第28話
どんなに殴られて夫婦関係が悪化しようと母は彼氏と別れるとは言わなかった。今思えば彼氏とはとっくに終わっていたのかもしれないが、母は意地でもそれを認めたくなかったのかもしれない。反抗的な母に父は激怒し、暴言が増えてそれが子供に向かうことすらあった。
母を罵り頬を張るどころかついには殴っては蹴る姿さえも見てしまった。父の悪鬼のような形相に姉も俺も怖くて黙っていたが母は違った。
「いい加減に言うことを聞け!」
忘れもしない四月五日の深夜、父が母を怒鳴る声が寝室から響いていた。
「言うことを聞かないならこの場で殺すぞ!」
母の泣き声と父の怒鳴り声が寝室から響いたがしばらくすると父の悲鳴が聞こえた。部屋を転げ回り暴れる音が響き渡った後、母の笑い声が響いた。俺はすぐに自室に駆け出すと廊下に飛び出した。暗がりの中、寝室の前で姉も怯えた顔で立っていた。父の絶叫と、母の絶叫が入り乱れ、暫くすると何も聞こえなくなった。鍵が内側からかかっていて中の様子を確認することは出来ず、警察を呼ぶのも躊躇われた。俺は怖くて姉の部屋で寝かせてもらうことにした。
姉は何も言わない。二人でベッドの中で無言で緊張していると遠くからサイレンの聞こえた。救急車とパトカーのけたたましい音が静まり返った街を進んでいる。俺はベッドから抜け出して外を見ると救急車とパトカーが家の前に止まった。母が外で門扉を開けて誘導している。俺はギョッとした。母のパジャマは血だらけで手や顔にも血が付いている。すぐに部屋を飛び出して母の元へと向かおうとしたとき、姉が寝室の前で悲鳴をあげた。
「崇之! お父さんが……!」
「……えっ!」
俺は踵を返して寝室に向かった。そこにはベッドサイドに倒れて血まみれの父がいた。脇腹を抑えて呻いている。
外に出ると母は能面のような笑顔で警察官と一緒に外に立っていた。
「これまで、二人には迷惑かけてごめんね。これから、お母さんまた頑張るからね」
母はそう言うと、ふぅと白い息を吐き出しパトカーに乗り込んだ。
父は重症だったが命に別状はなかった。あの晩、母はキッチンにあった包丁を隠し持って父に襲いかかったそうだ。父は暫く入院した後に帰宅した。母は数日間留置所にいる間に精神鑑定を受けた。そこで重度の躁うつ病であることがわかり、更に詳しい検査をするため病院に移動して長期入院することになった。
――――
恐ろしい春休みが終わり、俺は中学生になった。家庭内の空気は最悪で母は入院したまま戻らず、父は帰宅しても一切会話はしなかった。父が家事をしないので姉と二人で交代で家事を続けた。
何か一つでも楽しみを探そうと俺は陸上部に入部してから長距離を走る喜びを見つけた。ランニングに必要なものはない。スニーカーを履いてジャージで無心で走るだけだ。
時間を見つけて朝も夜も近所を走る練習をしたので最初は部内で下位だったタイムはどんどん伸び、上位に入るようになった。
悪友である
最初の中間テストはろくに勉強もしていなかったので最悪の結果に終わった。
そんな日常を過ごす中で、陸上部で最初の地区大会の日。俺はある女子に目を奪われた。
ポニーテールでグラウンドに立つ凛とした美少女。目を引くのはその外見や佇まいだけではなく、強いオーラのようなものを放っていた。大勢の選手に囲まれている中で彼女だけが俺には輝いて見えた。一目惚れとかそんな簡単な感情では表せない。全身を稲妻が駆け巡り、頭の頂点から脚の指先まで電流が駆け巡るような、そんな衝撃を受けた。
これまで、俺は女友達には滑り台で殺されかけたり、父親の死を笑顔で見つめる女子、母は父を刺して入院中だったりで、女性に対して少なからず偏見があった。
母のように良い教育を受けていても、見かけが良くても、普段はニコニコと友達であっても……ある日変貌してしまう生き物だと。
それがすべて覆された
話しかけたい気持ちもあったが他校の生徒に声を掛ける勇気なんて無かったので声は掛けられなかったが、俺は彼女から目を離せなかった。
それから俺は大会の毎に彼女の姿を探すようになった。出場者のリストを見て彼女の名前を知った。『旺南中学一年 立花藍』名前を知った瞬間に鳥肌が立った。
二年生になると両親が本格的に離婚する方向で話し合いが進むことになった。
母は逮捕されたものの夫婦間での事件ということで示談という形で解決に向かった。入院が長期化しそうなので母は離婚後は実家に帰り転院する事が決まった。
母は姉を引き取りたいと申し出た。父は俺を引き取ると申し出たので、その方向でスムーズに話し合いが進んだ。姉は母が心配だと話してはいたものの田舎に行くことは難色を示していた。結局、離婚後、姉は母と一緒に暮らすことが決まった。
姉の高校受験が終わった三月。両親の離婚が決定し姉と母は引っ越した。俺と父の二人暮らしは気楽なもので、父との会話は以前のように増えて行った。父はまた帰宅が遅くなったが、その頃には俺は家事はすっかり板についていたので干渉されることも無く自由を謳歌することができた。三年生になって受験が差し迫っている認識はあったが、父親が何も言ってこなかったこともあり焦りはほとんど無かった。
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