第26話
「お……お邪魔しています」
俺は緊張しながら挨拶をしたが返事はない。よくよく見るとその人は真波のお父さんだった。授業参観で会ったとこがあるが、ちょっとふくよかでパーマをかけたようなクルクルの髪型をした人だ。暗がりの中、その人は何の反応も示さなかった。声が聞こえなかったのかもしれない。
一歩近付いてよく見ると、お父さんは暗がりの中でわずかに揺れていた。ギシギシと音も聞こえる。あまりの不気味さに真波とお父さんを交互に見ると真波は笑顔で俺を見つめていた。
「俺……帰る」
「待って! よく見て」
真波が手を伸ばして寝室の電気のスイッチを押した。俺は、はっきりと見えたその姿をすぐに理解できず少し間を開けてその光景を理解した。
「……うわぁっ!」
思わず床に尻もちをついて畳に倒れた。寝室には、確かに真波の父親がいた。天井からぶら下がる紐で首を吊っている。首は折れてしまったのか、カクンと右下を向いて固まっていた。死体の足元の畳は薄汚く汚れている。
「お父さん。だよ」
真波は嬉しそうに見ている。
「お父さんはお金になるんだって」
俺は意味が分からず首を横に振るとわなわなと震えた。立ち上がることが出来ず玄関に向かって這った。腰が抜けてしまい手足はブルブルと震えていた。死体を見てしまった恐怖と真波に殺されるのではないかという恐怖が心の底から泉のごとく湧き上がってくる。
「お母さんがね。お父さんが死んだらお金がもらえるんだって言ってた。私、お金がもらえたら団地じゃなくて一軒家に住みたいな。崇之君聞いてる? 帰るの?」
俺は泣いていた。玄関に着くと震える指で靴を履いた。
「引っ越したら遊びに来てね」
真波の声がどこか遠くから聞こえたように感じた。
「このことは、誰にも内緒だよ!」
振り返ることもなく、俺は家を出た。そこから、階段を降りるのは大変で、何度も転んだり止まったりを繰り返して、ようやく家に着いた時には十九時を過ぎていた。俺は家に着くなり自室に籠もるとぶるぶると震えた。帰宅が遅かった俺を母親は叱責して頬を張った。夕飯も抜きになった。恐怖で怯えている俺のことなんて気付きもせず罵倒された。
「こんな時間まで何やってたの! この不良!」
「宿題をしろ! 罰として夕飯は抜きだ!」
真波の家で見たことは誰にも話さなかった。あまりに怖くて話せなかったし、母は俺に喋る隙なんて与えないほど激怒していた。
翌日は学校に行きたくなったがそれを母が許すはずもなく、俺は姉と学校へ向かった。姉は笑っていた。
「昨日何してたのよ〜? お母さんブチギレてたね」
母は姉には優しい。姉も豹変する母を知っているから態度には気を付けていた。教室に到着すると真波はいなかった。朝礼の時に担任からお父さんが亡くなった為に忌引欠席をしていると話しがあった。週末に両親は真波のお父さんのお通夜に行ったが、もちろん俺は同行しなかった。
その後、真波は引っ越すことは無くそのまま団地に住み続けていた。時折、真波は俺に笑顔を投げかけて見てくることがあったがそれからは真波と関わらないようにした。
――――
小学四年生の夏休み中のことだった。母が突然家に帰って来なくなった。帰宅した父が電話口で口論をしていた。
「いいかんげんにしろ!」
「仕事に家事に育児に! お前の勝手で全部投げるつもりなのか?」
「ふざけるな!」
父は母を口汚く罵った。最初は何で帰ってこないのかサッパリ分からなかった。それまで、父は仕事の忙しさから普段家にいるのはわずかな時間だった。平日はもちろん毎日仕事で夜は飲み歩いていたし、土日も仕事に飲みにといつ休みがあるのかわからないくらいだった。その為、母は家事に育児、それから会社の事務に、自宅を住宅展示場並に清掃すること、全てを任されていた。
学校の役員や行事にもしっかり来ていたので俺は母が無理していたなんて気付かなかった。家族の誰も母に対して思いやりを持っていなかった。やって当たり前、居て当たり前になっていた。
母は一週間帰ってこなかった。その間は姉が代わりに家事をしてくれた。母は実家に帰省していたらしく、帰宅すると俺と姉に謝罪して、それまでと同様の生活に戻った。父は母を責めた挙げ句に自分のことは謝ることもしなかった。
母は今で言うところのワンオペ育児だった。父方の祖父母は既に亡くなっていて、母の祖父母は遠方に住んでいた為簡単には頼れなかったこともあり母はそれからも疲弊しながら暮らしていた。母の家出後も父の帰りは遅く、挙げ句に帰ってこない日が増えていった。それに比例して母の機嫌が悪くなる日が増えて子どもが自室に行くと一人で酒を飲んだりソファーで明け方まで泣いている姿を見かけた。子どもの目から見ても夫婦関係は破綻していた。
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