第62話 彼の名は



「……悪かったわね」


 口にしてから、自分が謝ったような気がして落ち着かない。

 こんな言葉一つで許されるわけがない過去を、許せと強要したみたい。


「手間を掛けさせて悪かったわね」

「別に」


 マンションから私物をいくつか持ってくるよう頼んだから、その手間に対して。

 言い直した言葉に特別な感情を見せることもなく、素っ気ない態度で返して、それから鼻で笑った。


「こんな姿を見る機会なんてなかなかないでしょ。司綿さんとの約束までの時間潰しくらいにはなるもの」

「……」



 大きな病院には特別な部屋がある。

 大物政治家などが入院する為の個室。ホテルのスイートルームと似た特別病室。

 付き添いの人間が泊まれるよう続き間の別室があったり、ジャグジーやサウナもあったりする。一般人が入ることはまずない。

 そんな贅沢な病室に息を潜めて閉じこもっている埜埜を見て、次女は鼻で笑った。


「私服警官に囲まれて入院だなんてお似合いじゃない」

「……悪かったわね」


 皮肉のやり取り。

 これが娘と埜埜の関係。今更変わるわけもない。

 ずきりと、塞がりかけている傷が痛んだ。



「マンションの方も警察だらけ。あの夜みたいに、ね」

「……」

「姉さんが救急車を呼んだのは司綿さんの為。あなたの為じゃなかった」

「言われなくても……」


 詩絵は狂乱しながら救急車を呼んだ。

 彼を刺したからというより、その前の平手打ちで目が覚めたように見えた。


 ぱん、と。

 なんだか神社をお参りをするような音が響いて、狂気に酔っていた詩絵が我に返った。

 泣きながら救急車を呼んで、駆け付けた救急隊員が最初に見つけたのはドアから這い出した血まみれの埜埜。


 ――大丈夫ですか? 傷の状態はわかりますか?


 救急隊員の呼びかけに埜埜は首を振った。

 わからないのではなくて、そうではなくて。


 中に、もっとひどい怪我人がいるから。

 彼を助けてと、泣きながら詫びるように伝えた。

 こんなに痛い目に遭って初めて、自分が間違っていたのだと知る。

 何もかもいまさらだけど。



 病院に運ばれた翌日、詩絵が緊急逮捕されたことと彼の怪我が命に係わるものではなかったと知った。

 もう少し経ってから詩絵が怨みを綴ったブログの存在も。

 警察から事実確認をされながら、怖くなった。


 最低の親。最低の人間。

 刺された被害者だけれど死んだ方がマシなクズ。

 誰も彼もがそう見ているかのように感じて、怯えて取り乱してしまう。


 世間でも、今回の事件がそのブログの当事者だと広まっていったのだと。

 一般病棟ではどういう騒ぎになるか予測がつかないからということで、VIP用のこちらに移された。


 警察による厳重な護衛と特別に贅沢な部屋。

 昔の干溜埜埜だったなら、自分の立場もわきまえずこの状況に浮かれたかもしれない。

 炎上するのを楽しむネット配信者のように、世間の注目を浴びて悪女の顔で笑えたのかも。


 だけど、気づいた。

 自分がどうしようもなく幼かったのだと。

 幼稚な埜埜は娘たちをないがしろにして、善良な若者の人生を踏みにじった。


 あんな風に足蹴にしたのに。

 彼は、埜埜を守ってくれた。娘を助けようと必死だった。

 庇われている時に彼の涙が埜埜の頬に落ちて、ようやく埜埜も気づく。


 全て自分が蒔いた種。この痛みも娘から向けられる冷たい視線も、ナイフも。なにもかも自業自得。

 それなのに彼は、埜埜と娘を助けようとしている。


 物心がつくという。

 子供が自分自身というものを自覚するように。

 幼いままだった埜埜に、初めて自分が無責任で身勝手だったと気が付かせてくれた。彼の献身が。



「司綿さんは今日退院だから、もうこんなところ来ないから」

「……つか」


 出ていこうとする娘に言いかけた言葉を飲み込む。

 呼んではいけない。

 埜埜に彼の名を呼ぶ資格などない。娘が許してくれないだろう。



「彼に、ありがとうって……それと、ごめんなさいと伝えて」

「いやよ」

「そう……そうね」


 ふん、と。

 娘は不満そうに腕を組んで埜埜を睨んだ。

 都合のいい頼み事。どんな了見で埜埜が彼に礼や詫びを言えると思うのかと視線で責める。



 そうだ。

 この子がお腹にいる時だった。


「昔」

「……」

「あんたが産まれる時、他の人はアタシをどんな風に言ったと思う?」

「はあ?」


 唐突な昔話に怪訝そうな声を漏らしてから、軽く唇を尖らせて。


「身の程知らず? 恥ずかしいとか、笑いものにしたんじゃない?」

「だいたいそんな感じよ」


 十代で妊娠出産。一人目は父親不詳で、続けて二人目。

 そんな風に言われるのも無理はない。


「だけど、違う人もいた」

「……」

「笑わないでいてくれた人がいて……だからあんたを産んだの」

「感謝しろって言いたいの?」

「別にアタシに感謝しろなんて言わない。そういう真面目な人がいただけ。その人には感謝してほしいと思う」


 娘は眉を寄せて首を傾げて、短く息を吐いた。


「わけわかんない。司綿さんとの約束の時間だからもう行く」

「舞彩」


 直接刃物を向けた長女とは違うけれど、埜埜への感情は大差ないだろう。

 心と体が弱った今だから、妙に素直な気持ちになれた。


「ごめんね」

「……謝らないでよ。許せないから」

「……そうでしょうね」



 病室を出ていく娘の背中を見送り、大きくなったのだと知る。

 自分があの子を産んだ時と年齢は近い。舞彩は彼と結婚しているのだと聞いた。知らなかった。


 彼。

 埜埜がかつて踏み台にして人生の墓場に蹴り落とした彼。

 名前を呼ぶことも許さないと言われたけれど、いつか会えたらちゃんと言いたい。お詫びと、いつかの恩を返したい。



「ありがと、シカくん……」


 娘たちの知らない彼のあだ名を呼んでみたらなんだかくすぐったくて、傷の痛みが薄らいだ気がした。



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