第55話 ガラスの欠片
いつまでも休んでいるわけにもいかない。
店の女性スタッフは、埜埜の店が休みなら近場の他の店で臨時で働いたりしている。
人気の女の子を引き抜かれては敵わない。上客が離れてしまうのも困る。
そういう気持ちもあったけれど、それとは違う気持ちもあった。
怖い。
初めて、埜埜を愛人としている
酒の席などで怖い人なんて言ってからかうことはあったけれど。
娥孟を殺せと命じていた。
冗談ではなく、本当に部下に殺人を指示するなんて。
脅し文句や何かなら聞くこともあったけれど、車で轢き殺すよう具体的に、娥孟を。
娥孟などろくな死に方をしないだろうと思っていたが、それを殺すように命令する男がすぐ傍にいる。
殺人など身近にあることではない。
殺せと命じる側も、その相手も知っている。こんなに近く。
落ち着かなかった。
何かを間違えれば卑金は埜埜も殺せと言うのかもしれない。
そう考えたら怖くなって、とりあえず何かしなければと店を開けることにした。
しかし、久しぶりに店に来てみたら何か違和感がある。
テーブルや椅子の配置が違う。
埜埜の美観に合うようにしていたものが微妙にズレている。
手直ししていたら手を切ってしまった。
ガラス片。
誰かがテーブルを倒して置いてあったグラスを割ったのか。
普通なら店のテーブルは片付けているはずだが、最後に店を開けた時は体調が悪かった。放置していたかもしれない。
しかし、卓の上に放置したグラスが勝手に割れるわけもない。
「……あの子」
思い当たったのは、澄ました顔の小生意気な娘。
スペアキーを渡してある。店に出入りできるのはわかっているが。
「……」
だが、だからと言ってグラスを割ったりするだろうか。
何か気に入らないことがあったとしても、荒ぶって暴れるような性格ではない。と思う。
「あの子なりの反抗期ってやつかしらね」
もう成人したくせに、いまさらになって反抗期とか。
だとしたら可愛いものだ。
いつも能面のような無表情のくせに、埜埜の目の届かないところでこんな幼稚な腹いせを。
ゴミ箱に捨てられていた割れたグラスを見つけて鼻で笑った。
殺人も電話で済ませる卑金に恐怖を覚えたけれど、それとはまるで逆。小さなもの。
こんな風にしか感情を表せない、臆病な娘だと。
◆ ◇ ◆
詩絵が夜に出してくれたのは、店からくすねてきた酒。
やるべきことが終わった祝杯ですから、と。詩絵がそう言って。
全く飲みなれない僕だったけれど、牛乳と混ぜるとコーヒー牛乳みたいになる飲みやすいお酒だった。
舞彩への罪悪感をごまかすように飲んで、気が付いたら深く寝入ってしまった。
寝過ごして。
起きて、違和感に気づく。
部屋の隅で膝を抱える舞彩。
寂しそうなその背中に、いまさらになっておかしいと気づいた。
「舞彩……?」
「……」
返事はない。
ただ、その体を小さく縮めた。
「……詩絵は?」
「……」
「詩絵は、どこに行った? 舞彩」
振り向いた舞彩の、僕を責めるような表情は。
今まで見たことのない顔だった。
◆ ◇ ◆
「……」
臨時休業の影響だろう。
店を開けたけれど客があまり来なかった。
スタッフも揃わなかったから、それはそれで助かったとも言える。
マンションの部屋に戻るのが遅くなったのは、やはり卑金への恐怖心があったからだと思う。
埜埜だって別に品行方正な生き方をしてきたわけではないけれど、人殺しというのは一線を越えている。
だからと言って卑金から逃げられるはずもなく、店を閉めた後に遅くまで一人で悶々と飲んでしまった。
よく覚えていない足でマンションに戻り、そのまま寝てしまったらしい。
案外、自分も肝が細いのだとおかしくなる。
昼前に目を覚まして、やけに喉が渇いていた。
目をこすりながら冷蔵庫のミネラルウォーターを開けて口にして――
「ひっ!?」
ぎょっとした。
キッチンの隅に誰かいるのを見て、びっくりして後ずさった。
「いたっ?」
下がったところで足の裏に痛みが走り、尻もちを着いた。
壁に背中をぶつけながら座っていた誰かを確認すれば、何のことはない。生意気な小娘が膝を抱えて座っていただけ。
足の痛みは何かと思えば、どこかで見たようなガラス片。なぜこんなところに落ちているのかわからない。
「い、たぁ……」
踏んづけてしまったガラスを抜いて、目尻から涙が零れる。
小娘に驚いたせいで思い切り踏みつけてしまった。
「あんた……なんで、あんたが……?」
なんでここに、と聞くつもりだった。
言いかけながら、このガラス片を仕掛けたのがこの娘だったかという疑問が先に立って質問が変わる。
「……こ、こたえなさいよ! あんたが」
「そうです」
ゆらりと立ち上がる。
キッチンの端の窓から差し込む日が逆光になって表情が見えない。まるで亡霊のよう。
「……忘れ物を届けにきました」
店の鍵とマンションの鍵を、かちり、かちりとキッチンに置いて。
ゆっくりと首を傾ける。
逆光になるせいで、首だけが異様な角度に曲がっていくように見えた。
異様な影が伸びて埜埜に迫ってくるようにも。
「来ましたよ。お母さん」
娘からそんな風に呼ばれたのは初めてで、こぼしたミネラルウォーターが座り込んだ埜埜の股間を冷たく濡らした。
◆ ◇ ◆
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