タイムトラベラーきつねとたぬき

秋月カナリア

タイムトラベラーきつねとたぬき

 助手がケトルを持ってテーブルに行き、それぞれのカップ麺にお湯を注ぐと、博士がすかざす蓋を閉めた。そして箸置きで蓋を押さえる。

 冷たい麦茶を持って助手が戻ってくると、博士はポケットから小瓶をとりだした。

「それが完成したあれですね」

 博士が重々しく頷く。

 タイムトラベラー香味油。

 それを赤いきつねと緑のたぬきにかけて食べると、赤いきつねは未来へ、緑のたぬきは過去へとタイムトラベルできる。

 ただし、制限時間はカップ麺を食べている間だけだ。

 行ける時間も、過去や未来で自分が同じ物を食べている瞬間のみである。

 二人は過去幾度となく赤いきつねと緑のたぬきを食べているし、これから先も食べるであろうからこれは問題ない。

「しかし、なんで赤いきつねと緑のたぬきだったんですか?カップ麺なら他にもあるでしょうに」

「だって、私の名前は三木みき恒雄つねおだし、きみの苗字はきぬたじゃないか。もしこれが成功した暁には、東洋水産さんから一生分の赤いきつねと緑のたぬきをいただけるかもしれない」

「一生分って、それは一日一個の計算です?」

 タイマーが鳴ったので二人は蓋を丁寧に剥がすと、博士が香味油をそれぞれカップ麺にふりかける。

「良い香りですね」

 博士は満足そうに頷いた。

「よし、いただこう」

 メガネを湯気で曇らせながら、二人は麺を啜る。

「あれ、これって」

 助手がそう呟いた。

「なんだ、成功したか?」

「いえ、なんでもありません。普通に美味しいなって思って」

「この研究は、失敗したとしても、美味しいから続けられるところもある」

 二人は無言で食べ終わった。

「失敗だったな」

「ですね、でも美味しかった」

「ああ」

 二人はカップ麺のからを片付けると、研究所を閉めて、それぞれの家路に着いた。



 あれから何年経っても研究は成功しなかった。

 二人は何度も向かい合って赤いきつねと緑のたぬきを食べた。

 僕が風邪をひいて食欲がないときは、食べやすくなるように博士がアレンジして作ってくれたし、博士の肺がんが見つかって、余命が一ヶ月から半年と宣告された日も食べていた。

 あれだけ僕に健診を受けろと言っていたのに、自分が癌になってしまうのだから博士らしい。

 看取りのときに博士が、

「私が死んでも研究は続けてくれ、そしてノーベル賞をとるんだ」と言ってタイムトラベラー香味油の瓶をくれた。

 それに対して僕は、

「博士、忘れたんですか? 僕は文学部だったんですよ。博士のあとを継げるわけないじゃないですか」と返したけれど、博士は聞こえていただろうか。

 大学生だった僕は進路を悩んだまま四年生になってしまい、このまま大学院に進んで、そのまま研究者になるのも良いかもしれない、なんて甘い考えを抱いていた。

 そこへ博士がやってきて、「研究者になっても昇進すれば研究する時間なんてなくなるぞ!」と僕に言って、自分の研究所にくるように言ってくれたのだった。

 そのときも、僕は何度も文学部だと話した気がするけれど、博士にとっては小さいことだったようだ。

 それから二人で研究に没頭した。といっても、最初の数年、僕はとにかく理数系の勉強をするだけだったし、それから後も、博士の研究のことを十分の一も理解できなかった。

 だから僕の立場は助手というよりも、秘書だったと思う。

 それでも楽しかった。

 毎朝起きるのが楽しみだった。

 何の成果もあげられなかったのに、ちゃんと毎月の給料は支払われた。もちろん、同じ年代からすれば決して多いとは言えない金額だったけれど、自分一人で生活するだけならば充分だった。

 あれはきっと、博士がどこかで働くかして、僕に渡してくれていたのだと今ならわかる。

 

 

 博士が亡くなったので、研究所を閉めることになった。

 研究所は御年八十歳になるおばあちゃんが大家をつとめる下宿の庭にあった。その下宿に博士も住んでいた。

 大家さんの孫がガレージバントを組みたいといって、ガレージを先につくったものの、メンバーが集まらずに放棄されていた建物を使わせてもらっていたのだ。

 大家のおばあちゃんには、家賃はもういいから、しばらく使っても良いと言われていたけれど、僕一人で研究ができるわけでもない。

 何に使うのか結局わからなかった機材などを、方々に寄付するなどして所内の物を減らしていった。

 数日経って、あらかた片付けも終わった。

 最後にもう一度、緑のたぬきを食べることにした。

 ケトルでお湯を沸かし、テーブルの上に用意された緑のたぬきにお湯を注ぐ。

 冷たい麦茶を用意して、一人でタイマーをセットした。

 そしてタイムトラベラー香味油をポケットから出す。

 中身は残り少ないが、一回分くらいはあるだろう。

 タイマーが鳴り、蓋を剥がし、香味油を注ぐ。

「いただきます」

 メガネを湯気で曇らせながら食べていると、その曇りの向こうに誰かが見えた。

「あれ、これって」

 僕は思わず呟くと、向かいの誰かが答えた。

「なんだ、成功したか?」

「いえ、なんでもありません。普通に美味しいなって思って」

 僕はそう言って、麺を啜る。

 食べ終わる頃には、一人になっていた。


 


 

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タイムトラベラーきつねとたぬき 秋月カナリア @AM_KANALia

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