第11話

 キッチンの方から愛莉の声が聞こえた。


「お父さん帰っているの? ……お帰りなさい。」

「あ……帰っていたのか? 早いな?」


 キッチンの方からしゃがれた低い声が聞こえた。


「今日、テストだったから早帰りで。今友達が来ているんだけど」

「え?」


 愛莉が部屋に入ってくるとお父さんがそっとドアから顔を出した。お父さんはスウェット姿に丸坊主でヒゲも伸ばしていて、ちょっと怖そうなおじさんに見えた。口角をニイッと上げた笑顔で藍と桜を見つめている。


「お邪魔しています」


 藍が立ち上がって挨拶すると、桜も慌てて立ち上がりペコリとお辞儀した。


「ごゆっくり」


 お父さんがドアを閉めたあと、藍は冬樹君を思い出した。愛莉のお父さんは口角を上げて笑っていたが目元は笑っていなかった。冬樹君と同じだ。

 

 その日はお昼を食べた後に解散し藍と桜はアパートを出た。家を出ると藍は新鮮な空気を吸い込んでホッとした。通りまで出ると桜がこそっと藍に話しかけた。


「愛莉の家には驚いちゃった! 愛莉のことは友達だけど、家にはもう行かない。さっき食べたご飯も吐きそう」

「実は私も……。臭いがすごくて食べるのも辛かった」

「次からはまたうちか藍の家で遊ぼう」

「それがいいね」


 それから、翌週の金曜日の部活帰り。藍は再び愛莉の家に遊びに来ないかと誘われた。桜は習い事がある為行けないと断っていたし藍も家が汚かったので行きたくないと思った。だが、何度も誘われて、結局断るのは悪いと思い「遊びに行くね」と返事した。愛莉は嬉しそうに笑っていた。


「じゃあ、十時くらい? どうかな?」

「わかった。そのくらいに遊びに行くね。お昼前には帰宅するから」


――――


 土曜日、相変わらず梅雨時のジメジメした気候で蒸し暑い日だった。朝から曇り空で午後からは雨だと天気予報が告げている。藍はマンションを出ると自転車に跨がり、お母さんから渡されたお菓子と飲み物を前カゴに入れて愛莉の家に向かった。自転車はアパートの塀沿いの邪魔にならなそうな場所に停めた。


 玄関前のインターフォンを押すと『ブーッ』と、昔ながらのチャイムの音が響いた。愛莉がドアを開けてくれて、廊下には妹の早紀ちゃんがいた。藍は早紀ちゃんに挨拶してからお菓子を手渡した。


「おやつにどうぞ」

「わっ。ありがとう!」


 部屋の中はジメジメしていて蒸し暑く、窓を開けても風が入ってこない。扇風機を回したが生暖かい風が部屋の中を流れるだけでちっとも涼しくならない。部屋で三人で床に座ってお菓子を食べながら話していてもすぐに手持ち無沙汰になった。藍は家を出たくて提案することにした。


「どっか行かない?」

「どこ行くの?」

「早紀ちゃんも一緒に公園でも行く? それか買い物とか」


 三人でどこに行こうかと相談している時だった。ドアの向こうから異様な気配を藍は感じた。足元から這うように感じる黒い気配。だんだん、それが近づいてくる。一歩、一歩、また一歩と……。部屋の中の温度が急落していくように感じた。ドアの僅かな隙間から視線を感じる。藍はゾッとしながらドアの隙間を凝視した。昼間なのに廊下は暗くて、その暗がりの向こうに人間の目が覗いていた。


「あ……愛莉!」


 藍は半ば悲鳴のような声で愛莉にドアを指さした。愛莉が何てこと無さそうにドアを開けると、そこにはお父さんが立っていた。


「やぁ。今日も来てくれたんだね」


(……お父さん?)


 藍は立ち上がることもできず真顔で挨拶した。


「お邪魔しています」

「お父さん……寝てたんじゃないの?」

「今起きたよ。愛莉、早紀、お客様にお菓子でも買っておいで」


 お父さんはポケットから財布を取り出した。


「お構いなく! お菓子と飲み物持ってきましたから!」


 藍がすぐさま返事をするとお父さんは物欲しそうな目で藍を見た。


「それは、悪いねぇ。じゃあ何かお返ししないと。二人で買ってきて、藍ちゃんはここで待ってたら良いよ」

「え……いえ! お構いなく! 家にあったものですので」

「そういうわけにはいかないよ。家には出せるものが何にもないからさ。ほら! 愛莉! 早紀! 早く!」


 お父さんが呼び寄せると二人はめんどくさそうに立ち上がって部屋を出てしまった。


「じゃあ、藍ちゃんが好きそうなもの買ってきて」

「わかった」

「いえ! 本当に構いませんし! 何だったら私も行きます!」

「いやいや、お客様には家にいてもらわないとねぇ」


 藍は荷物を手繰り寄せて立ち上がった。


「いえ、行きます」

「そう? ……じゃあ、買い物は行かなくていいや。ごゆっくり」


 愛莉のお父さんが後ろを向いたとき、背中にピタリと張り付く黒い靄が見えた。驚いた藍が目を凝らすと、その影から首を一八〇度回転させたお父さんの生霊が現れた。


「……ひっ……!」


 生霊は白目を剥き出して、口からは舌を出してよだれを垂らしている。首をカクンとさせて前かがみになっているせいでどこを見ているかはわからない。


「どうしたの?」


 部屋に戻ってきた愛莉が不思議そうに聞いた。


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