第12話 マリ・クレール
「そんな北京原人みたいな顔すんじゃねーよ」と誠司が言うと、「なぬ」と妻の照美は夫を睨みつけた。
「仕方ねえだろうが。ここまでくりゃ、節約しねえとな」
「ふん。やっと蓼科まで来たのにィー」と助手席に座った照美は、不愉快な形相で車の窓から外の景色を恨めしく眺めた。夫の誠司とわがまま女房の照美は、さっきから宿泊ホテルのことで言い争っていた。せっかくいいロケーションになって来たのに、今夜の宿泊は無し、と固い意志で臨んだ夫を歯痒そうに見詰める照美は不機嫌だった。妻側の窓は、頭から湯気が出ているのか、窓ガラスが曇っていた。照美は手の平でガラスを拭きながら、じっと雪景色を眺めている。誠司は助手席に乗ったゴリラの不機嫌な様子を見て、やっぱりホテルに予約しようかと何度か迷ったが、当初からの計画通り、ホテル・ヴィラ蓼科のマリー・ローランサン美術館で絵画を鑑賞したら、夕食を済ませて、満月の夜空を楽しみながら車中泊することにした。この年の一九九九年が過ぎると二十一世紀を迎えるめでたい今回の銀婚旅行なのだ。妻に何もしてやれなかった誠司は、最高の景色ドライブとプレゼントを用意していたのである。妻が二十年前にバイト先で盗まれて失くしたマリ・クレールの長財布のことを思い出して、今回ひそかに同じブランドの狐色の長財布を買っておいたのだ。白樺湖を見せて、蓼科山が深紅の夕陽に染まり、満月の夜空の下で結婚記念日の贈り物を妻に渡す、そんなことしか頭に浮かんで来ないのが、今の誠司だった。
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