第7話

 藍は次のページを開いた。次のページには冬樹ふゆき君が描いてある。冬樹君と出会ったのは小学三年生の時だった。冬樹君は、ある日突然転校してきた少年で苗字しか覚えていない。

 梅雨のじめじめした季節で、転校してきた日は朝から雨が降っていたことを今でも覚えている。


 冬樹君は目が小さくて鼻はペチャッとしていて唇が薄い少年だった。表情が乏しく小さな声で挨拶するとボーッと突っ立っていた。挙句によれよれの服を着ていて異臭もした。今でいうところのネグレクトを受けていたのだと思うが当時の子ども達には児童虐待は今ほどニュースとして伝えられていなかったこともあり違和感を覚えるに止まった。


「じゃあ。冬樹君は立花さんの隣の席ね」


 藍はギョッとした。運悪く一番後ろに一人で座っていたせいで隣に座ることになってしまった。藍は小声で冬樹君に挨拶した。


「私、立花藍です。よろしくね」


 藍が挨拶すると冬樹君は片方の口角を上げて頷いた。藍はその顔が心底気持ち悪くて、すぐにプイッと前を向いた。授業が始まると藍は衝撃的なことを担任の関根先生から告げられた。


「冬樹君はまだ新しい教科書を持っていないから、机をくっつけて見せてあげて頂戴」


 藍は渋々机をくっつけて二人は授業を始めた。冬樹君はノートや文房具は持ってきていたが、鉛筆はどれも短くて消しゴムは割れてボロボロの物ばかりだった。


 授業中、冬樹君はじっと前を向いているが、その視線は先生でも黒板でもなく視点は定まっていなかった。時々藍の方をじいっと見ては口角を上げて笑っていて薄気味悪かった。休み時間になると藍はすぐに席を立って友達のもとに向かった。とにかく冬樹君から少しでも離れたくて仕方がなかった。


「ねぇねぇ、昨日描いてきた絵見て! 上手に描けたでしょ」


 友達は自由帳を出すとそれぞれ描いた絵を見せっこして、自慢そうに説明していた。ふと、その頃仲の良かった友達が小声で話しかけてきた。


「ねぇ、藍。隣になっちゃって残念だったね」


 残念だったね、と気遣いの言葉のわりに楽しそうに言う。


「うん……。早く席替えしないかな」

「この前席替えしたばかりだから夏休み明けじゃない?」


 その一言に藍は絶望的な気持ちになった。二時間目の授業が始まっても冬樹君は鉛筆を噛んだり、消しゴムを潰したりと落ち着きがない。貧乏ゆすりまでするので、藍は仕方なく小声で注意した。


「机が揺れちゃうからやめてもらえないかな……?」


 冬樹君の耳には全く聞こえなかったようでやめることはなかった。二度同じことを注意するのも面倒なので藍は僅かに机を離したが冬樹君は荒々しく机をくっつけてきた。

 給食の時間は、班でグループを組んで食べるので、藍と冬樹君は席を向かい合わせにして食べた。


「昨日、アニメ見た? ついに進化したな!」

「ねぇねぇ、漫画の発売日今日だよね? 本屋に買いに行かなきゃ」

「今日の給食のメインは魚か〜」


 口々に話しながら給食を食べ進めるが冬樹君は一切会話には入らず、ガツガツと給食を食べている。


「おい、冬樹! 食べたらサッカーに行こうぜ」


 班の中でもリーダー格の男子が声をかける。冬樹君はちらっと男の子を見た後にまた給食を食べ始めた。


「なんだよ! 無視かよ!」


 昼休み、冬樹君は男子グループに連れられてサッカーに行ったが、教室に戻ってきたときは全身泥だらけで膝小僧は擦れて血が出ていた。


「どうしたの冬樹君!」


 関根先生が慌てていた。


「あいつ、サッカーしてる時転んでましたぁ」


 冬樹君の代わりに他の男子が答える。


「保健室に行って手当をしてもらってから体操着に着替えて」

「体操着……まだ、ありません」

「あら……そうなの。じゃあ、保健室で替えの服を借りてくれる? 立花さん、保健室まで連れて行ってあげて」

「えっ……? 私ですか」

「保健委員でしょ。じゃあ、他の子は席に着いて。授業を始めますので、日直さん号令かけて〜」


 藍は渋々教室を出ると、先に立って廊下を歩いた。冬樹君は無言で着いてくる。


(保健室まで連れて行ってくれてありがとうくらい言えないのかな)


 保健室まで連れ添って行くとき、大抵の子がお礼を言ってくれる。彼にはそんな感謝の気持ちのかけらも無いんだろう。藍は苛立ちを覚えた。教室を出て左側に学年で使う大きな洗面所があり、その向かいに階段がある。そこを藍が降り始めた。


「階段を一階まで下りたら右に曲がって。昇降口の隣に保健室があるよ」


 ふと、後ろを振り返ると、踊り場で冬樹君は笑っていた。その顔は無邪気な子供の笑顔とはかけ離れたもので、目は笑わず、口元の口角だけを上げていて不気味だ。藍は思わずぞっとして前を向いた。これまでにそんな表情をする人を見たことが無かったので、背筋に戦慄が走った。急ぎ足で一階の保健室前まで案内すると藍はすぐに教室に戻った。結局、冬樹君は一度もお礼を言わなかった。


 冬樹君が学校に来始めてから一週間がたった頃、やっと教科書や必要なもの一式が配布され、席をくっ付ける必要は無くなった。それにも関わらず、冬樹君は授業毎に机を近づけてきたり藍の教科者や文房具に触ろうとした。最初は無言で机を離したりしていたものの、藍はいよいよ苛立ちを隠せなくなった。


「机は近づけなくていいの!」


 ついに藍の堪忍袋の緒が切れた。冬樹君は口をポカンと開けて驚いた表情で藍を見つめていた。でも、目だけはいつも通り変わらない冷めた目をしている。分かっていてわざとやっているんだと思うと更に藍の神経が逆撫でされた。


「立花さん、どうしたの?」


 関根先生が不思議そうに藍の元までやってきた。 


「冬樹君が何度注意しても、机を近づけてきたり私の机の上の物に触るんです」

「冬樹君。席の移動は授業中に指示があった時だけね。それから何か借りたいときには声をかけてから。わかりましたか?」


 冬樹君は小さく頷いた。それから一瞬、藍の事をいつもの不気味な笑顔で見つめたものの謝ることは無かった。

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