第4話 リスタート
「もうすぐ妹が帰ってきますから」
「……」
「その前に、まず御礼を言わなければいけません」
部屋の鍵はスペアと合わせて僕が持っていた。彼女が持っているはずもない。
鍵を開けて初めて足を踏み入れる慣れない新居で、見知らぬ女性と話をしなければならない。
一人で暮らす古い公営団地。狭い台所の他にまともな部屋は和室一間だけ。
家具も何もないわけで、がらんとした部屋の畳に座る。何となく正座になってしまった。
汗が噴き出た。季節は秋なのに。
怖い。
もしかしたらまた何か悪いことが起きるんじゃないかと。怖い。
「私、
「僕は……」
何もない古い団地の一室。
色褪せた畳の上に指を着き、深々と礼をする楚嘉詩絵。
背筋が伸びた姿勢は彼女の強さを感じさせる。あの時の泣きじゃくっていた女児とイメージが一致しない。
「十年も、経って……」
「正確には十三年前です」
判決は十五年だったけれど、裁判の間の拘留で約一年間。それから十二年の刑務所暮らし。
裁判の期間が一年というのは短すぎるのだとか言う人もいたが、全ての状況が僕に悪すぎた。それに一年だって全然短くはなかった。
何もかもが無駄。公選弁護人は控訴した場合の見通しを諭し、疲れ切った僕は全てを諦めたのだ。
「……あの、頭を」
「いいえ」
頭を下げたままの姿勢から詩絵が戻らない。
さらに下げて、額を古畳に擦りつけて。
「御礼と、それ以上に。どれだけお詫びしても足りません。
「……」
「謂れのない誹謗中傷。不当な取り調べと間違った罪名。そして亡くなられたお母様にも……」
「……やめてくれ」
乾いた傷口に触れるのはやめてくれ。優し気な言葉で拭おうとされても、染みて痛いばかり。
苦痛を思い出す。どうしようもない、取り戻しようのない自分の愚かさを思い出させられる。
この十三年間、どれだけ自分を責めたと思うのか。
ぽっと思いついたみたいな正義感で首を突っ込んで、そのせいで家族を不幸のどん底に追いやった。
誰のせいでもない。全部自分が悪いのだと。
何度も夢に見た。
あの夜の出来事なんてなくて、ただの悪夢で、兄貴の結婚式前にちゃんと就職できてよかったねと言う母の顔を。
何もなかったごく普通の未来。
大それたヒーローなんかじゃなくて、小さな町工場で働き口を見つけただけの自分の未来を。
夢の終わりに泣き声が聞こえるんだ。
小さな女の子が、助けてって。
その声を聞くと、胃袋を鷲掴みにされたみたいな苦しさで目が覚める。
独房の壁を目にして、声を殺して泣いた。何度も、何度も、毎日、毎日、毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日まいにちだ。
やるせない憤り。
バカな自分へのどうしようもない怒り。
そんなものを思い出させないでくれ。
やっと乾いたのに。乾かしたのに。
「今更、僕に……」
「私は忘れていません」
「……」
「あなたが私たち姉妹にしてくれたことを。そして、他の人間があなたにしたことを」
疼く。
心が疼く。
自分の心に沈めてきた重り。
誰かを責めてもどうしようない。自分が馬鹿だったと、己の感情を沼底に繋いできた重石が、忘れていた熱で浮かぶように。
「君たちを助けなければ僕は……」
「そうです」
正座をした姿勢のまま顔を上げる詩絵。
まっすぐに僕を見て、その通りだと頷いた。
「けれど司綿。あなたは私たちを助けてくれました」
「やめとけば、よか、ったって……」
「あなたは、何度でも」
まっすぐに見られると声が詰まる。うまく喋れない。
手が震えるのを隠したくて、正座した自分の膝を強く握った。
「何度やり直しても、あなたは私たちを助けてくれる。あの夜のあなたは、必ず」
「そのせいで!」
公営団地は古くても鉄筋コンクリートだ。
いつかの木造の安アパートとは違い、少しくらいの声が隣室に聞こえることもないだろう。
「僕のせいで母さんは自殺した。兄さんは婚約破棄させられて仕事も失くした。父さんは家を売って、今はバイトを掛け持ちして暮らしてるって……」
「そう聞いています」
「僕が何をしたって……僕は、悪いことなんてしてない、のに……」
「知っています。誰でもない私が知っています」
「君は!」
誰のせいだと思っているんだ、と。
違う。少なくとも女児だったあの時の詩絵のせいではない。
あの子はただ、妹と一緒に助かりたいと願っただけ。何も悪くない。
「……君は、詩絵。君に何ができるっていうんだ……いまさら、こんな」
「司綿」
「失った僕の時間を返してくれるのか? 家族を……」
枯れ果てた僕の心に熱を戻して、何をさせたいのか。
こんな密室に男女で二人きり。情動に任せて何をされても不思議はない。
もう、何もかも嫌になっていたのに。
「私は、あなたにもらった全て、あなたが奪われた全てをお返しするつもりです。司綿」
「すべて……?」
「この身も、命も。少ないですがお金も貯めました。あなたが失った時間とご家族はかけがえがない。それに見合うとは言えませんが、私たちの時間の全てを」
ボタン沿いに黒のラインが入ったシャツ。その一番上のボタンを外した。
そして、膝を立てて手を着いて。
近づく詩絵の顔。
相変わらず冷たい表情で、まるで人形のように綺麗な造形。
かすかに届いた息は、かつての女児を名乗る詩絵が生きているのだと教えてくれる。
他人の呼吸を感じるなんて、とてつもなく久しぶり。
経験はないけれど、満員電車だとこんな距離になるのだろうか。
怖い。怖い。
情欲や何かよりも、とにかく人間が近くて怖い。
満員電車なんかに乗ったら、たぶん僕の心臓は止まってしまうだろう。他人とこんなに近いなんて耐えられない。
「か、は……」
呼吸がうまくできない。
正座を崩して後ろに逃げるけれど、六畳間の壁がすぐに背中を塞いだ。
「私は……私だけはあなたの味方です。司綿」
「はっ……は、ふ……」
「大丈夫。何も心配ありませんから」
苦しむ僕に、まるで本当に心配がないかのように静かにささやく声。
手を着いて進みながら、もうひとつ、ボタンを外した。
首元から肌が見えるけれど、それを喜ぶより何より震えが止まらない。
そうだ。
僕は正しいことをしたと。
あの夜の僕は正しいことをしたはずなのに。
これじゃあ本当に、悪いことをしたみたいだ。
ぼろぼろだった僕の心を辛うじて支えてくれていた骨格が歪むような罪悪感。
こうじゃない。
僕が求めたのはこうじゃないんだ。詩絵が可愛いとか、自分だって人並みに性欲があるとか。
今ここでそんな情動に駆られてしまったら、本当に僕は……僕は、ただの犯罪者に成り下がってしまう気がした。
怖かった。
なんのことはない。家族に申し訳ないとかじゃなくて、自分を守る為に。
僕だけは、誰が何と言おうと僕だけは、僕が性根まで腐った犯罪者じゃないって思いたいのに。
あの時の女児。詩絵に性欲を抱いてしまったのなら、言い訳ができない気がした。
死んだ母さんに。
どこかでみじめな思いをしているだろう父や兄に。言い訳する根拠がなくなってしまう。僕がどうしようもないクズの悪人で、そのせいでみんなが不幸になったんだって。
「司綿、泣かないでください」
「う……は、う……」
「泣いてはいけません。だって、あなたはこれから」
詩絵が伸ばした指が、僕の額に触れる。
落ち着いて聞くように。
刑期を終えた僕が、これから進む先を示す言葉を。
「私たちは一緒に、晴れて復讐を果たすのですから」
「は……は、は……?」
何を言っているんだろうか。彼女は。
まるで熱のない表情で言うそれは、どこにも晴れた色のないまま。
すっと僕の額から指を離して立ち上がる詩絵。
窓から差し込む夕日が彼女を赤く染めると、そこで初めて色づいたような表情を浮かべて頷いた。
「始めましょう。あなたの望むままに、復讐を」
まるで確かな正しい道を知っているかのように、もう一度頷いた。
「ぼく、の……のぞむ……」
あの時泣いていた女児は、本当にどこにいったのだろうか。
少なくとも、今の僕の目に映る中にはどこにもいないようだった。
◆ ◇ ◆
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