第56話 一生懸命、お姉ちゃん
冷蔵庫の横で腰を抜かしてこちらを見上げる女。
そもそも華奢な体躯だが、見下ろせばことさらに矮小なだけの存在に映る。
「なにをするつも――っ!」
言葉で説明してもわからない。どうせ。
鍵の代わりに手にしたナイフを顔近くめがけて横に振れば、慌てて顔を守ろうとするのも自然な反応。
目を背ける防御姿勢になった埜埜のむき出しの足にナイフを突き立てた。
「ぎゃああぁっっ!」
「私が声を上げたらもっと叩きましたよね?」
「っく、ぅあ……」
突き刺さった痛みに悲鳴を上げたけれど、その後の声を堪えようと自分で口を押える。
ほら、やっぱり。
言葉より痛みの方がちゃんと伝わる。私とこの女の間では。
血に濡れたナイフを手に、はふはふと息を漏らす埜埜の前で頷いた。
左足の裏にはさっき踏んだガラスで深い傷が。
今のナイフで右足の脛がぱっくりと裂けている。これで簡単に逃げられることもない。
「あ、謝るから……あんたが私を、恨んで」
「別にいいです。謝らなくて」
言葉を交わすのはこれから。
聞く姿勢にさせてから、ゆっくりと話せばいい。
これまでずっと、この女は詩絵の言葉など聞こうとしなかったのだから。
「本当にどうでもいいって、そう思っていました」
「は、うぐ……っ」
「あなたのことなんて。ずっと」
恨まれている自覚があっても何もしてこなかった。
謝罪も贖罪も、何かしら互いの関係を埋めるために何かすることもないまま今日まで来て。
わかっている。何もできないと高をくくっていたのだろう。
詩絵には何もできない。反抗も反論も、非難されるべき埜埜の行いを糾弾することもない。
「そう、あなたの感じた通り。私はあなたに何も思っていなかった。もうどうでもいいゴミのような物だから、わざわざ会いに来るつもりなんてなかったんです。昨日までは」
「こ、こんなことを……母親にする、なんて……っ」
「……そうですね、お母さん」
もう一度、口にしてみた。
その響きがひどくおかしくて笑いが漏れる。
「ふふっ……そう、私のお母さんですか」
「う、うたえ……あんたは……」
「昨日ね、そう思ったんです。そうだったんだなぁって」
情けなく尻もちを着いたまま壁に張り付く彼女と目線を合わせる為にしゃがんだ。
もっとよく見ようと。
「ねえ、聞いて下さい。お母さん」
「なに……なに、を……」
「世間では、子供は自分が体験したことを親に話すものだそうです。聞いて下さい、お母さん」
まるで本当の親子のように、私の話を聞いてと。
悪ふざけ。私の今までの時間の答え合わせを報告させて。
「昨日、司綿に抱かれながら感じました。自分があなたから生まれたものなんだと」
胸に戻ってくる熱を片手で抑えながら頷く。
濡れたこの女の股から生まれた、卑しい自分。
「なんの、話なの……」
「あなたからもらったものです。いつか舞彩が誤嚥で救急搬送された時を覚えていますか?」
「うく……覚えて、るわよっ」
「その後、私に言った言葉を覚えていますか?」
救急車騒ぎなんてそんなに多くない。記憶に残っているだろう。
幼児期の舞彩が何か変なものを口にして病院に運ばれた。すぐに処置をされて無事だったのだけれど。
「……」
覚えていない。
この女は、八つ当たりで詩絵に何を言ったのかまるで覚えていない。
――あんたお姉ちゃんでしょう!
――舞彩が死んだらあんたのせいよ!
――ちゃんと見てなきゃ舞彩が死ぬのよ!
お前が悪い、お前のせいで妹は死ぬ。
「――そう言ったんです。家に帰った後に」
「その、その時は……アタシだってびっくりして」
「幼かった私がどう感じたか、わかりますか?」
「わか……今なら、わかるから、ごめ――」
「嘘です」
もう一度ナイフを振るうと、暴れた埜埜の足の甲に赤い線が走った。
「ひぎぃぃっ! やめっ」
痛みで暴れる埜埜から少し離れて首を振る。
情けない。
「幼い私が、自分のせいで妹が死んでしまうって。そう言われてどれだけ怖かったのか」
わかるはずがない。
この女に、他人の気持ちを想像するなんてできない。
「舞彩が死んだら私のせい。舞彩に何かあったら私が悪い」
「い、いたいの……もう、やめて……」
「必死でしたよ。けれど娥孟のような男に逆らう力もなくて、タバコの火を押し付けられました」
守らなければならない舞彩を守れなかった。
私が悪い。
私が悪い。
そう思って過ごしていたら、気が付いたら舞彩が衰弱していた。
何も食べようとしない。起きてくれない。
「私は舞彩を死なせる悪い子だと……」
「ちがう……ちがうの、だから」
「今は私が話しているんですよ、お母さん」
ナイフをびゅっと振ると、残っていた血が埜埜の顔にかかった。
歯を鳴らしながら頷いて口を閉ざす。
「……助けてくれたんです」
「……」
「絶望して泣いていた私に、あの人が……もう大丈夫だよって」
優しい思い出。
月明かりの下で、ベランダのガラス越しに。
「神様だと思いました。舞彩を預かってくれて、私を助けてくれる神様だって」
「……」
「それをあなたが」
神様でヒーローで、私の王子様。
暗いゴミ溜めの底で泣いていた詩絵に手を差し伸べてくれた。
「あなたみたいな下劣な女があの人を貶めた。下水より汚い言葉で彼を牢屋に追いやったんです」
「い……」
「周りの誰も彼も、あの人を犯罪者扱い。被害者面をしたあなたをもてはやして」
悔しかった。
うまく説明できない自分が。誰にも話を聞いてもらえない、聞いてもショックで混乱しているんだって。
もちろんまだ幼かったせいもあるけれど。
「私のせいで、司綿の人生を壊した。私が悪い」
「つか……」
「お前が口にしないで」
公衆便所よりも汚い口であの人の名前を呼ばないで。
そんなことをするなら、その舌を切り取ってあげる。もっと早くにそうすればよかったのかもしれない。
「司綿は私のヒーローです。司綿のおかげで世間の注目が集まり、舞彩と私の環境は少しよくなった」
「……」
「あれからしばらくは、放置していた予防接種なんかにも連れていってもらえましたものね。お母さん」
ちやほやされるのは気分が良かったのだろう。
だから逆に、虐待を疑われるような要因を潰していった。
「たぶん、私の目はひどく冷めていたんでしょう。あなたが近くに置きたくないと思った気持ちも少しはわかります」
「……」
「責めているんじゃありませんよ。別々の生活は私にも都合がよかったんですから」
埜埜の本当の顔を知っている詩絵。
冷たい視線を向けられるのを嫌がったのも当然だろう。
自分は卑金のマンションに。詩絵たちは雑居ビルに。予防接種だとかどうにもできない用事以外は会うこともなく。
生活費は用意されて、近くのスーパーでは当初不思議がられた。
声を掛けられるのが面倒だったので、親がヤクザ関係だと言ってみると自然と関わり合いになる人は減った。自然なこと。
歓楽街に近い町のこと。そんな事情の家庭があっても不思議はない。
一度、不審者に付け回されたこともある。
警察が巡回している場所で防犯ブザーを鳴らしたら、その後は現れなくなった。
「不安に押し潰されそうな時も、司綿が助けてくれた舞彩を私がどうにかしなければと。一生懸命でした」
「ん……」
「一生懸命という言葉はですね。一生、命を懸けてって書くんですよ。知っていましたか?」
ぶるぶると小刻みに首を振る埜埜。
私はこの言葉が大嫌い。
「舞彩に、私の時間の全てを捧げました。私の人生の全部を」
「……」
「私はあなたとは違う。あの子がいなければなんて言わない。舞彩は私の全部です」
舞彩が死んだら私のせい。
舞彩が不幸になったら私が悪い。
逆に。
「舞彩の幸せが、私の幸せです」
私が生きた時間は全て舞彩に注いだ。
司綿が助けてくれた舞彩を、司綿が帰ってくるまで。
「舞彩は私。私の分身です」
「う、うた……」
「あの子は幸せになる。司綿と一緒に幸せに。ずっと」
子供の幸福を願わなかった埜埜なんかとは違う。
詩絵は埜埜とは違う。だけど。
「でも……司綿が言ってくれたんです。聞いて下さい」
ポケットからスマートフォンを出して、スピーカーで再生する。
彼の言葉を。
「
――詩絵。
司綿の優しい声。甘い声。
――愛している、君を。誰よりも。
「私が、司綿の一番」
「う、うた……」
「舞彩は私の代わりに司綿に愛される。私の代わりに、私の幸せな未来を生きるんです。だって」
上手にできたでしょう、お母さん。
これで私も舞彩も幸せ。
あの子には私の全部をあげたのだから、詩絵が幸せになるのとおんなじ。
言いつけ通り、舞彩をちゃんと育てましたよ。
「私の気持ちの全部……全部を、あの子にあげましたから。あなたからもらった暗くて嫌な気持ちをみんな詰め込んだ、私なんですから」
司綿の一番は詩絵。
舞彩じゃない。詩絵。
司綿は舞彩を大事にしてくれる。詩絵の代替え品として。
詩絵の人生を捧げた舞彩は、そうと知らないまま彼に愛される。
それに悦ぶ自分に気が付いて、汚い干溜埜埜とおんなじだと思ったのだ。
だとしても、詩絵は舞彩がいなければなんて言わない。舞彩の幸せな未来を想像するだけで詩絵は満たされる。本当なら詩絵が甘受すべき時間を過ごす舞彩のことを。
このまま詩絵が近くにいたら、どうだろうか。
司綿はまた間違える。
あの夜、間違えたみたいに。差し伸べるべきではないところに手を伸ばしてしまう。彼は優しくて、正しい人だから。
詩絵は傍にいない方がいい。
最初から予定通り。いずれ警察の手が伸びてきた時には詩絵の身で罪を受けるように考えて、そうなるよう準備もしてある。警察だって無能ではないはずだから。
最後に会いに来ることにした。どうでもいいと思っていた母に。
「あ、あんた……おかしい……でしょ」
「ええ」
もちろん。
「あなたの娘ですから」
◆ ◇ ◆
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