第63話 思索の檻



「待たせてごめん」

「……」


 何もない部屋。

 ベージュ系の壁と天井。高い位置に換気用の小さな窓があるだけで、特徴的なのは一つの部屋を真ん中で区切るアクリル板とカウンターテーブル。

 こちら側のカウンターの前の椅子に座って待っていた。


『アクリル板には触れないで下さい』

『物品の受け渡しは出来ません。別途手続き申請をして下さい』


 板に張り付けてある注意書きのシールと、部屋の入口近くで見張っている担当職員を見ながら詩絵を待っていた。

 僕の側は男性の職員だったが、向こう側から詩絵を連れてきたのは女性職員だった。そのまま部屋の反対の隅の小さな机に着いた。

 机も椅子も床に固定されているのは、振り回して暴れたりさせないようにだろう。詩絵がそんなことをするはずもないけれど。



「遅くなってごめん。僕は君の家族じゃないから許可が出るまで時間がかかった」

「そうですね」


 家族じゃないから。

 紙切れ一枚の手続きでもしておけば違ったのだけれど。


 そうでなくとも傷害事件の当事者同士。簡単に許可が出るわけもない。

 僕が被害届を出さないから加害者と被害者という関係ではないにしても、許可を出して問題が起きたら誰が責任を取るのかとか。世の中は色々と面倒なものだ。



「免許を取ろうと思っているんだけど、いいかな?」

「私の許可はいらない、でしょう?」

「詩絵が出る時に君の車で迎えに来たいんだけど、間に合わないかも」

「……」


 何から話そうか散々悩んで、世間話みたいな内容になってしまう。

 それでも僕の意志を伝える。詩絵を迎えに来たいのだと。


「……後ろから刺されると思わないんですか?」

「髪が伸びてきたから、また詩絵に切ってほしい」

「司綿」

「思わないよ、そんなこと」


 詩絵と舞彩は互いの髪を切り揃えていた。僕も一度切ってもらっている。

 刃物を手に、首の後ろに立って。


「思うわけがないだろう。詩絵が僕を刺すなら僕が悪いに違いない、仕方ないよ」

「冗談はやめてください」

「本気だから」

「……」

「詩絵は僕を刺したりしない。疑ったこともないし、これからも疑わない」


 アクリル板の向こうで詩絵がねめつけるように僕を見た。

 知っているくせに。

 わざと、意図的に、傷つけるつもりで刺したと知っているくせに。



「……怖くないんですか?」

「怖くないよ」

「私はあなたを刺したのに」

「事故だよ」

「違います。そうでないとあなたは知っていて、そんな私が傍にいたら」

「傍にいてほしいから来たんだ」


 留置所には何もない。考える時間以外は何も。

 事件のことを聞かれて、動機を聞かれて、当時の行動を聞かれる。

 聞かれているうちにすごく悪いことをしたような気分に陥ってしまう。誰もが自分を責めているような気がして、寝る時にもそれを思い返して陰鬱な気分が巡回する。

 僕もそれを体験した。


「君は何も悪くない……いや、お母さんに怪我をさせたのは悪いけど」

「……」

「そこまで君を追い込んだ周りにも責任がある。止められなかった僕も悪い。君だけが責められることじゃない」


 追い詰めない。

 違う方向を示す。

 彼女が自分を許せるように。



「……なんて」


 はぁ、と。

 溜息を吐いた。


「詩絵は頭がいいから、僕のこんな上っ面の説得じゃ聞いてくれないんだろうとわかっているんだ」

「……気を遣われているのはわかります」

「僕がちゃんと気が利く人間だったら、もっと良い方向に変えられたんだと思う。自分が情けないよ」


 詩絵は出所した時の僕の心にすんなりと染み込む言葉をくれた。

 世の中なんてみんな敵だと思っていた僕に、そのように。

 自分と同じ考えだから素直に耳に入り、彼女たちを味方だと感じさせてくれた。

 ずっと入所していて世間を知らなかったとはいえ安直な。全てが間違いだったとは思わないけれど、一面しか見ていない狭い視野。


「口下手な人だと知っています」

「そう?」

「この数か月で知りました……司綿のことを」

「そうだね」


 うまく口が回る方じゃない。

 緊張すれば特に、言いたいことの半分どころか一割程度も言葉にできない気がする。


「司綿から急に気の利いたことを言われたら、その方が不安を感じたと思います」

「褒められているのかな?」

「そうですね」


 今度は詩絵が溜息を吐いた。

 アクリル板越しだけれど少し肩から力が抜けたように見える。



「舞彩も一緒に来られたらよかったんだけど」

「……来ましたよ」

「?」

「司綿が入院している間に面会の申請に」


 詩絵が安心して帰ってこられるように舞彩も来てくれたらと思っていたのだが、同行を断られた。

 舞彩は肉親だから僕より簡単に許可が下りるはず。

 面会したとは一言も教えてくれなかったのだが。


「私が断りました」

「……」

「あの子に会えば何を言ってしまうか……わからなくて、逃げました」


 舞彩の申請は通ったけれど詩絵が拒絶したのか。

 だから一緒に来なかったのだと理解する。


「八つ当たりをしてしまいそうで」

「詩絵、それは……」

「あなたに言われた通りです。私はずっと、自分の不幸を舞彩に八つ当たりしていた」


 舞彩に八つ当たりするな、と。

 痛みで意識が飛びかけていた中で僕が詩絵に言った。

 詩絵の頬を張って、確かに。


「舞彩は私の代わりなんかじゃない。あなたがそう言いました」

「言ったけど……」

「舞彩が死んだら私のせいだと、干溜ひだまり埜埜しょのにそう言われた時から……あの子は私の重荷で、足枷で、邪魔者でした」

「詩絵、違う」

「前にも言いましたね。子供なんかいるせいで自分の人生は最悪だと。そう聞かされて育ったんです」


 詩絵のブログに綴られていた。

 その存在を知らなかった僕は退院してから初めて読んだ。

 彼女が胸の中に溜め込んだ暗い気持ちが文章になっていて、読んでいるうちに眩暈すら覚えるほど。



「私は違う。私は埜埜とは違う、舞彩がいなければなんて絶対に考えない」

「あぁ」

「だけど辛くて、苦しくて。なんで私が姉だからって舞彩のことばかり考えていなければいけないのかって」

「……」

「考えてしまいそうになるんです。いなければ楽になれる……その気持ちを認めたら私は埜埜と同じ。あの女と同じ」


 干溜埜埜への強すぎる嫌悪感が強迫観念になって詩絵を縛り付けたのか。

 舞彩を嫌ってはいけない。舞彩を疎んではいけない。

 幼かったのは詩絵も同じだけど、お姉ちゃんだから詩絵が我慢して頑張らなければ。そんな風に。


「舞彩を嫌いにならないように思い込んだんですね。あの子が私の身代わりだと」

「……」

「私の分身だから、舞彩が幸せになれば私が幸せなのと同じ。その為になら何でもする」


 代償行為と言うのだろうか。

 自分が満たされないから、別の何かで満ち足りた気分を得ようとする。

 ニート時代に言われたことがある。何もできないから空想に逃げようとしているとか。

 詩絵の場合は、最も近くにいた舞彩に自分の心を押し付けようと。


「舞彩に私の時間を尽くしました。愛して甘やかしているつもりで、私がしていたのは角砂糖で舞彩の心を磨り潰すみたいなことです」

「そんなことはない。君はちゃんと」

「司綿に叩かれて、叱られて気づきました。八つ当たりだったんです」


 舞彩の気持ちをまるで考えない詩絵の言動に、ついかっとなってしまったことを少し後悔している。

 必死だったから、出血と痛みで頭が朦朧としていたから。極限状態とはいえ詩絵の頬をぶってしまった。

 虐待を受けてきた彼女たちに手を上げるなんて、絶対にしないつもりだったのに。



 叱らないのも虐待の一種なのだとか。

 相手に関心があるのなら、叱るべき時にはちゃんと叱るのが正しい人間関係。

 詩絵は舞彩を叱らなかったし、舞彩も詩絵を叱ることはない。歪んだ形になってしまった一因でもあるのだろう。

 僕もまた、詩絵の過ちを叱ることが出来なかったから。


「……舞彩が憎らしかった」

「……」

「大変なことは私に押し付けて頷いていればいいだけの人形」

「留置所だと悪いことばかり考えちゃうんだ」

「私はあの母親と同じ……もっと醜くて、ひどい」


 全部自分が悪い。何もかも。

 そんな思考に陥った人間はなかなか心を開いてくれない。

 僕がもっと立派な人間だったなら。彼女の心を開く要点を掴み、軽妙な会話でそう誘導できればよかったのだけれど。

 そう願ったところで急に自分が変わるわけもない。ただ自分の中にあるものだけで詩絵と向き合うしかない。



「詩絵」

「……」

「僕は君に助けられた。今度は君の助けになりたいんだ」

「助けてくれたのは――」

「あの夜も、出所した日からも。君のおかげで僕は自分を失わなかった。僕は君に救われたんだよ、詩絵」


 ただ正直なくらいが取り柄の僕。

 そんな僕が道を失わなかったのは詩絵のおかげだ。


「父さんに会った。僕のことを、女の子を守った自慢の息子だって言ってくれたんだ」

「……」

「そうだった、兄さんが……ああ、その」


 ちらりと周りに目を走らせた。

 兄がフクロウ。卑金の殺人教唆などのデータを流出させたネット犯罪者。

 留置所の職員がいる前で言ってはよくないだろうと、言葉を迷わせる。


「ええ、そう・・だと思いました」

「……兄さんも、君に会いたいって」


 勘付いていたらしい。僕よりずっと明敏な詩絵なのだから不思議はないか。

 逮捕される前からなのか、その後なのかはわからないが。



「君に会わなければ、僕はたぶん今でも部屋に引きこもって家族に迷惑をかけるだけのクズだった」

「そんなこと……」

「本当だよ。引きこもりニートさ」


 何をするにもやらない言い訳ばかり。

 世の中のニート全部がそうではないかもしれないが、僕はそうだった。

 病気や何かではない。やりたくない、失敗したくないからやらない。そんなダメ人間。


 そんな僕を変えてくれたきっかけが詩絵と舞彩だ。

 あの頃の僕に、両親にとって自慢の息子になれる未来なんて想像もできなかったのだから。彼女たちにはどれだけ感謝しても足りない。


「今度は僕が助けたい。詩絵の助けになるなら、何でもしようと思って」

「……何でも?」

「ああ、そうだ」


 僕だって考える時間はあったんだ。

 詩絵が自責の渦に落ち込むのと同じくらいの時間が。

 自分が大した長所を持ち合わせていないこともわかっている。それでも勝たなければいけないのだから、今日はちゃんと考えてきた。



「僕も、ひとつくらいはズルをしても許してもらえると思うんだ」


 年齢だけは僕の方が上なのだ。

 年下の女の子を何としても口説き落とす為に、狡いことのひとつくらい思いつく。



  ◆   ◇   ◆

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