第7話 まるさんかく



「……寝ちゃった」

「それだけ疲れていたのでしょう。ずっと張りつめて」


 ぷつりと意識を途絶えさせた司綿を布団に横たえ、その隣に腰を下ろす詩絵。

 舞彩はタオルを肩から羽織り、詩絵と反対側で足を抱えて座った。


「ずっと他人に怯えて、ゆっくり眠ることもできなかった。そういうことです」

「あたしたちと一緒」

「私には舞彩がいました」

「うん」


 小声で会話をしながら、二人の視線は眠る司綿から離れない。

 父は異なるけれど助け合い生きてきた姉妹。そんな風に頼る誰かがいないまま過ごしてきた司綿。

 常に不安と恐怖に苛まれてきただろう。彼を取り巻く非道な世界に、何も救いなどなくて。



「姉さんが言ってた通り、写真より素敵ね」

「あんなニュースの写真で司綿を想像してはいけないって言ったでしょう」

「写真より痩せているのは、やっぱり刑務所暮らしだったから……だよね」


 無実の罪で十三年の刑務所暮らし。

 それを物語るように当時より痩せている。


「不当な扱いをされて……けれど、体は締まっていますね。もう少し筋力をつけてもらう必要はありますが」

「明日からは自炊できるように買い物行かないと。司綿さん、喜んでくれるかな?」

「体づくりの為によく食べてもらわないと」


 刑務所での規則に沿った生活。

 司綿の肉体に特別無駄はないが、逞しいというわけではない。

 復讐者となるのなら相応の体も必要。よく食べなければ体づくりにならない。



「……ちょっとへこむ」

「何がです?」

「あたし……覚悟してたのに」


 口を尖らせてタオルで覆った体を小さくする舞彩。

 裸身を司綿に晒して抱きしめた。ここで結ばれるつもりだったのは間違いない。


「司綿さん、全然……その気になってくれなかった」

「舞彩、司綿を責めるのはお門違いです」


 乙女の覚悟に応えてくれなかった司綿に不満そうな妹を詩絵がたしなめた。


「あたしが、魅力ないから……?」

「それも違います」


 詩絵の声音が少し和らいだ。

 妹だって人間なのだから不安や不満を感じるのも当然のこと。

 幼い頃から夢のように憧れた相手と結ばれるつもりで、けれど空回り。


「司綿が、私たちの知っている通りの人だからです」

「あたしたちの……」

「世の中のゴミが自分の物差しで言うような下劣な気持ちではなくて、本当にただ正しいことをした人。私たちだけが知っている本当の司綿」

「……うん」



 性的な目的ではない。

 困窮し、死さえ間近にあった姉妹を助けるために行動した。

 周りの人間がその行為を貶め、泥を塗り、糾弾した。彼の本心を知ろうともせずに。


 世間の注目を集めたことで姉妹はそれ以上の虐待から免れた。

 金銭に余裕ができたことでマシな生活ができるようになった。環境が変わったことについては他にも理由がある。

 金銭については特に、司綿の家族を不幸にすることで不当に吸い上げたようなものだ。


 今の詩絵と舞彩があるのは全て司綿のおかげ。

 他の誰かではない。

 誰に話しても信じてもらえなかった絶望も詩絵は知っている。舞彩も知っている。



 虚飾に満ち溢れた世界で、母親はまるで母親みたいな面をして。

 周りの大人は詩絵たちを守るようなことを口にしながら、詩絵たちの気持ちなど何一つ見てはくれなかった。


 幼女だった姉妹が、何ひとつ信用できないと思い知るほどの嘘だらけの世界。

 舞彩だけが詩絵の言葉を信じる。異父姉妹だけの世界。


 テレビで聞くのは、司綿しめん容疑者。詩絵が知っているのは司綿つかわたお兄さん。

 彼の家を知った頃にはとうに始角一家の所在は不明で、わかるのは収監されている司綿の居場所だけ。


 何があろうと司綿に恩返しをしなければならない。

 彼だけは、この嘘だらけの世界とは別。こんな世界に彼を飲み込ませたりしない。

 学校に通うようになって、必死で勉強した。年齢に見合わない知識を集め、舞彩にも教育・・を施してきた。


 母親の彼氏だった同居人の男は、大金を手にするとさっさとどこかに消えた。

 それ以前に母は別の男を見つけていた。もっと経済力のある条件の良い男を。母としては最低未満だったが、顔形はとても優れた女だった。

 新しい相手は経済力だけでなく他諸々への影響力もあり、母をマンションに住まわせた。その近くの雑居ビルの一室に姉妹を置いて、顔を合わせることはほとんどなかった。


 虐待などという話になれば面倒だと思ったのだろう。

 食費だけは定期的に。

 三者面談だとか家庭訪問だとかは、複雑な家庭・・・・・ということでほぼ不参加。

 都合はよかったので詩絵に不満はなく、うまくやってみせた。

 聞き分けのいい良い子。母がそう感じたとは思わない。あれは詩絵たちなどに興味はない。


 十五で妊娠して十六で詩絵を産んだ。父親が誰かもわからない。

 十八になる前に舞彩を産んだ。数か月だけ結婚していたとか。

 彼女は自分をちやほやしてくれる相手が好きで、自分が大好きで、子供に興味などない。むしろ邪魔な存在だっただろう。


 そんな女があの夜だけは、まるで母親のような顔で司綿を責めた。

 謝りに来た司綿の父親に汚い言葉を吐きかけて、不当な要求で金をせびった。

 そんな歪んで間違ったことがまかり通る腐った世界。



「司綿だけは違う」


 うつ伏せで眠る司綿の背中をそっと叩く。

 ただ一つ信じられるもの。


「獣のような性欲なんかじゃない。本当に私たちを助けたいと思ってくれた」

「困っているなら相談に乗るよなんて言ってくるセンセーとも違うのね」

「比べるのも無礼です」


 詩絵の鋭い目が舞彩に刺さると、小さくごめんなさいと返された。



「いいです……それに、舞彩。へこむことなんてないの」


 詩絵は見ていた。

 この部屋に上がってからの司綿が、詩絵たちに気を許すことができなかった姿を。

 強く警戒し、ひどく怯えていた。

 こんな小娘を相手に。


 司綿は健康な成人男性なのだから、場合によっては体を求められる可能性も考えていた。

 詩絵はもう幼女ではない。成人した女で、忌々しい遺伝子を継いだ造形はそれなりに整っている。

 求められたら、もちろん応えた。長い不当な刑務所暮らしの彼の慰みになるのなら別にいい。

 舞彩には約束を違えてしまうことになるが。拒絶などできるわけもない。



 だけど司綿は詩絵に欲望を向けるようなことはなく、ただ怯えていた。

 自分がしたはずの正しいことがふい・・になってしまうのではないかと。


 怯える彼を見ているうちに、逆に詩絵の方が歯止めが利かなくなった。

 私がどうにかしなければ。

 舞彩が帰ってくるのがもう少し遅ければ、強引にでも触れていただろう。裸になって何の武器も持たず彼の気持ちを宥めようと。傷つけないと信じてほしくて。



「舞彩の肌に触れて安心したのよ」

「あたしの……」

「ずっと人肌に触れていなかったはず。舞彩の体温を直接感じて、きっと」


 触れても許される。

 気を許してもいい。むやみに警戒しなくても大丈夫。

 司綿を傷つけたりしない存在。


 そんな風に感じて、気が抜けたのだ。だからそのまま眠ってしまった。

 赤ん坊が、真っ当な母親の胸で安堵して眠るみたいに。



「何もかもが腐った敵。けれど私たちは違うとわかってくれたの。あなたのおかげで」

「……うん」


 役に立てなかったと落ち込む妹に、そうではないと諭す。

 急に司綿の心を解こうとしても十三年の歳月の間に絡んだものだ。簡単ではないのはわかっていた。


「焦ってもダメだね」

「そう」


 今日はまだ復讐の夜明け前。

 卵を温めるように、姉妹で寄り添って眠った。



  ◆   ◇   ◆

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