後編


 一昨日と昨日は祝日だったので、私はめぐみの大学へと行くことができなかった。

 二度目に足を踏み入れようとしたものの、目的地とするにはあまり気持ちのよい場所ではない。ぷんと漂っていた臭いは、この間よりも格段に薄くなっていたが、なんとかたどり着くことができた。

 深い草木と湿った土。この間との変化と言えば、太陽の位置が、ほんの少し違うくらいだ。しかしながら、その場所に、それはなかった。

 そんな馬鹿な。

 微かに腐臭はする。葉っぱへと飛び散っていた、赤く丸い跡も、しっかりとある。

 しかし、肝心の死体が何処にもなかった。もしかしたら私が知らぬ間に運び出してしまったのかもしれない。

 あんな大きな荷物を、どうやって? と考えればキリがない。

 月の光も出ないような夜に、こっそりと、こっそりと場所を移動させたのかもしれないし、もしくはあらかじめ掘っていた穴へと突き落としただけなのかも。女一人で、人間を移動させるには辛かろう。どちらかと言うと、後者の可能性の方が高い気がする。

 私は自慢の鼻で、すんすんと辺りの臭いをかぎ、うろついた。

 何処かに柔らかい地面がないかと四本の足で、くまなく探し回った。

 しかしながら、どこにもそんなあとはなく、これはと思われる地面を、ザカザカと堀り回してみても、小さな穴ができるだけだ。

 人間のスコップがなければ、これはまったくもって意味がなく、茶色くなった手足を見て考えても埒が明かない。やっぱり私は、行き当たりばったりなのだった。

 私が簡単に罪を告発するには、やはり死体の場に別の人間を連れて行くという方法一択であったのだが、それを潰されてしまった。

 人に見つかることも憚らず、ふらふらと歩いているうちにたどり着いたのは、この間のコートだった。

 球を打ち合っている人間達はこの間とは違う。男が二人に女が四人。大勢がラケットを振り回している。

 その中の一人が、フェンスにある小さな扉を通って、首もとに掛けたタオルで汗を拭いていた。あれは知っている女だ。――しおりだ。

 しおりは周りの人間と同じ長袖長ズボンのジャージを来て、タオルをベンチに置いた鞄の中へと入れた。

 そしてその下に転がる黄色い球を、手でぱんぱんと軽くはたく。それから地面にとんととして、球を遊んだ。私の尻尾が震えた。くいくいと勝手に尻が動いてしまう。球を地面に向けて投げて、受け取る度に私の中の野生が囁いた。とうとう、にゃおうとしおりの前に飛び出してしまった。これはしまった。

 しおりは、はたと驚いたように私を見た。

「猫ちゃん?」

 それは見ず知らずの猫を見たときと同じ声色ではなかった。私を、私と認識している声だ。なんとも目ざとい女である。久しぶり、と言いたげな声に正直嫌気がさしたが、そんなことは言ってられない。

「猫ちゃん、どうしたの、なんでここにいるの?」

 しおりは手に持ったボールを、地面へと置き、ひょいと私の脇を掴んで高い高いと持ち上げた。

 やめてくれ、それをしていいのはめぐみだけであって、お前じゃない。

 ごんにゃあごと激しく身じろぎをすると、クスクスとしおりは声を漏らした。

「いいなぁ、猫ちゃんは」

 何がだというのか。

 そのとき彼女を見つけた。黒い背中まである髪、あまり高くもない身長。

 ふらりと現れた女性を見て、私は今度こそと本気でしおりの手の中で暴れた。

「わあっ!」

 たまらず私から手を放したしおりを見届けて、さっ、と逃げ込んだ。

 そこはこの間めぐみとしおりを盗み見る場所に丁度いいとした場所で、しおりのと彼女の目から隠れるように、体を隠した。

 見つからない死体に、私は予想以上に焦ってしまっているらしい。

 ため息でも吐きたくなってしまった気分のとき、彼が、見えたのだ。

「良和くん」

 しおりは、おそらくそう呟いたのであろう。口の動きではっきりと分かる。

 ぱっ、と花が咲いたように微笑んで、しおりは彼へと歩み寄った。

 その隣では、彼女が、黒い髪をくくりながら、ちらりと彼を見る。気のせいか、ちらちらと見る回数が多い気がするが。

 私はそれを見て、この間、男達二人が話していた会話を思い出した。たしかにこれは、「見りゃわかる」そして、「二人の女にひっぱりだこ」

 とてもとても、わかりやすい。

 くるくると回るしおりの口に、彼は困ったような曖昧な笑みを浮かべて、相変わらずちらちらと視線を送る彼女にも人の良さを隠せない笑みで、にこりと微笑んだ。

 笑いかけられた彼女と言えば、数秒の後、固まったあと、男とは違い、随分下手くそな笑みを口元に作った。しおりもその様子に気づいたらしく、曖昧な空気が流れている。しかしそれも長くは続かなかったらしい。

「コラー!」

 聞き覚えのある怒声とともに、男は顔をひょっこりと出した。

 この間と違って右手にはラケットを持っていることから、練習中だったらしい。当たり前か。

 部長は顔を真っ赤にさせながら、小柄な体にも負けずと声を張り上げた。

「そこの三人、しゃべってないでちゃんと練習しろっ」

 相変わらず、とてもよく響く声である。

 彼としおりは殊勝に頷き、謝罪とともに互いに声を掛け合い、反対の方向へと歩き始めたが、唯一彼女だけは瞳を細めて、自分よりも小さな男を見つめていた。

 なぜだろうか、私はとても嫌な気分になってしまい、めぐみ、と心の中へ呼びかけた。

 もちろん、気づくはずもない。振り返るはずもない。

 ひっそりと隠れてしまっていたものだから、かちんこちんに固まってしまった体を何とかほぐそうと、小さくのびをして、物置の影から抜け出そうとしたとき、通り過ぎた女二人の会話が、耳を過ぎった。

「吉川さん、この頃来ないよね」

「いつから?」

「あの子と、とっくみあいのケンカをしてから」

「来にくくなったんじゃないの」

「そうかなぁ」

 あの子、と声を出したときに、二人は確実に、彼女を見ていた。

 そのとき初めて私は、あの木に括り付けられていた人間が、女性で、吉川という名前であることを知った。


 私はそれからたびたびコートの周りを見回ることにした。

 誰がどこにいるか分からない建物の近くをうろつくよりも、遥かに合理的だったからだ。

 フェンス近くに猛スピードで動くボールは、ときおり恐怖を感じるものの、それ以外は勝手に尻尾が動いてしまうときがある。あのボールを、手でこねくりまわしたい。かみかみと噛みつきたい。できることなら、ごろんごろんとひっついて転がり回りたい。

 たまらん、とじゅるりと唾を飲み込んだが、今は我慢のときである。でもときどき、こっそり球で遊んでしまったのは内緒だ。

 ちょろちょろとうろついてみても、案外誰にもばれない。人が歩く目の前を横切らない限り問題ないようだと、私はだんだん大胆になってきた。球で遊ぶ回数も増えた。

 私は同じようなジャージを来た女や男の間を、するすると通り抜けた。

 彼女は何処にいるだろうか。私は彼女の行動を、逐一観察しなければならない。

「きゃあ、やだ!」

 ふと、私の瞳がめぐみらしき人物を捕らえた瞬間、女の悲鳴が、辺りに響いた。

 私はてっきり自分がばれてしまったのかと思い、ベンチの下へと即座に逃げ込んだ。一体誰が悲鳴を上げたのだろうか。両目をフルに使い、叫び声の主を探す。

 それは私が潜むベンチの左側にいた。彼らはいつも同じようなジャージを来てたくさんいるものだから、中々見分けが付かないのだけれど、これは見たことがない女だ。口元に手を当て、眉間に皺を寄せて地面を凝視していた。

「やだっ、ここ、犬が死んでたところじゃない」

 まるで汚いものを触るかのように、彼女が今まで立っていた場所から、ほんの少しずつ、つま先を立てるようにして後ずさった。

 見れば、たしかに芝生にこびりついた赤いものが見える。

 それは木に括り付けられていた吉川さんのものより古びているように見えて、赤というよりも、茶色い土のようなものと言った方が正しいのかもしれない。

 いつの間にかできた人だかりの中で、集まっている人物全員が随分と苦い顔をしていた。

 人だかりの中でめぐみを見つけることはできなかったが、彼らの顔を一様に見て、その犬の死骸は悲惨なものだったということは理解できた。

 全員が陰鬱な顔をしているかと思えば、そんなこともないようだ。

「なんのこと?」

 何を言っているんだこいつは、と周りが顔をしかめたが、「そういやお前、来てねえな。最近授業も出てねえだろう」とサボりすぎだと怒られている。

「バイトが忙しかったんだ。へへ、ノートは見せてくれるって信じてるぞ」

「ばか。そんなことよか、最近大変だったんだからな」

 大変、とサボり魔なのだろう。男はパチパチと瞬きをしながら言葉を繰り返した。「そう」と最初に悲鳴を上げた女がすっかり距離を遠くさせて、自身の体を抱きしめながら苛立ったように声を出した。

「そこに、首なしの……」

 それ以上は言えないのだろう。ぶるりと震えたところで、別の男が続ける。

「犬が死んでたんだ。首がなかった」

 ひえ、と事実を知らなかった男が悲鳴を上げた。

「き、聞かなきゃよかった……!」

「こっちは大騒ぎだったんだぞ! グループLINEに送ったろ、ちゃんと見てくれよ!」

 怒った声を聞きながら、私は頭の中で想像してみた。

 首がない、大きな犬の死体。

 大きな犬と言えば、ときおり街のお散歩でみかける犬程度の大きさだろうか。たしか、ゴールデンレトリバーとテレビで言われていた。あんな大きな犬が、コロリと寝転がっていたのだ。

 きっと、黄色く、フサフサとした犬だったに違いない。

 美しく太陽の光へと輝いていた毛並みは、薄汚れて、土なのか、それともその体から流した液体なのか分からないものをぶちまけて、コロリと。ないはずがない、大切なものを無くして。

 想像してみると、とても身震いがした。

 私にとっては人間よりも、とてもリアルに想像しやすかった。ぞっとした。

「一ヶ月くらい前だったかな。お前どれだけ来てなかったんだよ……」

「へへへ。……まて、そういや前にも何かあったな。犬じゃなくて」

「猫だ」

 一瞬私が呼ばれたのかと思って、ひょいと頭を上げてしまった。けれども、それは私のことではなく、一般的な猫という固有名詞についてのようだった。彼らは互いの記憶を探るように、苦い顔をしながら会話を続けた。

「そう、猫。丁度俺がここに来なくなったくらいだから、これも一ヶ月前」

「違うわよ、正式には一ヶ月と二週間くらい前!」

 叫んだのは最初に悲鳴を上げて、遠くから会話に参加している女である。

「よくそんな細かく覚えてるなあ」

 女は真っ青な顔をしていた。

「覚えているわよ、最初に見つけたのは、私だもの!」

 彼女は随分な猫好きなのだろう。悲しげに瞳を潤ませていた。私の背を触らせてやるのも、やぶさかではないような気がした。大変気の毒であった。


 私はぽてり、ぽてりと両の足を動かしてコートの近くの道ばたを歩いていた。

 めぐみが通うサークルは、毎日活動するものではないらしい。ここ数日で、それは学んだ。せっかくサークルの様子を見に行っても、誰もおらず、たまに球遊びをしている者達に部長と呼ばれる男が腕を振り回して怒鳴り込む。これの繰り返しである。そんな光景を見ても面白くもなんともない。

 めぐみが家にいる日は、休みで、祝日ということは覚えることができても、曜日というものはどうしても覚えることができなかった。なんて言ったって、興味がないのだ。興味がなければ覚えることができない。私にとって、めぐみがいる日と、いない日、その二つしかないのだから。

 だからサークルの活動日を把握することができない私は、めぐみ達がいないとなると校舎の中を存分に歩き回ることにした。この広い校舎の地理を頭にたたき込んでおくことは、無駄ではないだろう。

 それと、これはあまり考えたくはないが、他の犠牲者が眠っている可能性もある。人間では感知できないような微かな匂いを、私はたどることができる。もはや私は人間に見つからないように校舎を探索するプロと言っても過言ではない。しかし安堵すべきことにも、今のところ新たな犠牲者を見つけることはなかった。

 それにしても、どこを見ても、綺麗に片づけられてゴミの一つもないのはなぜなのだろう。おかげで妙な臭いが混じることもなく、人間のように鼻をつまめたら! と思いながら道を歩く必要もない。

 ゴミを捨てる人間がいないのか、それともゴミを片づける人間の数が多いのか。それを仕事にするものがいるのか。まあ、死体を捨てる人間ならいるが。

 そんな我ながら嫌みったらしい台詞を考えていた最中のことだ。自転車がところかしこに止められている場所のわずかな空間を、私はするすると通り抜けた。

 まだ帰る時間にしては早いからなのだろう。人っ子一人見当たらない。

 と、思ったのは、私の勘違いだったようだ。

 甲高いベルの音が聞こえた。私は悠々と歩いていた場所から、反射的に飛び退いた。

「うわっ、猫!」

 聞き覚えがあるどころか、ここ数日何度もその怒鳴り声を聞いている。

 その所為か大きな声を突然叫ばれても特に動じることはなく、すっくと四本の足でその小柄な男を見つめた。これでいつでも逃げることができる。この間の、放り投げられた雪辱を果たすときだ。

 しかし気づけば、予想以上のスピードで突き出された部長の人差し指と親指は、私の首根っこを掴んでいた。彼は自転車にまたがりつつ両足で固定させ、首もとの皮がだらしなく伸び、しずしずと垂れ下がった私を、眉をひそめて見た。

「お前まだいたのか」

 すっかり動物の勘、野生の根性がズタズタにされてしまった私と違い、とてもどうでも良さそうに、彼は呟く。

 ふんっ、と私は鼻で息を吐いて、放り出したければ、すぐさま放り出すがいい! と睨んだ。伝わる訳ないが。

 しかしながら、彼は特に何をする訳でもなく、じっと私を見つめるだけだ。いい加減降ろしてほしい。足下に何かがないと、不安で仕方ないのだ。

「お前、家がないのか」

 それは、私が野良猫だと、彼は言いたかったのだろう。それは私にとってとても失礼な一言で、あまりにも不愉快な一言だ。

 しゃっ! と長い爪を引っ張り出して、彼の顔面へとパンチを繰り出してやろうかと思ったのだが、やめた。

 それは痛いことが嫌いであるという心情や、めぐみが悲しむ顔が思い浮かぶからという理由ではなく、ただ彼が、どこか寂しそうな表情をしているからだ。ああこいつ、可哀想になぁ、と言いたげな顔つきはやはり失礼極まりないと感じたが、私自身に同情をしていることは理解できた。

 あいにくそんな人間に爪を向ける趣味は私にはない。

 唐突に放された彼の指先に、体を一回転させながらその場から飛び退く。そのまま私は一目散に逃げ出した。

 ほんの少しと振り返った彼は、警備員に、私の首根っこをつかんで引き渡すこともなく、ハンドルへと小さな体の体重をのせて、ちりんっ、と鈴のような、ベルの音を鳴らしていただけだった。

 なんとなく思った。私は彼が嫌いではない。

 それから何度目かの夜、いつもよりも遅く帰宅しためぐみは、私に教えてくれた。

「部長が部活に来ないんだ、なんでだろうね」

 と、首に巻いたマフラーをはずしながら、淡々と呟いた。そのとき、なぜだろうか。部長は彼女に殺されたのだろうと理解した。

 ――めぐみの表情は見えない。


 全てが後手に回っていたのだ。ただ、いつか出てくるはずだと死体を見つけることに躍起になっていた。

 それは、間違っていた。死体を出すのではない。血の臭いを見つける前に、私はその匂いのもとを作るであろう原因を断たねばならなかったのだ。

 微かではあるが、コートの芝生からは、鉄の臭いが漂っていた。臭いのもとは、彼なのだろうか。それとも、他の誰かなのだろうか。

 私は敢えて確認しようとはしなかった。したくもなかった。吉川と呼ばれた女性の死体と、同じように横たわる彼を想像したくなかった。

 今でもベルをならしたような、軽い金属音が頭の中で延々と流れる。ちりりん。ちりりん。ちりりん。

『罪を犯した人間は、裁かれなくてはいけないよ』

 はじめは、カエルだった。

 次は、子猫。その次はカラス。大きな猫、大きな犬、女性の吉川さん、小柄な男性。それはほんの少しずつ大きくなる。ほんの少しずつ、殺しにくくなっている。

 大きな猫は、一ヶ月と二週間前だった。大きな犬は一ヶ月前。吉川さんは、分からないけれど、きっと2週間くらい前、部長は、こないだ。

 私はめぐみの部屋へと掛けられた、その季節ごとのイラストが描かれたカレンダーを見た。今は大きな雪だるまの隣には、小さな雪だるまがもたれかかっている。

 一つ一つ文字を追っていくと、それは二週間ごとに起こっていた。二週間ごとに、死体をばらまいていたのだ。

 彼女も、丁度今の私と同じように、カレンダーを覗いていたのだろうか。

 私は曜日には興味がない。めぐみがいる日か、いない日か。その二つしか私の中にはない。それと同じように、あら、今日で二週間たったのね、と赤いバツ印を、マジックで書き込み、部長も殺してしまったのだろうか。

 私の記憶の中では、彼は未だに自転車へとまたがっていた。少しずつ、その姿は遠くなっているけれど、それでも同じようなポーズのまま、またがっていた。今もまだ、あの駐輪所で、一人佇んでいるのかもしれない。

 不思議な気持ちだと感じる前に、胸の中へと、無理矢理何かを押しつけたような圧迫感があった。

 罪とは、一体なんなのだろうか。はじめは人間が作る法律を、順守することのないその行為を、罪なのだと思った。けれども、私はどうなのだろう。

 ただ手を拱いている状況で人が一人死んでしまった。彼女が殺した。彼女が殺してしまった。

 それならば、私自身も罪なのではないか。分かっていたのだ。分かっていた。しかし見殺しにした。彼は、死んでしまう必要はなかった。

 ならば私自身も裁かれなければいけないに違いない。けれども、一体何から裁かれるのだろう。人間にだろうか。それとも、何か別のものなのだろうか。

 めぐみは、一体何を考えてその言葉を口にするのだろうか。彼女は一体、何を考えて何へと包丁を突き立てたか。

 ふと私は、彼女に殺されそうになった過去を思い出した。

 いくら考えても、二週間の時は過ぎる。誰かがまた犠牲になるのだ。そして一人消えてしまう。私に何ができるのだろう。


 私は木目のついたベンチへと飛び乗った。

 その場所には相変わらず、口の広いバッグが置かれている。私は周りの視線に注意しながら、バックの口を爪でひっかき、ベンチへと横たわせた。

 その中に黄色く丸いボールが入ったいくつかの透明な円柱状のものがあった。

 バッグの中へ体を忍び込ませて、そのボールを力一杯押し出した。

 勢いよく押したその入れ物は、上手い具合にベンチの下へと落っこちたらしい。入れ物は周りから見えないだろうかと確認した後に、ふわふわした真っ白なタオルの間へと体を滑り込ませた。痛いくらいに頬を叩いていた冷たい風はピタリと止まり、その代わりに息苦しさが喉の奥辺りをぐるぐると渦巻く。

 ――私に、何ができるのだろう。

 しかしながら、時間は流れる。誰も待ってはくれない。止まってもくれない。分かっている。進む。

 私は息を忍ばせた。次の被害者は、分かっていた。


 どさりと私は鞄ごと地面に落とされた。強かに打ち付けた体が骨を通じてズキズキしたが、叫び声を上げる訳にはいかない。上手い具合に横へと倒された鞄から、そろそろと顔と鼻をひくつかせて覗かせた。

 周囲は緑に染まっている。日は落ちていない。見上げてみると、木々の枝が空へと伸びる葉っぱの間から、ほんの少しの光が洩れた。

「しおり、ごめんね」

 彼女の声が聞こえる。しおりはどこだろうか。まさか、もう物言わぬ塊へとかわりはててしまっているのだろうか。

 しかし私の心配とよそに、口に白い布を巻かれたしおりは、吉川さんと同じように、木の幹にぐるぐると縛り付けられていた。彼女を縛る分厚いロープは、一人では到底ほどけそうにない。両手に一つ、両足に一つ、体全体を、ぐるりとまた一つ。随分念入りな縛り具合だ。

 しおりの口元を縛られた布の間から微かに洩れる息づかいと、うつむいた前髪から覗く瞳は、しっかりと瞬きを繰り返している。軽い打ち身以外、特に問題はないらしい。

 何とか彼女が逃げ出すことができないだろうかと算段を思索してみたが、どうにも難しそうだ。

「なんでこんなって思ってる?」

 彼女は黒いつややかな髪の毛をさらりと風に任せて、わずかに首を傾げた。その可愛らしい動作が、どうにもちぐはぐに見えてしまうのは、きっと右手に握った包丁が原因だろう。

 今はまだその先は地面へと向いていることが、唯一の救いだった。

 むぐむぐと言葉にならないうめき声が、しおりの口から漏れる。ウェーブの髪はすっかりばさついてしまっていて、ほんの少し、もったいないと感じた。

「私ね、好きなんだ、死んじゃうの見るの。でもね、理由もなしに殺しちゃうのって可哀想でしょう。だからね、理由がある人を殺していこうって決めたの。最初は吉川さん。だってあのひと嫌いだから。しおりはね、彼のこと、とっちゃおうとしたでしょ。ひどいじゃない。ほら、生きていること自体が罪なんだよ」

 何がおかしいのだろうか。彼女はクスクスと腹の底から声を出して笑う。

 大声でワハハと笑うのではない、小さな声で、それでも精一杯のように、クスクスクス。ほんの少し体をのけぞらせて口には左手に、女性らしく手を添えて、けれども右手はギラリと光っていて。弓なりとなる体に、肩から斜めに掛けられた小さなバッグが音を立てて揺れた。

 その後景は正直、とても不気味だった。

 なぜそんな風に、自身の気に入らないことを解消させようとするのか、嫌いな人間を葬り去ろうとしてしまうのか。

「ああ、とってもドキドキする。だってここ、どこだと思う、しおりがよく知ってる場所なんだよ。もしかしたら今すぐ人が来ちゃうかも」

 ぶるり、と微かに体を揺らし、ぽうっ、と恍惚した表情で宙を見つめていた。どうして、人目につく場所に死体をばらまいていたのか。その疑問の一端が、垣間見えたような気がした。

 それはとてもはた迷惑な行為だった。

「もちろんね、小さな動物が死んじゃうのもすきだよ。だからね、今猫を飼っているんだ。小さな猫。育つのがとっても楽しみ」

 その言葉が意味するものは、すぐに理解できた。身震いがする。ガチガチと歯と歯が上手くかみ合わない。震えるような手足に、だめだと唇を噛みしめた。

 そして私は駆け出した。

 はじめは彼女に悟られないように。その後は、力一杯。ひゅるひゅると冷たい風が私の体を叩きつけるし、走りにくいことこの上ない緑の絨毯にどうしようもない怒りを感じる。

 ここはどこだろうか。深い森のような場所を延々と走るようなこの状況は、とても辛かった。場所が分からない。人間は、太陽の方向から方角を割り出す方法があるらしい。しかし私にはその方法が分からない。どこなのだろうか、ここは、どこなのだろうか。


 めぐみ


 私は、たまらず呟いていた。

 めぐみ。めぐみ。めぐみ。苦しい、私は今とても苦しい。助けなければいけない。私はしおりを助けなければいけない。たしかにしおりのことを、私はあまり好いてはいない。けれどもそんなこと、もはや関係ないのだ。

 ここでしおりのことを見捨ててしまえば、それこそ私は罪を背負うことになる。それは、罪だ。たとえ人間の法で私を罰せずとも、それはたしかに罪だと私は感じた。生きていることが罪。そんな訳がない。そんなこと、あってたまるか。分からない。けれども理不尽なまでに腹が立った。

 めぐみ。めぐみ。めぐみ。呼びかける。呼びかけた。答えはない。あるはずもない。何度私は繰り返したのだろう。

(ここは、どこだ)

 あんなにも私は、この大学の中を歩き回ったじゃないか。こんなことになるだなんて想像だにしていなかったけれど、その経験はたしかに私の中へと生きているはずだ。生きている。死んでなんかいない。生きている。殺されてなんかない。私は死んでなんていない。

 止まった足下からは、微かな振動がした。

 それは微弱すぎてバクバクと鳴り響く私の心臓の鼓動の方が大きくて、すぐに消えてしまいそうなくらいだったけれど、口と鼻からはき出した息を、もう一度小刻みにはき出して、落ち着けと語りかける。へっへとぴんくの舌が口から出てしまっていた。

 どくんっ。

 一歩、踏み出した。微弱な振動は、さらに微弱に反応を増す。もう一歩、踏み出した。微かに変化した。二歩、三歩、十歩、二十歩。走り出す。

 音が聞こえるのだ。軽くぶつかるような音が、何度も聞こえる。めぐみ。呼びかける。私はもう、彼にしか頼れない。めぐみ。呼びかけた。めぐみ。彼は、一体、どこにいるのだ。

 見覚えのある場所から、レンガへと飛び移り私は駆ける。

 聞こえる音。パカン、パカン。遠くへと色づく黄緑色の芝生に、大きなフェンス。たくさんの人がいる。

 私は芝生の上を滑り降りながら、一人の青年の前へと飛び出した。

 長い前髪を真ん中分けにした間から覗く黒い瞳。指定された周りと同じジャージを几帳面なくらいきっちりと着ていて、彼は私の前へと立っている。

「………猫?」

 どうして、こんなところに? と首を傾げる彼は、年齢以上に幼く見えた。なぜだか私は、とてもほっとした気分になってしまったけれど、今はそれどころではない。

 彼へと視線を向け、すぐさまそれをそらす。さっき駆け下りた道を、今度は力一杯駆け上る。

「ちょっと、何処いくの!」

 彼の声が聞こえる。私は人間にも着いて来ることができるように考慮したスピードで、しかし力一杯にレンガを爪でこするように走った。大丈夫だ、彼の足が速いことは知っている。


 戻る道は、しっかりと頭の中へと入っていた。途中入ることも躊躇われるような草木の中へ着いてきてくれるのか不安だったけれど、彼はきちんと着いて来てくれた。

 ときどき私の後ろで「こんな場所があったのか」と感嘆の息を漏らしているのも聞こえる。

 これで、いいのだろうかと自分に問いかけた。それはとても今更な疑問で、間違っているよ、とか、これでいいんだと呟いてくれる便利な存在などありはしない。はっきりと分かれば、きっとすっきりするだろうに、そんな訳にはいかなかった。

 私は、ピタリとその場で足を止めた。

「どうしたの」

 と、彼はパチリと瞬きをして私をしげしげと見つめる。まだ血の臭いはしない、大丈夫だ。

 彼が呟いた声を聞いたのか、ツタで覆われた先から、がさりと布ずれの音がする。彼もその音を聞こえたのだろう。不審そうに顔をしかめた後に、私の体を通り越し、垂れ下がったツタを、左右に開いた。

 その瞬間だった。

 彼の顔面をめがけて鈍い光を上げる包丁と、彼と同じくらいの体型の黒く長い髪の女性が、飛び出した。

 喉で唾を飲み込むような仕草とともに、彼は右足を軸にするように、くるりと半回転をした。受け流される形で黒髪の女性は地面へと包丁を向ける。肩に斜めにかけた鞄が暴れて、大きな音を立てた。ガリガリガリ、と聞こえる音は、驚きのあまりだろうか、しおりが思わず幹へと肘をひっかけた音だ。

 それはとても奇妙な状況だった。体勢を立て直し、彼に刃を向ける彼女は、彼を見て、大きく目を開ける。彼もただでさえ大きな瞳を見開き、括り付けられたままのしおりは白いハンカチを噛みきるようにしながらも、とてもとても、くぐもった、聞き取りにくい声を上げた。

「良和くん」

 めぐみは、この状況へと純粋に驚いていた。無理もない。

 私はしおりの体をくまなく確認し、殴られたのか頬が赤く膨らんでいる以外、何も変わらないことに安堵した。彼女は、何かへと刃を振るう前に、必ず長々とした前口上を述べるのだ。私はその姿を毎度見るたびに馬鹿らしいと感じていたのだが、それが功を奏したらしい。

 黒髪を振り乱したまま、ぱっくりと口を開いて、彼女は喉の奥でひゅーひゅーと息をしていた。

「良和くん? なんで? なんでいるの? なにをしているの?」

 それはこっちの台詞だ、と彼は考えたに違いない。

 向けられた包丁の切っ先をちらりと彼は見て、すぐさま彼女へと視線を戻した。くるくると忙しく視線を動かす彼女に、彼は薄く目を細め、眉間に寄せられた皺が、少しずつ深くなっていく。

 びくりと、彼女の肩が震えた。違う、腕全体がガタガタと震えている。手に持つ包丁の先だけを固定し、震えている。

「違うのよ」

 誰も、何も言っていない。それなのに、彼女は言い訳を述べた。包丁に気づいたらしく、今更ながらに自分の背中へと手を回した。

「きみは」

 落ち着いた、男性にしては高い、テノール声が響く。彼女は反射的に、「ちがうのよ!」とまた叫んでいた。なにが、違うのだろうか。

「きみは、なにをしているんだ」

 問いかけた。

「何もしてないよ」

「しおりは」

「知らないぃ!」

 語尾が膨れあがる。背中へと回していた刃物を、まるで野球のフルスイングをしたときのような音を立てながら、ぶんと突き立てた。彼はそれを左手ではじき飛ばし、手首を掴んだ。もごもごと洩れるような息が、聞こえる。しおりだ。

 そのまま彼は一度内側へと回した後に、力一杯反対へと回す。聞こえもしなかったが、ゴキリと関節が音を立てたような気がした。

 重い音を立て、地面へと突き立てられた包丁を、彼女の右腕を掴んだまま、彼は引っこ抜き、見当違いの方向へと力一杯ぶんなげる。私は野球に興味はないが、そのフォームがとても綺麗だったことは理解した。

 彼女の右腕を、彼は背中へと回した。人体ではあり得ないような角度へとまげられて、「ぐっ」と肺の奥から直接だしたのではないかと疑うような声を彼女は上げ、彼は彼女を締め上げた。

 左手の五本の指で、彼女は彼をかきむしる。赤い線が何本もできて、彼女のバッグが音を立てて揺らしていた。あっけないと思ってはいけなかった。ガタガタと体を振動させ、彼の束縛から逃げようと動く彼女は、バッグへと手を伸ばす。

 そのとき、私はなぜだか、彼女があの鞄の中へと血がついた包丁を、透明なゴミ袋への中へと入れ、しまい込んでいた光景を思い出した。

 やはり彼女は、その小さな鞄の中から、一体どうやってしまい込んだのかと呆れてしまいそうなサイズのダガーナイフを取りだした。

 利き手ではない左手で掴み、上へと、上へと――振り上げられることはなかった。

「つあっ!」

 私は力一杯彼女の足首をひっかいた。ジャージに隠れた裾からほんの少し見える肌色の部分が、真っ赤な血を飛び散らせて彼女は大きく体を揺らす。

 彼はダガーナイフを弾き落とし、両腕を片手で拘束する。ひくっ、と喉を引きつらせた音をさせる彼女のバックに手をつっこみ、中から小さな機械を取りだした。

 私は、アレを知っている。

 彼は片手でスマホを立ち上げ何回か画面をタップさせた。暴れる彼女を無視し、肩と耳にスマホを挟んだまま、コール音を待つ。その先は、予想するまでもなかった。コール音がいくつか聞こえた後、彼が口を開いた。

 今度こそあっけなく、私の飼い主である殺人者の幕は閉じた。

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