常世のクマリと塩の巫女
芦原瑞祥
第1話 潮満珠と潮干珠
「葵」
名前を呼ばれて、巫女装束のままの室伏葵が振り返ると、目の前に、飛び出した金色の目玉と大きな牙があった。
「ひゃあっ」
思わず悲鳴をあげてしまったけれど、よく見るとただのお面だ。
頭巾からのぞく顔は青緑色で、金色の頭髪と髭がついている。これは、舞楽・
脅かさないでよ……と跳ね上がった心臓を落ち着かせながら、葵は相手を観察した。
背丈は、小学五年生である葵と大差なく、橙色の
葵も神主である祖父の縁で、三が日に神前で浦安の舞という巫女舞を舞っている。小学二年生のときから四年間毎年舞い手を務めていたが、さっき踊ったのが最後の奉納だった。
(この子、誰なのかしら)
舞楽の衣装をつけているから、神社関係者なのだろう。でも、小学生の舞い手は、浦安の舞の四人だけのはずだ。
「良き舞であった」
どうやら葵の舞を褒めてくれたらしい。声の感じでは、男の子みたいだ。
その怖いお面は取って欲しいな、と思いながらも言い出せず、葵は「あ……どうも」と口ごもりながら一礼した。
「正しい足運びであった。ちゃんと地を固めて、悪しきものを封じられたであろう。これができたのは、今までで其方だけだ」
何のことだろう。葵が首をかしげていると、青緑色のお面の下から声がした。
「褒美を取らす。両手を出すがよい」
(手を出せって、いたずらとかされたらやだな。でも、もし偉い人の息子だったら、逆らうとおじいちゃんに迷惑をかけるかもしれないし。)
葵は仕方なく、両手のひらを上に向けて、おずおずと差し出した。
青緑色のお面の少年が、葵の右と左の手のひらを銀色の
(え、手に何か乗ってる!?)
何もないはずなのに、ひんやりしたものが乗っているような感触に驚き、葵は手を握って引っ込める。
ふと見ると、左右の手の甲に、ビー玉ほどの大きさの瘤ができていた。
「やだ、何これ」
突然できた瘤を、指で触ってみた。丸い石状のものが、皮膚の下でごろごろしているのがわかる。
「右手が
その名前には聞き覚えがあった。
確か、海幸彦山幸彦の神話に出てくる、潮の満ち引きを操ることができる珠だ。
「右手を天にかざしてみよ」
少年に言われて、よくわからないままに葵が右手をあげると、突然冷たい雨が降り出した。
あわてて葵はひさしの下へ入る。借り物の巫女装束なのに、濡れたら大変だ。
白衣や緋袴についた雨粒を払う。
(あれ? なんだかべたべたする)
手のべとつきを嗅いでみると、かすかに潮のにおいがした。すぐそこにある海ではなく、この雨水のせいらしい。
雨なのにどうして潮のにおいが……と不思議に思って舐めてみると、やはりしょっぱい。これは塩水だ。
「うそ。なんで」
「それが
「今度は左手を掲げてみよ」
言われるままに、葵は左手を天に向けてみる。その途端。
雨がぴたりとやんだ。
「
葵は、瘤のできた両手をまざまざと見た。
まさか自分が、神話に出てくるような力を手に入れるなんて。
学校の班分けで、いつも最後まで余っているところをお情けで混ぜてもらっている地味な自分が、いきなりマンガの主人公になったみたいだ。
「すごい! おじいちゃんとおばあちゃんに見せてあげなくちゃ」
「むやみに人に見せてはならぬ!」
少年の強い口調に、はしゃいでいた葵は黙り込んだ。
この特殊能力のことが知られたら、いろいろとまずいのかもしれない。……悪い組織に命を狙われるとか?
「それと、一つ頼みがある。耳を貸せ」
少年に言われて、葵は体をねじり右耳を向けた。
「 」
聞こえてきたのは確かに言葉なのだろうけれど、葵には意味がまったくわからなかった。外国語かもしれない。
異国の音楽のような言葉に聞き入るうちに、葵は頭がぼんやりとしてきた。
意識が空へ空へとのぼっていく。気づくと、とても高いところから地上を見下ろしていた。雲に覆われた大地と、海がみえる。
氷に覆われた高い山々が目に留まる。人が近づくことのできない、神々しい山。
ゆっくりと高度を下げると、巨大な鏡のような湖があった。水面に映る空は底が知れないほど深い蒼で、どちらが湖か空かわからない。
さらに降りていくと、小さな村落が見える。
土埃の舞う道を抜けると、茶色い煉瓦と木でできた三階建ての館があった。細かな彫刻の施された木枠の窓が並んでいる。
一つだけ金で塗られた窓枠から、誰かが顔を出す。
赤い服を着て、白い花や黄金の装飾品をつけた少女だ。
こちらに向かって手を振っている――。
「葵ちゃん、葵ちゃん」
呼びかけられて目を開けると、あの少年はいなかった。
浦安の舞の稽古をつけてくれた神主が、心配そうに見下ろしている。
「大丈夫? 今年は三が日ずっと出ずっぱりだったから、疲れたのかな」
「いえ。……あの、男の子はどこへ行きましたか?
神主は首をかしげた。
「正月は、
この神社の摂社・
そういえば、
(じゃあ、さっきの男の子は、神様!?)
畏れおおさに、今さら冷や汗が出てくる。葵は
せっかくの能力だけれど、むやみに使わないよう神様から言われては、家族に自慢することもできない。
けれども、自分には特別な力があるんだと確認したくて、葵は一人のときにこっそりと潮の雨を降らせた。
それは大抵、学校でクラスメイトとうまく話せなかったり、仕事で忙しい両親と何日も会えなくて寂しかったりしたときだった。
軒先からしょっぱい雨を見ていると、ちょっとだけ強くなれる気がした。
しかし、葵の秘密は、早々に知られることとなってしまった。
庭の木が、枯れてしまったのだ。
椿の葉は茶色くなり、祖母が育てていた山野草の鉢植えにいたっては、すべて黒ずんでしおれてしまった。
松だけは青青とした葉を保っていたので、祖父はこれが塩害だと見抜いた。
実際、庭にはごまかしきれないくらい、潮のにおいが漂っていた。
神主装束のまま家に戻ってきた祖父は、葵の手の甲の瘤に触れると顔を曇らせた。
「……葵、これをどこで」
知られてはいけない。葵は無言で首を振った。
「そうか、神様に気に入られたか」
祖父が、葵の両手を握ったまましゃがみ、こちらを見つめてくる。
「目が開きかけている。これは、子どもの手には余る」
手を離すと、祖父は左手で葵の前髪をあげ、右の人差し指で額の中央を押さえた。
「目を閉じて眠りなさい。まだその時ではない」
額の押さえられた部分が火傷しそうに熱くなったところで、葵の意識は途切れた。
その日から三日間、葵は寝込んだ。
そしてそれきり、
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