第57話 笑えない昔話
二人目が産まれる少し前だったと思う。
結婚したものの、産むのは女の仕事というかのように夫は素っ気なくなっていって。
生活の為に働かなければないらないのだから、妻への気遣いが薄くなっていくのも仕方がなかったのかもしれない。
産婦人科に行った後だったと思う。
ショッピングモールに寄ったら、フードコートに中学時代の知り合いがいた。
高校の部活か何かの集まりだったのだろう。後輩数名と一緒に。
「さっきの誰ですか?」
「中学ん時の同級生」
「え? だって子供……」
「ビビるでしょ。前から遊んでるって噂だったけどさぁ」
去ったような振りをして、馬鹿みたいにはしゃぐ彼らの会話をエスカレーターの陰で聞いていた。
きっと馬鹿にする。言わせた後で出ていってイライラした感情をぶつけてやろうって。
「先輩と同い年で? 本当にそういうのいるんだ」
「あのお腹、もう二人目とか引くよねぇ。マジ笑える」
ぎゃははっと笑う彼らの前に出ようとした足が、ふと止まった。
胸の中に溜まった黒い気持ちを吐き出そうとして待っていたのに。
「笑うことないと思います」
彼ら彼女らの中から、そんな言葉を聞いて。
思わず、長女を乗せたベビーカーのハンドルをぎゅっと握って止まってしまった。
「別に笑い話じゃないと思うんです、けど……」
「なに、お前ああいうのタイプなの?」
「シカくん、ギャル系好きだったんだ意外ぃ」
「やらせてほしいだけじゃねえ?」
庇うようなことを言うからからかわれる。
たぶん高校の後輩の男子。
絶対に馬鹿にされるだけだと思って待っていた自分がなんだか恥ずかしくて、長女を連れてその場を立ち去った。
なんでもないような言葉を温かいなんて感じたら、余計に惨めな気がして。
だけど、彼は。
先輩に対して説教めいたことを言ったら、その後の学校生活に問題が出たりしないのだろうか。
馬鹿正直な、真面目な少年。
不器用なああいうタイプはきっと、いつも損な生き方を選んでしまうのだろうな、と。
「シカくん……?」
変なあだ名で呼ばれていた少年の平凡な顔を、なぜだか妙に忘れられなかった。
◆ ◇ ◆
ドアを叩く音。
それからチャイムを二度、忙しなく続けて押してからまたドアを叩く。
ガチャガチャとドアノブを動かしても、オートロックで施錠されているのだから開くわけがない。
――詩絵!
部屋の外から呼ぶ声がかすかに届いた。
呼ばれた方に驚いた様子はなく、ただ仕方なさそうに溜息を吐いて首を振った。
「やっぱり――」
「あぁぁっ!」
痛みをごまかすように叫びながら体当たりをした。
だけど痛い。傷だらけの足が痛い。こんなに痛いのは出産の時以来だと思う。
それでも一瞬気が逸れた今しかなかった。
「このっ!」
「く、あんたなんかぁぁ!」
体格に大きな差はない。思い切りぶつかった埜埜の体重で後ろに転がり、振り回したナイフが肩のあたりを切ったけれど。
「助けてぇぇ!」
押し倒した後、すぐさま手を着いて玄関に向かった。
足が痛い。四つん這いで格好は悪いけれど言っている場合ではない。
このままでは殺される。誰かが来てくれたのなら埜埜が生き延びる唯一のチャンス。
「待ちなさっ!?」
ずどんと、かなり大きな音が後ろから聞こえた。
床に流れた血とミネラルウォーターで滑ったのだと思うが、確認している余裕などない。
どたどたと手足をばたつかせて玄関まで走る。四つん這いでこんなに速く走ったのは人生で初めてだろう。二度とないとも思うけれど。
「助けて!」
内側からならすぐに開く。
そのはずが、内側のドアチェーンを掛けられていた。もたつく手でガチャガチャと外そうとするが、既に気配は埜埜のすぐ背中に迫っていた。
「くぁぅっ!」
後ろ髪を掴まれた。
足の怪我のせいで踏ん張りが利かない。そのまま後ろに倒れ、玄関前の廊下に引きずられて。
「詩絵!」
だけど、ドアは開いた。
外から明りと共に埜埜の救い主が――
「……?」
「司綿」
埜埜の救い主。だと思ったのだけれど。
その彼は、詩絵を呼んでいるその彼は、埜埜の方などろくに見もしないで。
凶行の血に染まる娘に呼びかけ、見つめ合った。
「はい、司綿」
埜埜を室内に引きずりながら、日常の挨拶を交わすように頷く詩絵。
彼の顔は、年月を経ているけれど覚えている。思い出した。
いつかの夜。埜埜が陥れて牢屋に追いやった青年。気の弱そうな、真面目くらいが取り柄だろうつまらない男。
「最後にこの女を片付けますから。もう少しだけ待って下さい。ね」
彼は埜埜の救い手ではなかった。
あの夜だって彼は詩絵を助けようとしただけで、埜埜はそれを嘲笑うように踏みにじった。
笑えない話。
◆ ◇ ◆
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