エピローグ
はじめは、カエルだった。
次は、子猫。その次はカラス。大きな猫、大きな犬。
私はその様を、一番長く見つめていた。私は多くの兄弟とともに、小さなゲージの中へと押し込まれていた。一匹一匹消えていく。最初に一本一本小さな指をそぎ落とし、肉球をはぐ。薄く向こうが透けて見えるような小さな耳に傷をはしらせ、そぎ落とす。くるくると黒い目は、スプーンだ。くるりと引っこ抜く作業には、コツがいるらしい。最初の一匹目と二匹目はつぶれたミニトマトのような眼球がスプーンに乗っかっていた。透明の液体が猫の顔へとべたりと張り付き、脈打つ血管が、瞳があったはずの場所から見える。そこまでの手順はみんな同じだった。
その後腹をかっさばいて表と裏を反対にするもの、ピンクに色づく内蔵を一つ残らず飛び散らせるもの、首を切り裂き、中から白い骨をカリカリと取り出すもの。
彼女は猫がお気に入りだったらしい。小さな生き物がほんの少しずつ動かなくなる瞬間、光悦な表情でその腹へと刃を突き立てた。けれども一度、私の兄弟が彼女の指を切り裂いた。飛び散った血は、私達のものと特に変わりがなかったことが、私はとても印象的だった。それから彼女は、最初に猫の両手両足を切り落とすようになった。
中くらいのサイズから消えていき、だんだんとそれは大きくなる。一番小さかった私は、彼女の趣味に合わなかったらしい。それは運がいいのか悪いのか、私は兄弟達が殺されていく様を、延々と目に焼き付けることになった。
彼女は私を殺さなかった。けれども、毎日貰う餌の量が、ほんの少しずつ減っていることに気づいたのはいつの頃だったろうか。一粒。二粒。三粒。四粒。
はっきりと意識したとき、それは一日に小さじ程度の量となってしまっていた。それを私は必死に食べた。必死に生きながらえていた。腹が鳴る。腕を動かすことすら厭わしい。
私は今でも空腹が一番嫌いだ。痛いことも嫌いだ。
片づけられもしない糞尿の臭いが鼻へとこびりつき、体は薄汚れていた。黒くふさふさとしていた私の腕はぺたりと皮が骨にはりつき、視線を落とせば、肋骨が体から浮き出ていることが分かる。
彼女は、ほんの少しずつ力を失う私は、お気に入りらしかった。
それはただの偶然だった。閉じ忘れたゲージの扉を、ほんの少し鼻先でつっつくと、キリキリと鉄のさびた音を立てながら開いた。試しに、外へと足を伸ばしてみた。キリキリ。扉がまた少し広くなる。気づくと私はカーペットの上へと四本の足を載せていた。換気のためか、薄く開けられた外へと続く窓も、すっかりとやせ細った私の体は何の問題もなく通り抜けてしまった。
初めて自分の足で、外に立った。カサカサと足の裏をこする芝生がくすぐったい。流れる風が、私の頬をくすぐる。光が、私へと差し込み、足下に小さな縁を作っていることが分かった。
私は歩き出した。そして振り返った。あんなにも大きく私の瞳へと移り込んでいたあの空間は、とてもちっぽけな存在へとなりはてている。無性に胸をかきむしりたいような、そんな気持ちになった。
全てただの偶然だったのだ。そして私は、あの飼い主から逃げた。
「ええーと、この度は、大変でしたねぇ」
警察官は首もとに巻いたネクタイを、両手で締め上げ、彼を見つめた。テレビに出るような髪の毛がボサボサで、スーツもだらしなく着こなしていた俳優と違い、のんびりと巻かれる語尾と反し、清潔そうな、しっかりとした服装だった。
先ほどこちらに見せた黒光りする、まるでパスケースのようなものを、警察官は懐へとしまい込んだ。ドラマでは横に開く手帳式だったのに、本物は違うらしい。なんだかちょっと残念だ。
パスケースをしまった手で、ノート程の折り目の付いている白い紙を彼は取り出す。ええっと、と眉を寄せながら警察官は呟く。
「珍しい名字ですね」
「そうですか」
「ええ、何て読むんですか?」
「めぐみ。目久美、良和です」
「はぁ、いい名前だ」
警察官は、私は山田って言うんですけどね、まぁポピュラーすぎてみんなすぐ覚えてくれるんですけどね。ととてもどうでもいいことを、ペラペラと口にする。私は定位置であるめぐみの膝の上で、ふわあ、と小さなあくびをした。
お茶を淹れてきますね、と台所へと立つめぐみを、警察官はおかまいなく。と呼び止める。部屋に一つしかない小さな折りたたみ式のテーブルの前で、めぐみと警官は再び向き合って座った。
そのときめぐみの膝から降りた私を警官は見つめ、細く緩んだ目つきのまま、可愛い猫ちゃんだ。と口元をにっこりと上げた。私はふんっ、と鼻をならした。別にめぐみ以外に好かれたい訳じゃない。
苛立ったので、部屋から逃げ出し、ドアから体半分を覗かせながら睨んでやった。警察が失笑する声が聞こえる。けれどもすぐに真面目な顔つきとなり、めぐみに顔を向けた。
「それで、矢上さんのことなんですが」
「知りません」
「まったく?」
「はい、名前も、今初めて。サークルでときどき見る顔だな、とは思っていましたが」
「けどね、本人は、『しおりに目久美君をとられた』って叫んでるんですけどね」
「おそらくしおりも面識はないと思います。目があったなら、挨拶くらいしたかもしれませんが」
ほんの少し言いよどんだ後めぐみは、僕の記憶にはありませんし、僕としおりはそんな仲ではありません。と締めくくった。それに警察官自身も頭をポリポリと掻き、ムースで固めた髪の毛が、ほんの少し崩れた。
「不思議な話です。一目惚れというものなのでしょうか」
「さぁ、分かりませんね」
「それでは吉川さんは」
「矢上さん、でしたか。彼女と言い争いをしたということは、その……事件の後サークルの人たちに。けれども僕は言い争いをしたらしいその場にはいませんでしたし、動物の死骸がばらまかれているというものも、実際に目にしたわけではないので、噂程度にしか知りません」
「あまり人と関わり合わないタイプなので?」
警察官のどちらかと言うと失礼な質問に、めぐみは一瞬呆気にとられたような表情をした後、視線を左右に揺らした後に、そうですね。と頷いた。
やはり彼は友人が少ない人間なのだろう。
「その、また失礼な話なんですがね、矢上さんは包丁を持っていたんでしょう。よく立ち向かえましたね、その身長、あ、いや、あまり身長の方は、高くないようですし、体型の方も」
「どうぞ、お気になさらず。高くないどころか、低い自信もあります。こんな見かけですから、子供の頃はよく絡まれました。運動は苦手ではありませんが、筋肉なんて見ての通り」
ほら、とめぐみは上着をめくりあげ、警官へと腹を見せた。
なまっちろく、筋肉もついていない体に、警察官は見せなくて結構ですからと慌てたように腰を上げた。その様子をめぐみは意地悪く瞳を細め、ククッと喉の奥で押し殺したように笑い、腹をしまった。
「こう、体格がよくないでしょう。ですから両親が心配して、まあ色々と習い事をしたものです。筋肉は相変わらずつきませんでしたが」
「それはいいご判断だったんでしょうな」
どうでしょうねと苦笑しながら、めぐみは続けた。
「僕はね刑事さん、犯罪なんて嫌いです。悪事を放置しておく行為も嫌いです。だから、テレビドラマなどの刑事さんは好きですよ。二時間ちょっきりですぱっと解決してくれますから」
「耳が痛いことを言います」
「僕自身、いつか犯罪者と呼ばれる人間を捕まえてみたいと考えていました。丁度刃物を持った人間が襲ってくる瞬間を取り押さえるような。何度も何度も想像しましたよ。矢上さんは、そんな僕の想像とピッタリでした」
めぐみは手のひらをテーブルの上で合わせながら、その指先をじっと見ていた。
それは、と興味深げに警察官が呟く。コンコンコン。めぐみが人差し指をテーブルの上で叩き、何度か口をぱくつかせた後、すん、と鼻を吸って、警察官は床に座り直した。
「どうでしたか、夢が叶って」
嫌みを含んでいる訳でもないらしい。ただの興味本位だろう。その言葉を聞き、めぐみはゆっくりと目を閉じた。カチコチと時計の針が動く音が聞こえた。それから閉じたときよりも、のんびりとめぐみはくりくりとした瞳を開いた。
「わかりません」
ふ、と警察官が、面白そうに息を吐いた。
「お手を煩わせました。また、何かあれば」
「いえ、ご苦労様です」
玄関先で定例のような言葉を彼らは重ねる。開いた扉の向こう側から、冷たい空気が流れた。ぶるりと警察官は一つ震え、失礼します、と革靴を動かし、頭を下げる。
「え、あ!」
「んお」
男と女、二人の声が聞こえた。丁度警察官が振り向こうとした瞬間、男とぶつかってしまったらしい。標準よりも随分小柄な男は少し弾かれて、ぶつかったおでこを撫でた。女は大丈夫ですかと、男と、警察官に声を掛ける。
「しおり。部長も」
微笑まし気な笑みを浮かべながら、警察官は「私はこれで」と再度頭を下げ去っていった。
先ほどまで一人減った空間に二人増える。暑苦しい、と思いながら私は本心、少し喜んでいるようだ。
めぐみは警察へと出し損ねた温かいお茶を自身の分として、追加で二人の前へと出し、机の前に座った。ただでさえ小さなテーブルを三人が囲んでしまっているため、すっかり三人の中に沈んでしまっている。
「部長、風邪の方はもう」
「ん、おう。悪いな、こんなときに」
ほんの少しバツが悪かったのか、小柄な男は短い髪をひっかき、片眉を下げた。そう、部長は生きていた。全てはただの私の勘違いだったのだ。
そのことをめぐみから聞かされたとき、私は真っ先に部長がいなくなったと勘違いした日、嗅いだ血の匂いのもとをたどってみた。
嗅ぎ間違いなどではなく、やはり黄緑色の芝生には真新しい血痕が染みついていたけれど、どう考えても人間が流す分には少ないし、近くにばらまかれていた黒い羽を見れば、おそらくカラスか何かだろう。
よかったとは言えない。他の何かが、結局は死んでしまっているのだ。けれども私の胸の奥では、やっぱりよかったと何かが叫んでいた。しかし、沈痛の面持ちでカラスの羽へとつま先を這わせた。
「良和くんは、大丈夫? 警察から色々聞かれたんじゃないの」
さっきみたいに、としおりは言外に込める。
部長も気になっていたのか、特に言葉を進めず、湯飲みへと入っていたお茶を一口飲んだ。アチッ、と舌を出す様がなんだかマヌケだ。
「いや、別に。しおりの方が聞かれたんじゃない。怪我はもう大丈夫?」
「うん。ありがとう、大丈夫」
「にしても、矢上がなぁ」
火傷したらしい舌を、ちろりと口の端っこから出しながら、少し呂律の回らない口調で部長が呟いた。どうしたんですか、とめぐみは台所から氷を一つもってきて、彼の湯飲みの中へと沈める。氷はすぐさま溶け始めた。
「いや、あいつはいつかこんな、いいや、ここまででかいこととは思わなかったが、何か不気味さはあったな。俺が何か注意すれば、随分な目で睨んできた。ときどきなんだか腐ってるような臭いがしてたしさ。きっと吉川もそれでつっかかったんだろうなぁ。アイツ潔癖性だったから」
風邪なんかで休んでなかったら、次は俺だったかもな、と明るい口調で話す部長に、めぐみもしおりも、まさかと苦笑いを返していたけれども、私はそれが冗談ではないと思う。
私は存在を主張するかの如く、ドアから半分だけ体を覗かせたまま、んなごう、と叫んだ。
「お、お前、ここん家の猫だったのか」
私は彼を嫌いではないため、ゆっくりと近づいてやった。すると彼は口元をにやりとさせたまま、私の首根っこをいつかのように掴む。
「やめてくださいよ」
「そうです可哀想です」
めぐみとしおりが一斉に口を開く。それでも部長は私の首もとを掴んだまま、さながらブランコのように左右にぶらりんと揺らしたが、それでも私は動かず、抵抗せずにいた。
「知ってるか、目久美」
「なんですか」
「こいつ、矢上のことがある、ちょっと前くらいな。よく大学に忍び込んでたんだぜ」
「あ、それ私も見ました」
はぁ、と言うめぐみの気のない返事に、なんだ知ってたのか、と残念そうな口調で、私を床へとほっぽり出した。くるりん、と一回転して着地しようと思ったのだけれど、上手くタイミングが掴めず、背中から落下してしまった。背骨に衝撃がじんじんと響く。馬鹿だなぁ、と部長が笑った。さすがに少し苛立った。
「あ、良和くんお腹すいてない? 私が作ろうか!」
「……いや、別に」
「なんだしおり、お前まだ諦めてないのか」
「諦めるってなんですか、部長が私の何を知ってるんですか」
「悲しいやつだな。見りゃ分かるって言葉知らねぇの。お前に任すなんて不安だな、よし俺が男の手料理を見せてやる」
「ちょっとやめてくださいよ良和くんの台所が汚れるじゃないですか」
「汚れるってなんだ汚れるって人をばい菌か何かのように」
「ビフィズス菌の方が役に立ちそうですよ」
「お前なー!」
「ちょ、ちょっと二人とも」
めぐみは大きくため息をついた。その肩がカタカタと震えていることに気づき、私ははっとした。それはただのめぐみの癖だったのだ。ため息をつくと、肩が震えてしまうのが。
私はまた、ため息をつくめぐみの膝へと座り込んだ。床に打ち付けた背中を、彼は優しくなで、またため息。
「猫」
がたん、がちゃん、ちょっとやめてくださいよ! うるせえな! と台所から聞こえる騒動に、めぐみはもう諦めてしまったらしく、二人には聞こえないような小声で、私へと語りかける。
「分からないなんて、嘘だよ。本当は、ものすごく、震えたね。ゾクゾクした。これで僕は犯罪者を捕まえたってさ。でも、その後ものすごく後悔した。だってそれって、僕が僕の周りで誰かが罪を犯さないか期待してたってことじゃないか。今はものすごく気持ち悪い」
優しく撫でる手は、続ける。
「多分そんな考え方自体も、僕で言う、罪な気がする。法律を盾にとる僕の考えはとても最悪だったけれど、矢上さんも最低だ。僕は何が間違っていて、何が正しいのか分からなくなってきたよ」
ドラマのようにしっかりと犯人が捕まって、すっきりとしたオチがついてくればいいのに、と顔をうつむけるめぐみの気持ちはなんとなく分かる気がする。
けれども私はあの飼い主のように、悪戯に必要のない命を奪う行為を認めたくはないし、それは間違っていると思う。もちろん、私自身小さな存在が生きていく間に消費かれる命はたくさんあるだろう。めぐみは、私のその何倍も消費する。
そのことを人間は忘れてしまっている。しかし奪われる私達は理解している。
めぐみは、またため息をついた。その震える肩を見つめ私は思う。
人間は思考をやめたらお終いだと誰かが言った。それは違う、私も考える。人間も、動物も、考える。
考えようじゃないか。私達がいくら考えても分からないことは、私達の何倍も生きる人間達が引き継いで欲しい。
あの美しい太陽の光をうけ、やせ細った体へと手を差し伸べた青年のことを私は今も考える。私はこれからもめぐみのそばにいるだろう。
茶色いつるつるとしたフローリングに私が爪を立てるふりをしてみせても、おっとりと微笑んだまま、手に持つ小さな本のページをぺらりとめくる。
私が尻尾でパタパタと同居人をはたいてみても、「こらこら」と笑いを含んだ声で、ゆっくり私の喉もとを優しげで繊細な指先で撫でるのだ。
「こら猫、やめなさい」
彼は私の飼い主ではない。同居人は私を猫と呼んだ。
温かな光が、いつも私を包んでいる。
猫と殺人者 雨傘ヒョウゴ @amagasa-hyogo
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