きつねとたぬきの物語

澄田ゆきこ

本編

 食べ物には神様が宿るんだよと、小さかった私に母は言った。

 だから食べ物は大事に食べなさい。「いただきます」ときちんと手を合わせなさい。思えばただのしつけの一環だったのだろうが、夢想家だった少女時代の私は、食べ物に宿る神様をありありと思い浮かべることができた。

 食べ物に神様が宿るなら、今目の前にある「赤いきつね」にも、神様が宿っているのかしら?

 母の帰りが遅い時、私はひとりぼっちで炬燵にもぐりながら、目の前の「赤いきつね」にじっと目を凝らした。我が家の食品棚には「緑のたぬき」もある。神様が宿っているとしたら、きっときつねとたぬきそのものだ。きつねもたぬきも化ける。カップ麺は夜をしのぶ仮の姿で、夜になるとポンと術を解いて遊ぶのだ。

 想像するとうきうきして楽しかった。ピピ、とキッチンタイマーが鳴って、私はゆっくりと蓋を開ける。もくもくと白い湯気が立ち昇る。きちんと「いただきます」をして、そおっとお箸を入れて、熱々の麺を数本ずつゆっくり啜った。

 私の家は母子家庭だった。母はいつも忙しそうに働いており、夜遅く、眠るころになって帰ってくる。夕ご飯はいつも私一人だった。おうちにお母さんがいて、手作りのごはんを作ってくれる。そういう類の幸せは、私の手には届かない。

 仕方ないのだ。不倫をした父を見限り、離婚を決めたのは母だった。あくせく働く生活は離婚する前と変わらなくても、母はいっそう身を粉にして働くようになった。ごはんを作る時間も体力もない。母が私のためにがんばっているのは知っていたし、みんなみたいにおうちでご飯をつくって一緒に食べたいと言っても、母を困らせるだけだということはわかっていた。

 それでも、ひとりぼっちの夕ご飯は、寂しい。

 最期の一本まで食べ終わってしまって、私はおだしを少しだけ飲む。ざらざらした発泡スチロールが唇に触れる。優しい味のおだしがおりていく。お腹がぽんわりと温かい。

 食べ物に神様がいるなら、きつねとたぬきが友達になって、一緒に遊んでくれたらいいのに。

 そんなことを思ったとき、だった。

 ふわりとした毛並みが、頬をくすぐった。

 友達のもっていたファーのキーホルダーのような、やわらかい感触。

 気づくと、私の手の中にあった容器が、小さなきつねに変わっていた。

 ほんのりとオレンジがかった毛並み。ふさふさのしっぽ。ほんのりとお日さまのにおいがする。やや赤みがかっているが、絵本で見るきつねとそっくりだ!

 私は驚いて、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。きつねは私の腕の中で、人懐っこく顔を摺り寄せてくる。

 なんてかわいいのだろう……。

 すると、腰のあたりにも何かやわらかい毛並みが触れた。そちらには苔のにおいがするたぬきがちょこんと座っていた。

 私はきつねとたぬきとすぐ友達になった。言葉を発することはない二匹は、けれど私の言葉を理解しているみたいに私と遊んでくれた。一緒にお風呂も入った。誰かと一緒に過ごす夜の楽しいこと! もふもふの二匹にはさまれながら、私は夢見心地だった。

 その日は二匹と一緒に布団に入った。夜遅く帰ってきた母は、「あらあら、変な子」と言って、胸に抱えていた二匹を布団から出してしまった。からからと乾いた音がする。ああ、あれは母にはただのカップ麺に見えているのだ。たぬき寝入りをしながら、私はそんなことを思った。


 きつねとたぬきはいつも私の傍にいた。授業中も膝やすねに顔をこすりつけてきたし、苦手な持久走のときは一緒に走ってくれた。他の人には見えない、私だけの友達。私は幸せだった。

 ある日、母が珍しく授業参観に来てくれた。有休をとったらしく、授業参観が終わったら、一緒にファミレスに行く約束だった。母が見てくれていると思うと、いつもと同じはずの授業も背中がぎゅっと強張った。

 がんばれ、と言うようにたぬきが丸い目でじっと私を見ていた。うん、と頷いた時、先生が私を指名した。

 私は慌てて立ち上がる。椅子が倒れそうになって、小さく笑い声があがった。私は耳まで真っ赤になる。黒板にあるのは簡単な計算問題だ。答えはさっきまでわかっていた。

 そのはずなのに、あれ、なんだっけ。答えがちっとも出てきてくれない。

 わかってたのに! どうしよう。焦りでどんどん頭が真っ白になる。先生が怪訝そうにこちらを見ている。私は口をぱくぱくさせて、何かを答えようと試みた。

 どうしよう。せっかく来てくれた母を、がっかりさせてしまう。

 涙がじわりと滲んだ、その時。

 四十二! と耳元で小さく声がした。

「四十二です!」

 私は必死で言った。「そうです。よくできましたね」と先生が微笑む。ぱらぱらと拍手が聞こえた。母の方を振り返ると、母がかすかに涙ぐんでいるのが見えた。

 私はほっと胸を撫でおろす。ゆっくりと椅子に座ると、軽やかな毛並みがそっとふくらはぎを撫でた。


 中学生になってから部活が忙しくなって、目の前のものに忙殺されるようになってから、きつねとたぬきのことを考えることも少なくなっていた。そのまま、気づくと思い出すこともなくなっていた。ふと気づいた時には、あの二つのカップ麺は、ただのカップ麺にしか見えなくなっていた。

 子供時代にだけ訪れる、空想上の友達。そう言ってしまうと味気ないけれど、大人になるにつれ卒業する類の、甘くて少し苦い友情なのかもしれない。そのまま私は大人になった。子供のころ夢見ていたような素敵な大人ではなく、ぐったりと疲れ切った大人に。

 大みそかのスーパーは目まぐるしい。サービスカウンターには絶えず人がやってくる。長く続く立ち仕事で、ふくらはぎが張っている。いくら肉体が疲れても、接客業だから笑顔を絶やしてはいけない。過酷な仕事だ。最近、目じりの笑い皺が気になるようになった。

 とうに定時は終わっている。大みそかが仕事納め、仕事始めは一日の初売り。明日の出勤はオープンに合わせた八時。せめて夜はテレビでも見てゆっくりしようと思っていたのに、客は途切れないばかりか、厄介なクレーマーがお出ましだった。些細なことを針小棒大にまくしたてる有名なクレーマー。そんな人に限って、バイトの子が受け渡しのミスをしてしまった。ミスのしりぬぐいのために、私はひたすら平謝りを繰り返した。

 怒鳴り声はいくら浴びても慣れない。小さい頃から母だけの家だったから、年上の男性はただでさえ緊張してしまう。

 申し訳ありません、と心を殺して口にしていたら「本当に申し訳ないと思っているのか!」と怒号が飛んだ。唾が顔にかかる。私は心底申し訳なさそうな顔をつくって、もちろんでございます、と声を出す。

「本当に申し訳ないと思っているなら、俺の名前くらい覚えているんだろうな!」

 真っ赤な顔がこちらを睨む。覚えていないはずがない。

 ……そのはずなのに、どうしても名前が出てこない。

 すっと血の気が引いていく。「どうなんだ!」と怒鳴る男性を前に、私は狼狽を隠せない。それでも名前は浮かんでこない。

 胃の腑がぎゅっと痛くなった、その時。

 やまだ! と鈴の鳴るような声がした。

「山田様、この度は大変ご迷惑をおかけいたしました」

 私は深く深く頭を下げた。どこからか助け舟を出してくれた神様に向かって。

 男性は興を削がれたのか、「次から気をつけろよ」と悪態をついて踵を返した。

 どっと緊張が解け、汗が噴き出した。その時、ストッキングのふくらはぎに、さらさらと温かい毛並みが触れた気がした。

 

 間もなく私は退勤することができた。お祭り気分の客たちにまじって、かごを持つ。二匹の神様はもう私の前にはいない。けれど、きっと見えないだけで、私の傍にはいてくれている気がする。一人ぼっちの少女だった私に、そっと寄り添ってくれたみたいに。

 そうだ、今日は年越しだ。年越しそばに「緑のたぬき」を買おう。お雑煮を作る気力はないけれど、年始からの力をつけるために、明日は「赤いきつね」にお餅を入れよう。売り場に並ぶカップ麺はやっぱりそっけないカップ麺のままだったけれど、私は二つを手に取って、かごに入れた。

 アパートはきんきんに冷え切っていた。パンプスを脱ぐと、はーっと大きなため息が漏れた。こんな時でもかろうじて作ることができるから、カップ麺はありがたい。ケトルでお湯を沸かし、「緑のたぬき」のフィルムをぺりぺりと剥がす。蓋を半分まで開けて、粉末スープを入れ、沸いたお湯を注ぐ。

 年末のテレビ番組はにぎやかだ。ぼうっと見ているうちに、キッチンタイマーが鳴った。湯気が部屋の湿度を上げてくれる。もう一度私を救ってくれた神様を思いながら、私は「いただきます」と手を合わせる。

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