第8話
七月十八日
もうすぐ夏休みが始まるとクラスは高揚感に包まれていた。教室の窓を全開にしても暑くて、朝からみんな下敷きをうちわ代わりにして仰いでいた。校庭の花壇には向日葵が咲いて太陽の方角に花を開かせている。用務員の先生がホースで打ち水をしているのが見えた。藍はそんな夏の景色を見ながら登校した。
教室に着くと、一人で席に座ってお気に入りの鉛筆にお気に入りのキャップを付けて遊んでいた。教室はみんなお喋りしていて賑やかなのに、藍の耳にははっきりと異音が響いた。
廊下の方からペタリ、ペタリ、ペタリ……だんだん近づく足音。何か異様なものが近づいてくる。藍は全身が総毛立ち息をひそめた。ペタリ、ペタリと足音は教室の前までやってきて、後ろのドアから入ってきた。
明るい教室が暗い影を落とし、一気に気温が下がったような感覚。足音は藍の隣で止まった。恐る恐る顔を上げるとそこにいたのは冬樹君だった。そして、藍は目を見開いた。真っ黒い靄に包まれた冬樹君の生霊が背中にぴったりとくっついている。
「あ……っ!」
藍は悲鳴を上げそうになって慌てて手で口を塞いだ。窓から風が吹き込みカーテンを揺らした。生暖かい風が教室の中を吹き抜ける。冬樹君の背中に取り憑いてるものは誰にも見えていなかった。彼は裸足で、男子は上履きを履いていないことをせせら笑い、女子は引いていた。
冬樹君は周りの反応など気にも止めずに椅子に座る。生霊は冬樹君と同じ顔をしているのに、黒目は異様に小さく白目をむいて周りに邪気を向けているようだった。今思えばその表情は鬼気迫る鬼のようだった。藍は前を向いた。
これまで見たものは「お化け」だと心の片隅で片付けていていた。でも、冬樹君は死んでいない。なのに、冬樹君の後ろにいるお化けはこっちを向いて、藍を見つめている。手が震えて持っていた鉛筆を落とした。机の上でバウンドし床にコロコロと転がっていく。藍は怯えながら席を立つと鉛筆を拾った。拾い上げた瞬間、視線を感じた。冬樹君本人ではなく、生霊から送られた視線だった。
――――
「冬樹君の上履きを取った人がいるなら出てきなさい。そして、隠した場所を話しなさい」
朝の会がいつもより少し早く始まるなり関根先生は怒っていた。冬樹君は学校で貸し出された職員用のスリッパを履いていた。
「全員、目をつぶって机に突っ伏しなさい。絶対に目を開けてはいけません。先生も誰が取ったか言わないので正直になりなさい」
全員が言われた通りに机に突っ伏した。
「……いいわね。それでは、上履きを取った者手を挙げなさい」
こっそりと、藍が冬樹君を見ると、冬樹君は机に顔を突っ伏しているが、生霊は爛々とした目で藍を睨んでいた。藍はすぐに下を向いた。
「……わかりました。前を向いていいです。では朝の会を始めましょう」
結局上履きを隠した犯人は挙手しなかったらしい。数人がこっそりと薄目を開けていたと業間休みに話していた。冬樹君は自分の席で呆然とした様子で座っていた。そのため関根先生は道徳に力を入れて『嘘は良くない』
と馬鹿の一つ覚えのように何度もクラスに訴えかけていた。
その日の学校の帰り道、藍が友達と別れてマンションに向かって歩いていると背後からドタドタと足音が聞こえた。振り返ると冬樹君がいる。生霊が彼の背後を
「来ないでよ!」
藍は立ち止まると思い切り怒鳴った。
「付きまとうのはやめて! 先生に言うよ!」
冬樹君は表情一つ変えずに笑っていて、口角をひくひくさせている。藍が再び走り出すと冬樹君も走り出した。
「来ないでって言ったでしょ!」
刹那、冬樹君が藍に手を伸ばしてきた。生霊も同じように手を伸ばしている。藍がその手を避けようと後ろに下がった瞬間、クラクションが鳴り響いた。
「あっ……!」
トラックが猛スピードで藍の横を走り抜けた。ここは歩道の線も無ければガードレールも無い通学路だ。藍が驚きで走り去るトラックを見ている間に冬樹君はいなくなっていた。
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