第6話 安息の赦し



「怖がらなくていいんですよ」

「だ、だけどっ……」

「あたしも初めて、だから……でも、司綿さんにって決めてたから」



 お手伝い。

 僕の復讐の手助けに、身を捧げるって。




 シャワーを浴びてきてくださいと頼まれた。

 半日以上歩き続けたのだ。汗臭かったかもしれない。


 その間にドアの開け閉めの音が。そして、何かを運ぶ物音。

 彼女らの荷物が届いたのか。そういえば何も持っていなかった。


 出てみれば玄関にミカン箱くらいのダンボールがひとつ。

 それと和室に、先ほどまでなかった布団が敷かれている。タオルにくるまった舞彩を乗せて。


 慌てた。

 こけた。



 公営団地の部屋に照明はなかった。コンロもないけれど。

 その辺は入居者が買えということらしい。

 トイレと風呂、あと流し台の吊戸棚の照明はある。外れないだけだが。漏れる風呂の電灯が照らす室内に、バスタオルだけを纏う美少女。


 尻もちをついて後ろの壁で頭を打った。


「大丈夫ですか、司綿?」

「だ、だめだっ……だめだろ、こんなっ……」

「落ち着いて下さい司綿」


 日が落ちた暗がりの中、あたふたと慌てる僕を気遣うような声音の詩絵だけれど。

 それもまた、下着姿。華美ではないが黒の上下。



「う、詩絵! 服をっ……」

「やっと名前を呼んで下さいましたね、司綿」

「そうじゃなくって、服っ」


 元幼女。

 今は立派に結婚できる年齢になった女性だ。

 初めて会った男の前に、こんな格好を晒すべきじゃない。いや初対面ではないけれど、初対面とほぼ変わらない。



「ええ、和室は障子がありますが台所の窓にはカーテンがありませんから。ここでは外から見えてしまいます」

「姉さん、あたしが先だって……」

「わかっています、舞彩。私があなたに嘘を言うはずがないでしょう」


 さ、と。

 転んだままの僕の手を引いて和室へと促す。



 外から見える。

 見られる。


 詩絵の下着姿だとかじゃなくて、僕の情けない姿も。

 僕が、無垢な女の子に悪いことをしようとしている姿が見られる。また通報されて、逮捕されて、牢屋に行くことになるんじゃないか。

 そう思うと恐ろしくて、障子で囲われた和室に四つん這いで逃げ込んだ。


 逃げ場のない六畳間。

 明かりもなく、詩絵は僕が消し忘れた風呂の電気を消してから戻ってきた。


 障子越しに入ってくる街灯の明かり。

 それに照らされる舞彩は、バスタオルの端を摘まんで丸まったまま。



「怖がらなくていいんですよ」


 背中から詩絵が囁く。


「だ、だけどっ……」

「あたしも初めて、だから……でも、司綿さんにって決めてたから」


 舞彩が振り絞るように小さな声で訴える。

 なぜ彼女らは僕なんかにこんなことをするのか。こんなことまで出来るのか。


「姉さんからずっと聞いてた。司綿さんのお嫁さんになりたいって……他の、あたしたちの話を聞いてくれなかった他の人間なんかじゃなくて」


 幼い頃、死にそうだった時に、変な正義感に駆られてジュースをあげただけの僕なんかに。



 間違っているんだ。

 こんなことは間違っていて、正しくない。


「僕は、君たちに……何もしてあげられない、のに」

「命をもらったんだよ」


 舞彩がタオルをほどいた。

 手を広げて、何も身に着けない姿で僕を招く。


「あたしはもう、司綿さんから命をもらったの」

「生きる時間をもらいました、司綿。あなたがくれたのです」


 ふらふらと寄ってしまいそうになる気持ちを堪える。

 抗えないような誘惑だと思うからこそ、怖い。落とし穴みたいだ。

 僕を突き落として笑いものにする。そんな罠なんじゃないかと考えてしまう。



「司綿、酷なことをお願いしているのは承知です」

「……」

「あなたにはまず、他人への恐れを克服してもらわないといけませんから。だから」


 他人への恐れ。

 あの夜より以前からもそうだった。

 人の目が怖い。見られるのが怖い。関わるのが怖い。

 きっと馬鹿にされる。蔑まれ、なじられ、暴力さえ受けるかもしれない。


 実際に体験した。体感した。

 いわれのない中傷、言葉の暴力。取り調べの際には複数に囲まれて威圧的な恫喝や怒声も受けた。

 誰一人味方のいない法廷で、懲罰のようにずっと立たされている時間。



 他人への恐怖心は逮捕される前よりひどくなっている。

 まともに社会生活ができるのかと言われれば、まるでそんな自信はない。それこそ生き地獄のようにも思えた。


 誰もが僕を知っていて、僕を卑劣で邪な犯罪者として扱うのではないかと。

 身寄りがいないからニートなんて生活もできない。

 格安とはいえ公営団地の家賃を払えなくなったら、ホームレスになって死んでいくのだろうか。

 自分の将来の姿が全く見えず、ただそんな暗い末路しか考えられなかった。



「いいですか、司綿」

「……」

「世の中というのは」




 ――社会はあなたの敵ではありません。


 刑務所でも聞かされた。

 自分が気にするほど他人はあなたのことを見ていない。気にしていない。

 堂々と、正しい生き方をしていれば、自然と社会に戻れるものだとか。


 それは本当なのかもしれないが、その堂々と正しい生き方をするというのが難しいのではないか。

 こそこそと、壁の隙間に隠れる虫のような生き方ではいけないのか。

 敵に見つからないように。




「世界は全て、あなたの敵です」

「……」

「誰もがあなたを傷つけ、陥れ、苦しめようとします」


 刑務所のカウンセラーとは真逆のことを断言する詩絵。


「何も信用できない。隙を見せれば司綿、またあなたは許しがたい理不尽に襲われます」


 許しがたい理不尽に満ちた世界。

 知っている。思い知ってきた。


「あぁ……」


 カウンセラーから聞いた言葉より現実感がある。

 僕の知っている世界。僕が見て味わってきた現実と合致する言葉。



「私達だけが」

「あたし達だけは」


「「あなたを傷つけない」」


 重なる声。

 右と左から優しい言葉が重なる。


「司綿、本当のあなたを私は知っています」

「司綿さんはあたしを傷つけなかった。痛がるあたし達を見て笑ってた男とも、バッグで何度も叩いたママとも違う」


 そうだ、彼女らの虐待の傷跡は僕じゃない。

 僕じゃないことを僕は知っていて、彼女らが知っている。

 他に存在し得ない理解者。



「だからあたしに」

「私たちに」

「あ、あ……」


 背中から添えられた詩絵の手で、一緒に舞彩の裸体へと導かれる。

 触れていいのだと。

 許されるのだと言うように。


「僕は……僕は、どうして……」

「大丈夫です」


 詩絵が囁いた。


「ここにあなたを傷つける人はいません」

「一緒に、しよ」


 二人に包まれる。

 僕が助けようとした女児だった姉妹が、本当の僕を知っているから。

 ここだけは何も恐れなくていい。



「あぁ……」


 力が抜けた。

 柔らかな感触に身を任せて、ずっとつっかえていたものが外れた。


「僕は、悪いことなんてしていない……してないんだ」

「……」


 力と一緒に気が抜けて、意識が闇に落ちた。

 ニート時代の漠然とした不安も、刑務所時代の鬱屈した気持ちも消えて、十数年ぶりに深い眠りに飲み込まれた。



  ◆   ◇   ◆

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