第3話 あてどない世界



 刑務所の中では凄惨なリンチがある。

 なんていうのはただの噂だった。


 陰湿ないじめや陰口はあったけれど、レイプ犯は牢名主にホモレイプされるなんてのは嘘だった。

 刑務所内にも監視カメラやら人権派弁護士なんかが出入りしていて、そんなことができる環境ではなかったから。別にそれがいいことだとも思わないが。


 いっそ誰かが殺してくれればよかったのに。

 一時の英雄的願望で家族みんなを不幸にした僕を。



 穀潰し。

 無能で怠惰な家人が家を潰す。それよりまだ悪い。


 救いようがない。取り返しがつかない。

 合わせる顔も詫びる言葉もないまま時を過ごした。十数年。




 三十四の秋の日。十月七日。

 どうしようもない自分が刑務所を出る。


 更生支援だとかなんだとかで、住居は公営団地の空き室を紹介された。

 父親も兄もどうしているのか知らない。連絡を取っていいはずもない。

 行き先がないと再犯の可能性が高まるとかで、保証人なしで部屋が借りられる。そんな支援があるということだ。断る理由もなかった。


 刑務所での労働の賃金、合計七十万円強。

 数少ない持ち物である通帳の口座に入れるか聞かれたが、前科者の僕が銀行に行っていいのかわからない。現金で直接受け取ることにする。

 過去にこんな額のお金を持ったことはない。けれどこんなもの、失った時間と家族の代わりになるわけもない。たとえどれだけの大金でも。



 入所中に購入した最低限の着替えと日用品くらいしか入っていないバッグを持って、渡された地図の場所に歩いた。

 十数キロ。歩くような距離ではなかったけれど、歩いた。

 バスの乗り方に不安があったし、路線もどうなのかよくわからない。タクシーなんて贅沢をできるわけもない。


 刑務所は僕が住んでいた町から二つ離れた市で、あてがわれた公営団地もその市内。

 半日歩いても知り合いに会う心配もなく、ただとぼとぼと。



 途中、とても喉が渇いて。

 コンビニには入れなかった。通報されるんじゃないかと意味もない怖さがあった。

 受け取った賃金。茶封筒の中から小銭を出して自動販売機で水を買う。


 甘くない。苦くもない。ただの水。

 刑務所ではない屋外で飲む水の冷たさが、冷たくて。


 三十を過ぎた体にひどく痛く染みて、涙も出なかった。



  ◆   ◇   ◆



「お帰りなさい」



 公営団地の二階の一角。

 暗い階段を上って折り返した鉄扉の前に彼女はいた。

 黒のスラックスと、折り目に黒のラインが入ったワイシャツを着た女性。真っ白じゃないからワイシャツとは呼ばないのかも。


 お帰りなさい、と。

 この団地に住む知り合いと間違えたのだろうか。そう思ったが、彼女は僕を見て戸惑う様子はない。



「ずいぶん遅かったですね」

「……」


 渡された地図と、住所が印刷された通知書をもう一度見る。

 見てから、部屋番号を確認して、もしかして棟が違ったのかと階段の外に出た。

 公営団地は四棟が並んで建っている。別棟だったかもしれない。


 地図を見てどこかに行くなんて、僕にはほぼ初めての経験だった。小学校時代のオリエンテーリング以来か。

 いくらか迷いながら目印を見つけて進んだ。まさか他人に道を尋ねるなんて怖くてできるわけもない。


 出所したのは朝九時。今はもう夕暮れ時。時計がないから時間はわからない。

 暮れかけた日差しに照らされる建物番号は、通知と一致しているけれど。



「間違っていませんよ、始角しかく司綿つかわた

「……君は、だれ?」


 いつも通り挙動不審な行動を取る僕に、階段を下りてきた女性が呼び掛けた。

 僕の名前を。


 取り調べ中もニュースでも、法廷でさえ誤った読み方をされた僕の名前。

 否定しなかったこともある。間違った連中が僕を間違って呼ぶのを正す気にならなかった。

 戸籍の名前にふり仮名はないから、読み方は変更することも可能なのだとか。


 けれどその女性は、僕の名をはっきりと呼んだ。

 正しく。つかわたと。



 地図を読み間違えたわけではない。部屋を間違えたわけでもない。

 僕が目指した部屋の前にいた女性……二十歳前後だと思うけれど、見知らぬ人。


 かなりの美人。

 だけど、だから怖い。ただでさえもう女の人と関わるのは嫌なのに。できれば誰とも関わり合いになりたくないのに。



「市の人……?」


 生活保護だとかそういう部署の人だろうか。

 そうでなければ警察関係者か。満期まで間は三か月ごとに保護士に近況報告に行かなければならないと聞いているが、向こうから来るわけではないはず。


「マスコミ……」


 僕の名を知っている美人。

 出所した犯罪者を追う女性キャスターという線が腑に落ちた。


 ああ、また僕を槍玉に挙げようと、笑いの種にしようとしているのか。それなら理解できる。

 だけどもう出涸らし。なんにも残っていない干からびた死体みたいなものなのに。



「違います」


 否定するけれど信用なんてできない。

 僕は誰にも信用されない。僕は誰も信用しない。

 こんな風に先回りして待ち構えていたものが、悪意のない何かであるはずがない。



 黒いパンツスーツの美女。

 鋭い印象を受ける目尻に、短めに切り揃えられた黒髪。

 化粧は薄い。刑務所の事務職員だってもう少し艶やかな化粧をしている。


 美人だけれど近寄りにくい。

 僕でなくてもきっと、初対面で彼女と打ち解けられるような人はほとんどいないと思う。

 愛想のない美人秘書といった感じか。秘書なんて会ったこともないから想像だけの話になるが。

 殺し屋とか葬儀屋。そんな不吉な空気を纏っている。不幸せな匂い。



「私は、楚嘉そか詩絵うたえ


 後ずさる僕に向けて、彼女は胸に手を当てて名乗った。

 怖がらないでと言うように、反対の手を差し伸べながら。なのに表情はほとんど動かない。



「あの夜、助けていただいた幼女です」



  ◆   ◇   ◆

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