、ヒマラヤの小国・ゴルカナのホテルの一室で伸びをした。


 夢の中の高い山がヒマラヤ山脈に似ていることに気づくには、そう時間はかからなかった。本当に夢に出てくる山なのか、なぜこんなにも惹かれるのか確かめたくて、葵はゴルカナ農村体験ツアーに申し込んだのだ。


 一緒に行くはずの友人・鏡香が出発前夜に突然胃けいれんを起こしてキャンセルし、一人きりなのが心細いけれど。


 初めての海外にそわそわしながらホテルのロビーで待っていると、通訳の男性が迎えに来てくれた。葵は車に乗せてもらい、標高二千メートルの山にある農村・ダラナへと向かう。


 通訳のクリシュナは二十代半ばくらいの朗らかな人で、一時間以上の道中で退屈しないようにと、ゴルカナの歴史や文化、日本との共通点などを話してくれた。友人がいないくて一人きりの不安が、少しだけ溶けていく。


「そうそう、明後日に大きなお祭りがあるんです。ムロブシさんは運がいいですよ」


 クリシュナが大きな目を細めて笑うのが、ルームミラー越しに見えた。葵は車の後部座席から、「どんなお祭りなんです?」と訊ねた。


「クマリジャトラという、平和を祈るお祭りです。悪いものがやってこないように、クマリが山車だしに乗って村を回ります。クマリのお姿を見ただけでいいことがある、と言われています」


 ゴルカナの宗教は、ヒンズー教や仏教、民間信仰が混ざっている。

 隣国ネパールと同じくクマリがいて、厳しい条件を満たす三歳程度の幼女から選ばれ、初潮を迎えるまでその任に着く。


 クマリは生き神としてあがめられ、館の奥深くで過ごしており、外に出るのは祭の時だけだという。


 クマリは国に一人ではなく、実は各都市にいる。国王付のロイヤルクマリ以外は、ローカルクマリと呼ばれている。


「首都サハールにいらっしゃるロイヤルクマリも素晴らしいですが、ダラナ村のクマリはとても神秘的で、国王陛下も年に一度お詣りに訪れるほどなのですよ」


 自分も何度かクマリのお姿を拝見したことがある、神々しくて涙が出そうになった、という話を、クリシュナが熱心に語ってくる。


 現クマリが就任した際の新聞記事写真を、大事に切り抜いて持っているのだという。その心酔ぶりに、この国にはクマリ信仰がしっかりと根付いているのだな、と葵は思った。


「ダラナ村では、旅人はとても歓迎されます。よいもの、新しいものを運んでくる神様の代理と考えられているからです。祭の時期は特に、神様として接待されます」


(日本でいう、来訪神、稀人まれびとのようなものかしら)


 国王すらクマリに跪くほど信仰が行き渡っているのだから、かなりよい待遇をしてもらえるのかも、とぼんやりと考えていたら、クリシュナが嬉しそうに言った。


「ムロブシさんは、一日神様です! ラッキーですね!」


(一日神様!? 「一日駅長」みたいに気軽になれるものじゃないと思うけど……)


 神主の孫としては、「一日神様」なんて畏れ多くて腰が引ける。村の人達とちゃんとコミュニケーションが取れるかだって不安なのに。


 ダラナ村に着いたら、ツアー最終日までクリシュナは迎えに来ない。葵はゴルカナ語がしゃべれないし、村人のほとんどは英語がわからない。


「ボディランゲージも農村体験の醍醐味です。言葉が通じなくても、スマイルがあれば大丈夫!」と言われても、引っ込み思案の葵には、うまく笑える自信すらない。予定通り鏡香が一緒だったら、一日神様も含めて楽しめたかもしれないけれど。


 今朝SNSを見たところによると、胃けいれんで旅行をキャンセルした鏡香は、すでに回復して食事も普通に取っているらしく、「まさかのドタキャン!」という書き込みに、そうめんの写真が添えられていた。


「治ってよかった~。これからダラナ村に行ってくるね」とコメントをつけると、「私の分まで楽しんできてね。いっぱい写真撮ってアップして!」と返信があった。


 そうだ、鏡香の分まで楽しまなくては! と葵は自分に言い聞かせる。


 そういえば、ダラナ村にWi-Fiはあるのかしら。クリシュナに聞いてみると、彼は得意げに答えた。


「ないと思いましたでしょう? あるんですね、これが!」


 国王の施策で、山間部の情報孤立を避けるため、インターネット環境の整備が進んでいるのだという。ダラナ村にも、共同で使っているWi-Fiがあるそうだ。


 ゴルカナはここ数年で、インターネットの利用環境が目覚ましく発達した。携帯電話本体は日本円で千円程度で買えるし、サイバーカフェの利用料金は五十円程度。喫茶店のお茶代が約十円というから、多くの人が気軽に利用しているらしい。


「そうだ。私のメールアドレスを教えておきます。何かあったら、連絡をください」


 クリシュナが片手でハンドルを握りながら、もう片方の手で、メールアドレスと電話番号が書かれた名刺を渡してくる。

 一人きりの農村ホームステイで、いざとなったら連絡できる人がいるのは心強い。


「何もなくても連絡してもらって大丈夫ですよ。寂しくなった、とか、話し相手が欲しい、とか」


 クリシュナがほほえむのをルームミラー越しに見て、「ありがとうございます」と葵もほほえみ返す。


「そろそろ着きますよ」


 標高が高いせいで、雲が眼下に見える。

 舗装されていない坂道をガタガタ揺られながら上っていくと、小さな村落が見えた。子どもたちが嬉しそうに手を振っている。本当に来客は歓迎されるらしい。


 再び「一日神様」という言葉が葵の頭をかすめた。

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