耽溺のダンス

立花

第1話

「おかえり、奈美」

 笑顔の母親が玄関で出迎えた。

 習慣というのは染み付くもので、ただいま、という言葉はごく自然に奈美の口をついて出た。半年ぶりの帰省だ。


 昔からおしゃべりな母親は、奈美が家を出たあとの身辺の近況について楽しそうに語る。大学生の弟がなかなか就活を始めないとか、父親が最近急に家族サービスをするようになったとか、近所の古いアパートが建て替わるとか、猫が飼いたくてしょうがないとか……。

「それで、奈美は仕事どうなの?」

 キッチンで作業をしながら、母親は背を向けたままダイニングテーブルについた奈美に声をかけた。うん、なんとかやってるよ、と、使い慣れた手元のグラスに目を落として答える。

「奈美がもう社会人なんて、ほんと早いわねぇ」

 母親はしみじみとそう呟いてからキッチンの電気を消し、こちらに歩いてくると奈美の斜め向かいに腰掛けた。片手に水の入ったグラス、もう片方の手には白い小さなボトルのようなものを持っている。

「なに、それ?」

 奈美は見慣れないそれに興味を示す。

「これ?」

 母親はグラスをテーブルに置くと両手でボトルを持ち、中から濃い黄色の錠剤を取り出した。

「サプリよ。最近始めたの。これ飲むようになってから、体がすごく軽くなって。今パパにも勧めてるところなの」

 ふうん、と奈美は言う。

「奈美も飲んでみる?」

「ううん、私は大丈夫かな。まだ二十代だし」

欲しくなったら言ってね、いっぱいあるから、と

母親はにっこり笑った。


 久々の帰省から数日後の土曜日、奈美の家に大きな荷物が届いた。実家の母親からだ。

 もうすぐ正午という頃ベッドから出てきた奈美は、パジャマ姿のままズリズリと玄関から段ボールを引きずると、キッチンで開封を始めた。

 中身は缶詰やレトルト食品などの食材だった。ぎっちり詰まっている中から幾つか取り出し、それらが見覚えのあるものであることを確認すると、再び段ボールに戻した。

 こないだ送ってもらったの、まだ残ってたなぁ。奈美は心のなかで呟いた。

 去年大学を卒業した奈美は、東京の企業に就職し、念願の一人暮らしをスタートした。母親はかなりの心配症で当初は反対もされたが、それが独立したかった一番の所以だ。今も娘のことを心配する気持ちは変わっていないのだろうけれど、結局は一人暮らしを認めてくれたことに感謝している。

 奈美は段ボールをそのままにリビングへ戻ると、ベッドの横でまだ充電器に差さっているスマホを手に取った。数回画面をタップし、耳に当てる。母親はすぐに電話に出た。

「あ、お母さん。荷物届いたよ、ありがとう」

 もう届いた?よかったわ、と母親は話し始める。

 ––––ちゃんと野菜も食べなきゃだめよ。若いときにしっかり食べて体作っておかないと、老後寝たきりになっちゃうからね。休みだからって昼まで寝てちゃだめよ。ちゃんと運動もして、いっぱい食べて、夜更かしはしちゃいけないよ––––

 うん。わかってるよ。奈美は相槌を繰り返す。

「あ、そうだ」

思い出したように母親が言う。

「段ボールの下の方に、私が飲んでるサプリも入れたの。朝スッキリ目が覚めるし、毎日健康に過ごせるから、飲んでみてね」


 それは母親が言ったように、段ボールの下部分にビニール袋にまとめて入っていた。小さな白いボトルが数本あるようで、そのうちのひとつを取り出して見た。

『テレプモック錠』

『毎日の健康に!毎日の幸せに!』

 そう謳うラベルが、にこやかな女の子の絵と一緒に、つるんとしたボトルの側面に貼ってある。上についた丸い蓋を開けてみると、薬っぽさのある甘い香りとともに濃い黄色の錠剤が詰まっているのが見えた。


「ねえ和樹、お母さん変なのにハマってない?」

「あぁテレプモックでしょ」

 弟の淡々とした声がスマホから流れた。

「友達でもけっこう飲んでいる人いるよ。母さんがうるさいし、おれと父さんも最近飲んでる」

 そうなの?と少し驚いて奈美は聞き返す。

「母さん昔から心配症じゃん。サプリだから体に悪いものじゃないし、おれらが飲んで安心するなら別にいいかなって。たぶん父さんも一緒じゃないかな」

 ふうん、と相槌を打った奈美に、和樹は付け加えた。

「でも、イライラすること減ったかもな。姉ちゃんもせっかくだし飲んでみれば?」


 土曜日の夕方、テレビをつけるとワイドショーが放送されていた。

『最近話題のサプリ テレプモック』

 ちょうど、そのタイトルでの特集だった。

「頭痛持ちで悩んでいたのですが、飲み始めてからかなり調子が良くなりましたね」

 女性アナウンサーがにこやかに言い、まわりもそれに同意を示している。

「でもちょっと怪しくないですか」

 中年の男性コメンテーターが司会に被せるように口を挟んだ。

「パッケージに幸せがどうの、とか書いてありますけどね、幸せになれるサプリなんかないですよ。健康とか幸せとか人によって違うじゃないですか。それを謳ってるってところが、ちょっと信用できないなぁって思いますけどね」

 そのコメンテーターは翌週から、体調不良により緊急降板となった。


 その日から連日、母親からの連絡が続いている。元気にしてる?お母さんは今日もテレプモックを飲んだから元気いっぱいです!早く奈美にも飲んで欲しいな。

 毎日同じような内容で、まるで小学生の日記だ。そろそろ既読をつけるのも面倒になってきたある夜、奈美のスマホが軽快な音で着信を知らせた。父親からだった。

 おう、奈美、元気か?と、話し出した父親を遮り、奈美は急いて言う。

「お母さん、どうなってるの?大丈夫なの?」

 しかし父親はため息をつき、次に発した言葉に奈美は呆然とした。

「意地を張っているおまえが悪いんじゃないか?

父さんも飲んでるけど、寝付きがだいぶ良くなったんだ。体にいいサプリだし、母さんも奈美のことを思って勧めてるんだぞ。奈美が飲んでくれないっていつも悲しんでる。母さんから食材と一緒に届いてるんじゃないのか?」


 その後少し話をして電話を切った。奈美は、ドアの向こう、床に置いたままの段ボールに目をやった。

 キッチンに向かうと、奈美は段ボール箱の中のレトルト食品をかき分け、ボトルの入った袋を持ち上げた。サバの缶詰が一つ、箱から転がり落ち、奈美の足元に転がった。袋の中には全部で5本のボトルが入っていた。そのうちの一つを取り出し、手に取ってみた。

 みんな飲んでるんだよね。私も一回飲んでみようかな。合わなかったら止めればいいし。

 奈美は立ち上がると食器棚からガラスのコップを出し、水を入れた。白いボトルについた丸い蓋を開け、中を覗くと、『テレプモック』と細い黒字で刻印された黄色の錠剤一粒を手のひらにのせた。

 それを口に含むと、水で、一気に食道へ流し込んだ。


 それから数ヶ月後、テレプモックというサプリメントは、その中毒性や依存性から危険視されるようになっていた。

 元々は体に足りていない栄養分を補うサプリメントとして、通販番組をメインに主婦層に向けて売り出されていた商品だった。

 しかし実際は、脳に悪影響のある危険な物質が含まれていたという事実が後に判明した。利益だけを求めた生産者が、意図的に含ませたものだった。

 中毒状態の人間が夢中で買い求めたことで、存在が飛び火の如く知れ渡り、その様子が感染症の蔓延と似ていたことから、それは『テレプモック・ウイルス』と呼ばれるようになっていた。

 政府はテレプモックを取り締まる法規の制定に取り掛かったが、それが全く新しい物質だったことや、中毒者が莫大な数だったことから、すぐには規制することができず、結局しばらくの間は容認せざるを得なかった。


 やがて母親から貰った5本のボトルを飲み切ってしまった奈美は、新しいそれを自ら追加で購入した。よく眠れるし、疲れは取れるし、以前より仕事も集中できるし、まさに絶好調だった。そのおかげか苛立つことも減り、ストレスも感じなくなった。今では毎日、にこやかに過ごしている。

 お母さん、私は今日も元気です。朝からテレプモックを飲んで、今日も仕事頑張ります!

 ぼやけた思考回路で打つ文字も、軽快に電波に流れゆく。


「行ってきます!」

 誰もいない部屋に向かって、奈美は元気よく声をかける。玄関を閉めエレベーターに踏み込むとき、履いたパンプスの踵がコツンと音を響かせた。

 奈美はマンションのエントランスを出て右へ曲がり、昨日より美しい可視光線の中、アスファルトの歩道を最寄駅に向かって歩き出した。


 既に自分のものではないステップを踏む。蹌蹌に、踉踉に。

 借り入れの生命力で産み出した一歩、それはまるで、耽溺のダンス。

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