メモリーインストール

鈴野広実

第1話

「アンインストール完了、っと」

 スマホに触れさせていた指先を離し、体内チップとの通信を切断する。面接から帰ったままのスーツを脱ごうとしたところ、今度はチップが脳内に直接、電話の着信を知らせてきた。応答、と念じながら指先でスマホに触れると、部屋中に友人の興奮した声が響いた。

「ねえねえ、メモリーインストール、すごかったでしょ? そろそろ面接終わった頃かと思って」

「うん、すごかった。まるでほんとに自分が体験したみたいに、何聞かれても答えられて」

 『メモリーインストール』という非合法サイトはその名の通り、自分のICチップに、他人の記憶を入れることができる、というものだ。サイトからダウンロードした記憶データを自らの体内チップにインストールすれば、他人の記憶をあたかも自分のもののように錯覚できるのだ。本来は生活の記録をはじめ、部屋の鍵、電子決済、スマホの遠隔操作などに使うものだが、まさかそのライフログをいじることができるなんて、思いもしなかった。

 就活で不採用になってばかりの私を心配して友人が教えてくれたのが、このサイトだった。友人はこのサイトで、多くの男性の憧れの的である女子中高一貫校の出身者の記憶をインストールし、合コンで一躍注目を浴びたらしい。私はというと、アルバイト漬けの日々を面接官にそのまま話しても受けが悪いため、ゼミやサークル活動に打ち込む華々しい学生生活の記憶を持って、面接に臨んだのだった。

「でしょ? 他人の記憶のはずなんだけど、その場で自分がどう思ってたのかとか、そのとき暑かったとか寒かったとかの感覚まで、ちゃんと思い出せるんだよね」

 女子校の記憶を鮮やかに、時に赤裸々に語ってやると、男たちは簡単に食いついてくるのだという。

「でも、これででうまくいっても、入社はできないよ。面接で嘘話してたってばれちゃう」

「え? なんで? 別に、そのままにしておけばいいじゃん」

「いやいや、サイトに注意書きあるの、見てないの? インストールしたままは危険です、って」

「そんなのただの注意でしょ? うち、あのあとつきあってる人いるんだけど、向こうはうちのこと女子校出身だと思ってるわけじゃん? だから記憶入れっぱなしにしてるけど、なんともないよ? 大丈夫、ほんとは田舎の共学であんたと一緒だったって、ちゃんと覚えてるから」

 そう言って友人はけらけらと笑い、これから彼と会うから、とあっさり電話を切ってしまった。

 友人は昔から楽観的なところがあるけれど、私は彼女ほど大胆にはなれない。やっぱりちゃんと就活しなきゃダメか、とため息を一つついて、のろのろと着替えを済ませ、スマホを手にしてベッドに座る。そうして就活サイトを見ていたはずが、気づけば例の『メモリーインストール』を見るともなしに眺めていた。

 どういう仕組みで運営されているのか、ここに記憶を提供しているのはいったいどんな人なのか、何一つわからない。怪しげな請求が来なければいいけれど、と怯えながら画面を自動スクロールしていると、ふと一つの文字列が私の目に飛び込んできた。

「なにこれ……十万円!?」

 その記憶はある若い女性のもので、説明文には、事故で亡くなった娘の記憶です、とある。母親が故人のチップから記憶データを取り出したらしい。

『これをインストールして、娘の記憶を語ってくれる方に、十万円差し上げます』

 そんな文面のあとには、なるべく娘と容姿が近い方にお願いしますと、身長や髪型などが記されている。その条件のすべてに、私は当てはまっていた。

 それにしても、こんなイタコのようなことまで、本当にできるものなのだろうか。その疑念は、先ほどの面接のことを思い出すと徐々に薄れていく。なにしろ、行ったことのない沖縄の風景まで、ゼミ旅行で行きましたとはっきりとしゃべってきたのだ。そしてやはり十万円の引力には逆らえなかった。就活のためにバイトをだいぶ休んでしまっている。

 詳細はこちらから、と記されたメールアドレスのリンクを開く。十万円のことには触れずに、お役に立ちたいです、という旨を、自動文章作成で印象良くまとめて送信した。



 一か月後。あたしは自室のベッドに寝転がって、通販サイトを眺めていた。すでにカートの中には、バッグとコートが入っている。次はアクセサリー、と念じて画面に触れると、高級ブランドとまではいかないまでも、数万円するネックレスやリングがずらりと表示された。

 あの霊能者みたいな依頼は、自分でも驚くほどにうまくいった。他人として行動していたからはっきりとは覚えていないけど、母親との思い出話に花を咲かせ、夕食までいただいてきた。その肉じゃがが本当に母の味だ、と感じて、私は思わず泣いてしまったのだ。後日、しばらく遠くに行っていた娘が久しぶりに帰ってきたみたいだった、と感激の言葉とともに、十万円分の電子マネーが送られてきた。

 それに味をしめたというわけではないけど、あたしはそのあともいくつかの依頼をこなした。亡くなった恋人の記憶、という似たような依頼もあれば、私とは正反対に、就活で話すための記憶には困らないのに、会話そのものが致命的に苦手、という人の替え玉面接も引き受けた。実際の勤務はテレワークになるから、合格さえしてしまえば、顔出ししないか、あるいは顔を変えるアプリなどでなんとでもなるらしい。

 そうして今のあたしは、就活もバイトもほとんどせずに、メモリーインストールでの依頼報酬で暮らしていた。服装の用意や移動時間などを含めても、時給換算で二万を切ることがないから、生活するのに十分どころか、ちょっとした贅沢までできる。

 良さそうなピアスを絞り込み、どっちがいいかな? と例の友人にメッセージを送る。メッセージの履歴を遡ってみると、二週間くらい前から返信が途絶えていた。さらにその前のメッセージはほとんど惚気話だったから、今はただ彼氏のことで頭がいっぱいなんだろう。長い付き合いの中で、少しくらい連絡が途絶えるのはよくあることだ。

 とりあえずバッグとコートだけを買おうと、通販サイトのログイン画面を開く。チップ認証のためにスマホに指先を近づけたが、「認証エラーです」の文字が繰り返し表示された。そういえば、メモリーインストールを使うときに、セキュリティ設定を少しいじった気がする。おそらく設定を戻せば大丈夫なんだろうけど、まだまだメモリーインストールを使う予定がある。小さくため息をついて、仕方なく手動ログインに切り替えた。

 メールアドレスとパスワードを脳内で唱えて入力し、ログイン、と念じる。ところが、何度やってもログインができない。最近の酷使のせいでチップが不調なのかと思って、最終的には文字の手入力も試したけど、画面は一向に変わらないままだった。

 もしかしたら、パスワードを覚え間違えているのかもしれない。確かに、チップを埋め込んでからはパスワードを使うことなどなかった。こうなったらもう再設定するしかないか、とさっさと見切りをつけて、そのための画面に移る。

「母親の旧姓は?」

 本人確認のために出てきたのは、至って古典的な質問だった。こうして個人用体内チップが普及する時代になっても、未だこの質問が有効なことに少しげんなりしてしまうが、つべこべ言っていられない。慎重に手入力しよう、と思った瞬間、指が止まった。母親の旧姓が、思い出せない。小さい頃は母方の祖父母とも交流があったし、忘れるはずはないのに、頭を振っても、首をひねっても、どうやっても出てこない。

 この手のど忘れは、自力でどうにかできるものではない、と早々に判断して、あたしはお母さんに電話することにした。調子の悪いチップからの連絡先呼び出しはせずに、お母さんのスマホの番号を直接タップする。数回のコールのあとに、お母さんのはい、という声が聞こえてきた。

「あ、お母さん? あたしだけど。ねえ、いきなりだけど、お母さんの旧姓ってなんだっけ? ネットの認証に必要で」

「……あなた、誰ですか」

 長い長い沈黙のあとに聞こえてきたのは、か細く震えた声だった。まるで見知らぬ他人からのいたずら電話かのような反応に、私の方が戸惑ってしまう。

「何言ってるのお母さん、あたしだってば。どうしたの? 具合でも悪い?」

「あなた、この間の」

 お母さんは急に何かに思い当たったような声をあげると、一転してきつい口調で言い放った。

「もう依頼は終わったはずです。娘の記憶は消してください。他人にいつまでも娘のふりをされたくありません」

 何を言われているのかあたしが全く理解できないままに、電話はぶつりと切られてしまった。依頼、記憶、娘のふり、どの単語にも心当たりがなく、お母さんはどうしてしまったのだろう、と心配で胸がざわつく。

 とりあえず何か手がかりを、とすがるようにスマホを手に取る。だけどそのスマホは、全く見覚えのないものだった。もっと可愛いカバーをつけていたはずなのに、これはシンプルな透明のカバーだ。気味の悪い虫を触ってしまったかのように、スマホを手から放り投げる。

 そうしてふと部屋を見回すと、机も、ベッドも、壁も、自分の部屋とは何もかもが違っていた。本棚には知らない本が並び、クローゼットを開ければ知らない服が詰まっている。これではまるで他人の部屋にいるみたいだ。どうしてこんなところにいるのか、ここは誰の部屋なのか、何一つわからない。

 あまりの心細さに、お母さん、とつぶやきがこぼれた。この際他人のスマホでもいい、と投げ捨てたスマホを拾い、お母さんに電話してみたけど、何度やってもつながらない。焦りは募るばかりで、だんだんスマホの操作さえもどうしていいかわからなくなって、いつしかあたしは迷子の子どものように、見知らぬ部屋で一人、泣き叫んでいた。

「おかあさーん! ここ、どこ!?」

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