第8話 役所の祝福
「免許、あるんだ……」
「ないと不便ですから」
この公営団地には一部屋に一台分の駐車スペースが供与される。
古い団地のせいか空きも多い。
詩絵は司綿の部屋に対応した場所にシルバーの軽バンを停めていた。昨日の布団もここから運び込んだらしい。
なぜ彼女が僕の部屋番号まで知っていたのか聞いたが、大した理由ではないとはぐらかされた。
僕が刑務所に入る前から言われていた個人情報とやらは、十三年の間に守られなくなったのだろうか。
「舞彩……さんの、学校は……?」
「舞彩って呼んで。司綿さんの方が年上なんだし」
後部座席の司綿に、助手席の舞彩が振り返って笑う。
そんなことを言われても、緊張で胃がひっくり返りそうだ。一晩寄り添って寝ていたとはいえほとんど面識のない女の子相手に。
「あたし、通信だから。必要な単位はもう取ったんだけど卒業は来春なんだって。おかしいよね」
「そう、だね」
「ね」
なるほど、通信課なのか。
来春卒業ということなら三年ということだと思う。通信課の制度がよくわからないし、学校によっても違うだろうけれど。
「舞彩、さんって……いくつ?」
「もう」
「……ごめん」
「姉さんと年子だから十八だよ。だからあたしも成人のはずなんだけど、学生の間は結婚に保護者の許可がいるんだって」
世の中変だよね、と同意を求められた。
どうなのだろう。おそらく一般的に多くの高等学校では学生結婚を認めないと思うし、僕の認識では成年は二十歳になってから。
お酒やたばこはどうなっているのだろう。別にどちらもいらないけれど。
「世の中、変なことばかりですよ」
詩絵はそう言うけれど、どうなのだろうか。
出所した翌日に役所に来て十八の女の子と婚姻届けを提出する三十代男。
そっちの方が変じゃないか。しかもその姉に付き添われて。
僕の格好はジーンズにくたびれたシャツ。
こんな格好で婚姻届けなんて出していいのかわからない。
正装じゃないといけないのではと思ったけれど、舞彩もそんな恰好はしていない。ベージュのワンピースに白いベストを羽織っただけ。
詩絵だけが、なんとなく正装っぽい雰囲気のパンツスーツ姿。
今朝。婚姻届けに名前を書いて判を押した。必要だと言われたのと、そうしてほしいと望まれたから。
通帳口座にも使う安っぽい判子。そんなものでも認められるらしい。
二枚書いた。
舞彩との婚姻届けと。詩絵との婚姻届け。
悪いことをしている気がしたけれど、重婚しなければ違法ではないと言う。詩絵と結婚するには間に離婚届を挟まなければいけないわけだが、さすがにそれはもらっていなかった。
詩絵の分は提出しない。当たり前だけれど、ならどうして書いたのか。
聞こうとしたけれど、僕の名前の隣に名前を書く詩絵の表情が少し柔らかい雰囲気で。
聞くのが馬鹿だと思った。
期待した返答と違ったら傷つくから聞けなかっただけか。情けない。
必要な書類とか、その後の身分証となる住民カードの手続きだとか。先んじて詩絵が調べている。
だから大丈夫。
僕を落ち着かせる為だろう。市役所に出入りする人は多く、僕は入るのも怖い。
顔を伏せて、彼女らについて歩く。
こんな僕がこんな可愛い成人したばかりの女性と結婚なんて、きっと犯罪だ。
通報されるんじゃないか、とか。
運命とか何かの悪意あるいたずらで、偶然にここに僕を知っている人がいたりだとか。
誰も彼もが出所した僕を監視しているんじゃないか。それが一番に不安に思ったことだった。
「具合は大丈夫ですか?」
僕の様子を、周囲には体調が悪いというように見える風に気遣い詩絵が背中に手を添える。
昨夜のように。
大丈夫だからとその手の感触に促されて、何とか前に進んだ。
一番怖かった婚姻届けの提出は、思いの外あっさりとしていた。
「確かに受理しました」
市役所の女性職員は僕と舞彩を見比べて、舞彩の笑顔に笑顔を返した。
「おめでとうございます」
「はい、ありがとうございます」
ね、と笑いかけてくる舞彩に僕は笑顔を返せなくて、ぎこちなく頷くだけ。
そんな僕の様子さえ職員の人は気にならないようで、けれど最後に詩絵を見て少し首を傾げながら奥に書類を持って行った。
「書類上の手続きだけですから。言ったでしょう」
「そう、なんだ」
根掘り葉掘り聞かれるわけではない。
書類さえ揃っていれば役所の仕事に支障はないし、年の差などの問題なら担当課の人間はもっと違和感のあるケースも多く見ている。
いちいちそんなことに疑問など抱かず職務をこなし、せいぜいその日の昼食で噂話にする程度だと。
詩絵の言う通りだった。
ここの課に限らずどこの職場でも、必要な体裁さえ整っていればそれ以上突っ込んで仕事を増やすことはほとんどないらしい。
違和感があっても気にしたら仕事が増える。形だけでも揃えば仕事が早く片付いて早く帰れる。世の中はそんなもの。
◆ ◇ ◆
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