第3話

 帰宅して、まず一番初めにすることは手洗いうがい、それからベランダにある洗濯物を取り込む。母は数年前から仕事に復帰して小学校の教科別講師として働いている。今年は一年生の書写と算数の補助、それから学童クラブの手伝いをしている。そのため帰宅が夜なので家事を出来る範囲で手伝っていた。

 

 父は役場の教育委員会で働いている。昨年までは小学校で担任を受け持っていたが、四月からステップアップのために役場で働くことになった。つまり、教頭や校長として働けるよう修行中の身なのだ。藍はショートパンツとTシャツの部屋着に着替えるとベランダに向かった。


 今日は快晴なのでベランダからは湖のある公園や住宅地が見渡せて、遠くには山並みも見える。今日は富士山も見えた。ベランダに出ると、今でもあの夏の日の事が頭を過る。


 知沙ちゃんのお母さんは、ベランダから投身自殺をして即死だったそうだ。警察や消防が駆けつけたとき、知沙ちゃんと産まれて間もない弟は風呂場で絞殺されて既に亡くなっていたらしい。お母さんが自殺する数日前に、一度だけ知沙ちゃんの弟に会いに行ったことがあるが、お母さんは嬉しそうだったし知沙ちゃんはキャアキャアと弟の周りを走り回っていた。


 だが、実際はお母さんは産後の鬱状態だったそうだ。当時は産後の鬱というのは一般的に軽視されたり見過ごされがちだったせいで子どもの命まで犠牲になってしまった。知沙ちゃんのお父さんは知らぬ間にマンションを売却して退去していた。


 それから隣の部屋はしばらく分譲として売り出されていたがなかなか買い手がつかずに賃貸で貸し出されていた。訳アリ物件のためか、相場よりもかなり安く広告に載っているのを藍は見たことがある。


 これまで二組の家族が引っ越しの挨拶に来たことがあったが、付き合いはほとんど無かった上に更新の時かその前に退去してしまったようだ。

 

 知沙ちゃんのお母さんの最後の言葉である『イイネ。アナタハイイネ』がどういう意味だったのか。未だに藍にはわからず考えることがあった。


 昔、母に『知沙ちゃんのお母さんがイイネ。アナタハイイネって言っていたけどどういう意味なの?」と聞いたが、母は慌てていたせいで何も聞こえなかったそうだ。 


 その時、煙草の匂いで思考がかき消された。


(匂いが洗濯物に付いちゃうじゃない)


 慌てて取り込んでから匂いのする方をそっと見ると、隣のベランダで三上が煙草を吸いながら手すりから外を眺めている。三上の後ろに黒い靄と生霊がピッタリと背後に憑いているのが見えた。


(煙草! 最悪! 真面目に見えてこの不良者め)


 三上にばれないように藍はこっそりと部屋に戻った。


――――


「でさぁ。新一年生が可愛くて可愛くてたまらないのよ。もう、話は聞かない、座ってても足や手はぶらぶらしちゃうし。でも小さくて丸っこくてねぇ」

 

 夕食時、母は藍に新一年生の授業のことを楽しそうに話している。幼稚園や保育園を出たばかりの子ども達は母にとって可愛くてたまらない様だった。


「声も可愛いのよ。先生、先生って来てくれるし」

「良かったねぇ」


 藍は一人っ子だ。母が二度流産したことを藍も知っていた。本当は子どもが欲しかったのだろうが、諦めたのだろう。父はいつも通り二十一時すぎに帰宅して、リビングでテレビを見ながら楽しそうに母とビールを飲んでいた。それは、藍にとっていつもの見慣れた光景だった。


 自室に戻ると桜と連絡を取ったり、動画やSNSを見て過ごした。それから電気を消して、藍は眠りについた。


 深夜、暗闇の中で藍は目を覚ました。ノイズのようなザーーーッという音が聞こえたような気がした。だが、目覚めたとき室内は無音で何の音も聞こえなかった。スマホに手を伸ばして時間を確認すると深夜の二時だ。スマホには何の通知も来ていない。聞き間違いだと藍は寝ぼけながら思い、再び眠りに着いた。


四月九日(火曜日)


 翌朝、アラームで目が覚めた。スヌーズ機能で目覚ましをセットして止めては寝てを数回繰り返してからやっとベッドから起き上がった。リビングで朝食を取っている時、両親は今日の予定を話していて帰宅時間がどうとか言っているのをぼんやりと聞きながらテレビを眺めていた。

 家を出てマンション内で三上に会うかと思っていたがマンションはおろか通学路でさえ三上を見かけなかった。登校時間が違うことに藍は少しホッとした。


 駅の構内で桜と会うと、二人は改札を抜けてホームへと向かった。眠そうな桜の隣で藍は電車を待つ人々を見つめた。仕事に行く人、学校に行く人、お出かけする人。それぞれの目的を持って駅に来ている。もしかしたら、黒い靄に包まれた人もいるのではないかと藍は人の流れを目で追った。


「藍!」


 桜の声でハッとすると同時に電車が到着した。 


「それでさ。みのる君がね、週末にダブルデートでもしようよって」

「え? なんのこと?」

「聞いてなかったの?」

「稔君が友達連れてくるからダブルデートしよって」

「やだやだ。なんなのそのダブルデートって」

「たまには大人数で遊ぶのも楽しいかなって。映画とかボウリングとかゲーセンとか。わいわい遊ぼうよって」


 桜の彼氏の塚崎稔つかさぎきみのるは中学時代に陸上部の市内での大会の日に桜が一目惚れした。稔は桜と同じく短距離の選手で精悍な顔つきで、長身、そして細身の体ながら筋肉質でいかにも運動してますという外見だった。桜の猛アタックが功を奏し交際に発展。高校は同じ学校を目指していたものの結局別々の道を選び稔は私立高校に入学した。二人はつり革に捕まり電車に揺られながら話を続けた。


「ね、遊ぶだけだし」

「じゃあ、予定が合えばね」

「ありがとう! さすが、藍!」


 二人は駅に着くと改札を出た。今日も朝から快晴で柔らかな風が吹いている。桜は相変わらずずっと話していて、それを藍は相槌を打ちながら聞いた。校門を過ぎて昇降口に向かいながらから朝練をする陸上部を藍は眺めた。今日は放課後に部活見学が実施される予定だ。


「あれ……」


 藍は小声で呟いた。陸上部に三上がいた。一見、校庭を爽やかに走っているように見えるが藍の目には背後に真っ黒な靄と生霊を取り憑かせて走る異様な光景にしか見えない。


「あらー。三上君だっけ?」


 桜が藍の視線を追いかけて嬉しそうに話しかけてくる。


「もう陸上部に入部したのかな?」

「いつの間に入部届を出したんだろう?」

「そういえば、三上君……同じマンションだった。隣の部屋に住んでる」

「えっ? マジで? すごい偶然じゃない」

「本当だよね。てかねぇ、桜! 昨日の会話丸聞こえだったんだから! 気をつけてね!」

「昨日の会話って何よぉ」

「声のボリューム大きすぎるの!」



 

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