第5話 両手を引く手



「ただいま、姉さん」


 まだ震えている僕をよそに、遠慮なく開かれる古い鉄扉の音。

 がちゃんと音を立てた後、ビニール袋の音と共に当たり前のようにただいまと言う声。


「お帰りなさい、舞彩まい


 僕が鍵を開けてこの部屋に入ったのはまだ一時間くらい前の話。

 自分でもここが自室だと思えないのに、姉妹はそれが当たり前みたいな会話を交わす。



「見切り品のおにぎりと飲み物。それと、婚姻届け二枚ね」

「書き間違い用の予備がいると言ったでしょう。あと野菜も買いなさいと」

「そう言ったんだけど、じゃあ二枚って。四枚下さいって言うのも変でしょう?」

「確かに、一般的にはそう考えますか。野菜は?」

「冷蔵庫もまだないんだから腐っちゃうかなって……あ!」


 玄関と、小さな廊下を挟んですぐに見える台所。

 左手にトイレと風呂がある他にはこの六畳の和室だけ。

 一人で暮らすには十分な間取りには隠れる場所はない。押し入れがあるといえばあるが。



 ただいまと帰ってきて廊下に上がれば、開いた襖からすぐに見える。

 情けなく腰を抜かしている僕の姿が。


「あなたが司綿つかわたさん!」

「は、はひっ⁉」


 遠慮もためらいもなかった。

 持っていた買い物袋を姉に押し付け、滑り込むように僕の隣に。


 彼女の膝が僕の足に当たり、有無を言わせず両手で僕の右手を包み込む。

 暖かい。

 まるで僕を溶かしてしまいそうな体温。



「想像してたより若い! 清潔そうだし、よかった」

「な、なん……」

「命の恩人でパートナーって言っても、やっぱり不潔な人は嫌だもの。ね」

舞彩まい、静かになさい。司綿は騒がしいのが苦手なんです」


 確かにそういうのもあるけれど、他人が苦手なのだ。

 誰も彼もが敵だった裁判時代と、陰鬱な刑務所時代を経て。

 こんなに近くに他人を感じたことはないし、それが若い女性だというのなら人生を通して経験がない。手を握られたのなんてオクラホマミキサーのダンスが最後の記憶。



「あたしはあの時のことはっきり覚えてなかったんだけど、司綿さん」

「は、うん……」

「だけど、あの時くれたジュースの味は覚えてる。優しかった声も……」


 近い。

 さっきの詩絵も近かったけれど、妹の舞彩はそれ以上に近い。握った僕の手を自分の顎と胸の間に寄せて、祈るようなポーズで。



「あたしは楚嘉舞彩そかまい。あの夜助けてもらった幼女、だよ」

「……あぁ」

「あの後も苦しかったけど、司綿さんの声がこう、耳の奥にね。残っていて……優しい人がいるんだって知ったから。生きていたいって思えた」


 舞彩は、詩絵とは対照的に体温高めの印象の少女だった。

 輝くような大きめの瞳が印象的で、顔立ちは柔らかい。詩絵とは違って肩にかかるくらいの髪を首の後ろで束ねている。

 美人というより可愛い造形。

 僕の手を寄せた胸のふくらみは、姉の詩絵より明らかに大きめ。



「本当に、ありがとう。あれからも何度も夢に見たの。姉さんが教えてくれた司綿さんがあたしを助けにきてくれるのを」


 それは……嬉しい、気もする。

 あの時の僕の軽率な行動は誰も認めてくれなかった。僕自身を含めて、誰も褒めてくれることなんてあり得なかったけれど。

 無駄ではなかったのだと、そう思う。

 こうして無事に、元気に育ってくれたのなら。



「だから今度はあたしが、司綿さんを助けようって」

「私たちが、です」

「もう、姉さんってば細かいんだから」


 こんな会話は普通の姉妹のよう。

 僕のしたことは間違いじゃなかった。正しいことをしたんだと、そんな実感が湧く。

 失ったものは取り返しがつかない。だけど彼女、舞彩は僕の手で助けることができたんだと思う。

 僕じゃない誰かが通報して助かった可能性もあるから、そう考えると飲み込み切れない気持ちも残るけど。



「あたしが結婚できる年齢になっていて本当によかった」

「舞彩、司綿の辛かった時間をよかったなんて言ってはいけません」

「そうだけど……だって、ちょっと違ったら姉さんが先だったんでしょ」

「必要なようにするだけです」


 そんなのずるい、と姉に向かって言う舞彩。詩絵は小さく溜息を吐くだけ。

 何を言っているんだ、この子たちは。



「説明が遅れましたが、司綿。あなたにはまず舞彩と結婚してもらいます」

「は……はぁ?」

「婿という形で名字を変えていただくことになります。明日」

「あ、明日?」


 何がなんだかわからない。

 わからないけれど、何なのだ。

 結婚して名字を変える。それは特別変わった話ではないにしても。


「本当は一緒に婚姻届けもらいに行きたかったんだけどね」


 少し残念そうな舞彩。

 そうか。僕の到着が遅かったから、妹の舞彩は他の用事に出かけて詩絵が待っていた。

 婚姻届けと食料品。食料が必要なのはもちろんだとしても。



「司綿のご家族への気持ちをないがしろにするつもりはありませんが、名を変えるのは必要なことです。わかって下さいますか?」

「それは……いや、わかるとかじゃなくて」


 犯罪者の名前。

 十年を過ぎてもネットでもなんでも残っているだろう。

 別の町だろうが何だろうが、検索すれば二秒もかからず出てくるはず。女児二人への性暴行をした下劣極まりない犯罪者として。


 名字を変える。

 必要なことと言われればそれは理解できる。わかるけれど。



「き、きみたちが、どうして……」

「あたしじゃだめ、ですか?」

「そういうっ、んじゃ、ない……全然違う、けど」


 声が詰まる。

 正直、舞彩はとても可愛いと思う。下手すればアイドルとかそういうレベルの可愛さ。

 学校一番の美少女といった容姿の舞彩に上目遣いで見られて、ただでさえ挙動の怪しい自分の声がひっくり返ってしまった。


「私たちの姓も疎遠になっていた祖母のものです。成人年齢引き下げで私が成人した際に、法的手続きをして変更しました」

「引き下げ……ああ、なんかそんな……」

「舞彩の保護者は姉の私です。学生ですが、保護者の同意があれば舞彩は結婚できます」


 逮捕される前から成人年齢引き下げの法改正なんて話は聞いていた。

 十三年経てば世の中は色々と変化している。当たり前のこと。



「司綿さん」


 舞彩が僕の手をもう一度握り直した。

 先ほどと同じ体温。

 なのに何だろう。今度はその熱が、僕の肌を焼きながら張り付くように錯覚する。


 焼き付くような熱さが僕を逃がさない。


「は、い……?」


 僕を覗き込む舞彩の瞳。

 輝くような、暗く輝くような奥の知れない瞳孔。



「あなたの復讐のお手伝いを、あたしにさせて下さい」


 僕の復讐。

 その向かう先を僕は知らず、この姉妹ははっきりと知っているようだった。

 真っ暗な中、彼女らが示す線路を進むように手を引かれた。



  ◆   ◇   ◆

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