第12話

「……な……なんでもないよ」


 藍は立ち上がると片言で話した。


「わ……私さ……用事! あの! 用事思い出したから帰ります」

「え? 何その喋り方! どうしたの?」

「お菓子とジュース、おやつに食べてね! お邪魔しました!」


 そのまま一目散に玄関に向かった。


「また、来てくれる〜?」


 藍はギョッとした。声の主は父親だったからだ。キッチンで煙草を吸いながら突っ立っている。その大きな体格のせいか黒い靄は半分ほど隠れてしまい外縁が少し揺れているのが見えた。ズカズカと父親が藍に近付いて来るのを確認すると藍は慌てて靴を履いた。 


「なんのお構いも出来なくてごめんね」

「いえ……お邪魔しました!」


 突然、お父さんが藍の手を掴んで何かを握らせた。思わずギョッとして藍がそれを振り払うと千円札だった。


「お菓子代に」

「……お構いなく」

「じゃあ、今度ご飯でもご馳走してあげるから一人でおいでよ」


 お父さんは鼻息を荒くしながら藍に顔を近づけた。肩越しに黒い靄が見えて藍は身を翻した。


「お邪魔しました!」


 藍はドアを開けるなり逃げ帰った。


 それからは愛莉の家には誘われても絶対に行かず藍の家に愛莉を呼ぶことも無くなった。


「ごめんね。今日両親と出かける用事があるから」

「ごめんね。今日病院なんだよ!」

「今日は習い事なの!」


 愛莉に誘われるたびに断った。学校や部活で話したり一緒に下校したり桜の家で集まっても愛莉の顔を見るたびに愛莉のお父さんの事を思いだしてはゾッとした。


 七月の期末テストのあと、市内で陸上大会が行われた。陸上部全員参加の初めての大きな大会で藍は緊張していたし、結果は八十人中四十番と振るわなかったが観覧席にはお母さんが応援に来てくれて、完走した藍に手を振っていた。


 その時、藍はハッとした。観覧席に愛莉のお父さんが座っている。競馬の新聞らしきものを広げているが、新聞で隠すかのようにカメラを持っていた。相変わらず、黒い靄が背中にピタリと張り付き、生霊は首をダランとさせたまま下を見ている。何か嫌な予感がした。


 昼休憩時、部活のみんなでお弁当を食べている最中、藍のお母さんは手を振って会場を後にしていた。午後は決勝なので、藍は応援にまわる。観覧席には、まだ愛莉のお父さんがいた。愛莉も午前中の予選で敗退している。


「ね、愛莉のお父さん観覧席に来ているの気付いた?」

「えー! 嘘でしょう?」


 愛莉は驚いた顔で観覧席を見ると、危うくおにぎりを吹き出しそうになった。


「なんでいるんだろ? しかも、競馬の新聞まで持ってて恥ずかしいわ」

「熱心に応援してくれていたんじゃない?」

「まさかぁ。気付かなかったよ。ホントに何で来たんだろう? 藍のこと見に来たのかな?」

「……ん? ……今なんて?」

「藍のこと、可愛いねとか言っていたから見に来たのかな?」

「いやいや、愛娘の応援に来たんでしょう」


 桜がお弁当を食べて終えて、お手洗いに向かうと愛莉はこっそりと藍の方を向いた。


「ここだけの話だけどさ……。私と妹はお父さんと血は繋がってないの」

「……! そうなの?」

「今のお父さんは私が小学生の時に再婚したんだ。私には無関心なんだけど、妹の早紀のことは過剰に可愛がっててキモいんだよね。アイツ、ロリコンだと思うよ」


 前回遊びに行ったときにその兆候は感じたものの愛莉には一切話さなかった。


「オェ。早紀ちゃん、かわいそう」

「早紀にはチューチューしたり抱きついたり」

「オェ」

「オェでしょう」

「じゃ、愛莉のことはさ。中学生だし大人だと思って接してるんじゃない?」

「あ〜……そんなことないと思うよ。前に私のこと、父親譲りのブサイクってお母さんに話してるとこ聞いちゃったことあるんだ」

「え……! ひどい!」


 確かに、妹の早紀ちゃんはお母さん似のアイドルのようなお目々パッチリの可愛らしい顔だった。


「まぁ、あいつに何言われても気にしないよ。どうせ義理の父親だし」

「本当のお父さんには会うことあるの?」

「……お父さんね。私が小さい時に交通事故で亡くなったの」


 藍は息を呑んだ。


「そうだったんだ。知らなかったとはいえ、ごめんね……」

「いいの、いいの。知らなかったんだから」


 話していると桜が戻ってきた。桜は予選を勝ち抜いたので午後の本戦にも出場する。


「ヤバい! 食べすぎたし緊張する!」


 さっきまでの二人のしんみりした空気は桜が掻き消した。


「大丈夫、大丈夫!」


 三人はお弁当を片付けて荷物をまとめた。

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