猫と殺人者
雨傘ヒョウゴ
前編
※この話には動物、また人に対する残酷な描写が含まれます。
※2008年頃に執筆した小説を一部リメイクしたものです。現在とは作風が大きく異なります。
私の同居人は物静かな人間だった。
茶色いつるつるとしたフローリングに私が爪を立てるふりをしてみせても、おっとりと微笑んだまま、手に持つ小さな本のページをぺらりとめくる。
私が尻尾でパタパタと同居人をはたいてみても、「こらこら」と笑いを含んだ声で、ゆっくり私の喉もとを優しげで繊細な指先で撫でるのだ。
「こら猫、やめなさい」
同居人は私を猫と呼んだ。
私はいつもこの同居人と居住を共にしていた。でもときどき散歩のために外に出ることもある。わずかに開けられた窓の隙間をくぐって、一歩街の外へと足を向けると、人々は私を猫と呼ぶ。ねこ、ねこ、ねこ。なるほど、それが私の固有名詞なのかもしれない。ときどき、その猫の上に、くろと付けて呼ぶ者もいたが。
同居人は名前をめぐみと言った。
幼く衰弱しきった私を、今と変わらないほっそりとした手のひらで、「こんにちは、めぐみって言うんだ、よろしくね」と鈴のなるような美しい声で私に告げた。そしてその日から、私とめぐみの生活が始まった。
めぐみは大学という場所へ行っているらしい。
朝、早くに出かけて私の小腹がすいた時間帯に帰って来る。歩いて行ける距離という理由と動物も飼っていいといった条件で、ここのマンションを借りたのだと、いつの日だかめぐみは語っていた。
家には四角くて、硬い箱がある。
中古で買ったから、とてもオンボロだ。これがテレビ、という名前だということは知っていた。初めて見たとき、これは一体なんなのだろう、と真っ黒でつやてかした表面にちょんと手のひらをのせてみたことがある。それは私の痩せこけた姿を映していたくせに、日によって、様々な景色を見せた。
移り変わる人やものに驚いてすってんころりと転がって、勝手に尻尾が膨らんだ。
なんだこれはと叫んだときに、からからとめぐみは笑っていた。
「猫、落ち着きなさい。これはテレビと言うんだよ」
くるくる画面をかえながら私に説明した。それは番組と言うらしい。
私はめぐみとともに、ときおりそのテレビを見た。それは面白いことを言う。知らないことを教えてくれる。めぐみがいないときでさえも、指や尻尾を使ってリモコンを操作した。幼い頃は今よりもずっと語彙が少なかったが、テレビのおかけで、随分賢くなったものだ。
そしてたまたま映った犯罪のニュースを見るたびに、めぐみは綺麗な眉をとても嫌そうにひそめた。心底嫌そうな声を出した。
「罪を犯した人間は、裁かれなくてはいけないよ」といつも呟く。
めぐみはとても真っ直ぐな人間なのだ。私はそのめぐみが真っ直ぐなところが好きだし、これからもそう居続けて欲しいと願う。
私は過去よりも随分賢くなったが、それでもただの猫であり、わからないものも、恐怖するものも多かった。様々なものに驚く私に対して、めぐみはひとつひとつ、丁寧に言葉を教えてくれた。
そうじき。せんたくき。せんぷうき。くーらー。
めぐみといることで、私は少しずつ賢くなる。電子機器は恐ろしい。けれども、とても便利なものだ。掃除機を見ると、ゴミと一緒に私を吸い取るのではないかと錯覚するし、めぐみに抱きかかえられながらぐるぐる回る洗濯機を見たときは目が回った。同じく、自身がぐるぐると回っている様を想像し、叫んで、怒った。
しかし、めぐみは根気よく、怒る私に説いてくれた。
「これは部屋を掃除してくれるものなんだよ」と掃除機を見て教えてくれる。「これは服を綺麗に洗ってくれる機械なんだ」猫をぐるぐるさせるためのものではない、とゆっくりと話す声色は優しく、ひどく落ち着いた。私はめぐみと話す時間が好きだった。
それは私が多くの恐怖と戦っていた時間を忘れさせてくれる。うっとりとしたまどろみの時間を、めぐみは私へと、綺麗なリボンを巻くようにプレゼントしてくれるのだ。
だからこそ、私はめぐみがいない時間がとても辛い。
窓の外から、はたはたと真っ白なレースのカーテンが揺れていた。日当たりがとてもいいこの部屋は、涼し気な風がとても貴重だ。きらきらと太陽の光が輝いていた。なのに、私は一匹(私は猫であるので、一人、ではなく、こう言うらしい)ぽつねんと佇んでいた。なぜならめぐみが、大学へと行ってしまっているためだ。
もちろん自由気ままに生きているため、うっとり昼寝をしてしまうこともある。しかしそんなときでも心の底ではめぐみのことを考えるし、飯を口にしようとすっくと立つとき、お小水をしようと歩いたとき、床と爪がこすれチャカチャカとなる音でさえも、ただただ心を虚しくさせる。
そんなときでもいつどこで食いっぱぐれるかわかりはしないため飯は食べる。なのでそばから見ると、本当だろうか、と思われているかもしれないが、私は寂しくて仕方がない。どうしようもなく胸の奥がきゅっ、と締め付けられそうになる。
めぐみが帰って来るまでの時間を、私はいつもどう過ごそうかと考える。ただいまと声が聞こえたとき、姿としては犬のように尻尾を振って迎えることはできまいが、なおうと一声上げて、体半分をドアの隙間から覗かせ、見つめてやる。そして、いつもどおり、めぐみと一緒にテレビを見るのだ。私はその時間がとてもとても大切だ。
よって、今のこの状況は、とてもよろしくない。
めぐみの部屋は大きな一部屋と、廊下とトイレと風呂のみが存在する。部屋は私にとっては広いが、めぐみにとってはそうではないのだろう。小さな家具がみっちりと部屋を圧迫する。そのため食事をするテーブルはひどく小さい。折りたたみ式で、足が随分心もとなく細いテーブルの前に、見知らぬ女が座っていた。
向かい側にはめぐみが座り込んでいる。私はその予想外の訪問者に、ほんの少しの怒りを感じながらも、めぐみの膝元をぶんどって体を小さく丸めながら訪問者を窺った。
こうして見るとあまり背が高くないめぐみよりも、女はほんの少し背が高い。
茶色いウェーブがかかった髪の毛は肩口よりも少し長い程度で、パッチリとしたまつげをめぐみに窺うように伏せて、先ほどめぐみが出した温かな湯気を出すカップを両手で握りしめていた。
「私ね」
女は不意に口を開いた。
めぐみも、小さな声で「しおり」と呟く。
どうやらこの女の名前はしおりと言うらしい。
女が握りしめたカップが小刻みに震えていた。何をそんなに恐れることがあると言うのか。今にも中身から零れ落ちてしまいそうだ。もしその滴がテーブルに飛んでしまえば、後片付けをするのはめぐみである。もう少し落ち着いて持って欲しい。
しおりはもう一度、めぐみへと目配せをし、ふう、と長い息を吐いた。まるで肺の中に満ちている全ての空気をはき出してしまわんばかりの姿に思えた。
「……私ね、良和(よしかず)くんのことが好きなの」
私が枕がわりとしていためぐみの足が、ピクリと震えた。
思わずの振動にめぐみの顔を見上げてみると、美しい眉毛をひそめて、赤い唇を噛みしめている。手のひらは変わらず、優しく私の背中をゆっくりとなで上げていたが、どうにも調子が狂っていた。私は困惑した。
しおりはめぐみを見ると、バツの悪そうな顔をした後で、ごめんねと、か細い声を呟いた。
波打っていたカップは、テーブルの上に置かれている。
「ごめんね、そうよね、ごめんね」
しおりは足下へと置かれていた口の広い肌色のバッグをすばやく持ち上げて、濃い灰色のジャケットを羽織った。
あまりの俊敏な動作に私は思わず目を見開いてしまい呆然と見つめるだけであったが、めぐみは違ったらしい。
しおり、と思わず息をはき出しただけかと思われるような声を出して、私を懐へと抱えたまま立ち上がった。めぐみの手のひらから溢れた私の尻尾が、ぴろりと宙を舞っていた。
なごう、と不満の声を上げたのは仕方のないことだと思っていただきたい。
「……ごめんなさい!」
しおりはそれだけ呟き、急いで廊下に飛び出して靴を履くと、分厚い鉄の扉を力一杯開けて、とても乱雑に閉めた。カツカツととても忙しない足音が閉められたドア越しに聞こえる。
私はめぐみの手のひらから、ひらりと飛び降り、フローリングへと足を着けた。
めぐみは、ほんの少し散らばった自身の靴をゆっくりと、ひとつひとつ元通りにした。けれどもその肩が、力なく震えていることに私は怒りが隠しきれなかった。私が心配をしていることなど、同居人であるめぐみに知られることは恥辱であったため、その姿は変わらずドアから半分しか覗かせることはなかったが。
丁度腹が減る時間帯だったが、そんなことはどうでもいい。先ほどの女は誰なのだと、部屋に戻っためぐみに叫んだ。あまりの興奮に喉も渇いて、水が欲しいと心の底で何かが訴えたが、それもどうでもいい。
問題はただ一つ。震えるめぐみの肩、それだけだった。
私はあのしおりという女のことを、調査することに決めた。
めぐみを悲しませる要因とは一体何なのか。私とめぐみの健やかな生活のためには、この情報は必要不可欠だ。
私はほんの少しの記憶を頼りに、本棚の、一番下の段へと置かれたアルバムを、爪を伸ばしつつ、ちゃっちゃっ、と短い指でひっぱった。
随分前のことなのだけれど、これをめぐみに見せてもらったことがある。
何度目かの挑戦を遂げ、やっと成功したときには、私はふうふうと肩で息をしていた。赤茶色の、幾何学的な模様で編み込んだ絨毯の上に、アルバムをどしんと置いて、さてどうするかとその周りをくるくると回る。本棚の中へ再び戻すことができないけれど、仕方ない。
分厚いページを、爪のさきっちょで、傷つけないようにさっ、と開いた。出てきたのは丁度のページだ。頭の中の記憶と比べるようにして、その写真を見つめた。
写真の中には薄く微笑んだめぐみの隣に、あの女――しおりが、やっぱり明るくにっこりと笑っていた。
たしか、この写真を見せてもらったとき「サークルの友人だよ」とめぐみに説明されなかっただろうか。そう、された。サークルというのは、めぐみが通う大学の部活のことだ。
私は写真の中で微笑むめぐみの部分を、ぺたぺたと肉球で触った。こやつだ。しゃあ! と思いっきりひっかいてやろうと思ったが、これはめぐみのものである。幾度もむぎゅむぎゅと両手で触ってやることで、なんとか我慢をすることにした。
開いたときの何倍も苦労して、やっとこさアルバムのページを閉じた。
それからしばらくするとめぐみは家に帰って来たが、絨毯の上に落ちていたアルバムには、少し首を傾げる程度で、我慢をして破くこともなかったので、罪は追求されずに済んだ。
いくらめぐみがおっとりしてようとも、普段私が悪さをしないという前提の上である。実のところ少し不安があったため、トイレから尻尾だけをひらひらと覗かせて、様子を窺っていたのだ。
そして普段どおりにめぐみの膝の上に乗りつつも、考えた。つまり私はめぐみが通う大学という場所へと足を伸ばせばいいのだろうか。
そうすればしおりとめぐみ、二人の関係を確認出来るに違いない。この家の中で、苛立ちと不安に駆られながら、いつあの女が再びやって来るのかと、しおりを延々と待つという愚行に走らずに済む。
しかし問題が一つある。大学の場所自体を私は知らない。今まで、めぐみはめぐみの、私は私と、生きる場所を別に分けて考えていた。わざわざ同居人の生活を、必要以上に関係を持つことはないだろうと考えていたのだ。この考えが裏目に出てしまった。
ううん、とひとしきり頭をひねった後に、「おっ」と私は声を出した。実際は「んにゃっ」という声だったろうが、それはいい。すばらしい考えが私の頭の中を過ぎ去った。
「行ってくるね、猫」
いつもと変わらないように、めぐみは私へ薄く微笑み背中を軽く撫でる。私は仕方がない、というふりをして、そっとめぐみが撫でやすい体勢を作ってやる。毎朝のことである。
温かいコートをまとい、ドアの外に消えようとするめぐみの後ろを、私はこっそりと付けて回ることにした。
なんとも簡単な話だ。私はめぐみの後ろを、えっちらおっちらとついて行けば、目的地に到着してしまう寸法になる。なんて言ったって、めぐみの大学は徒歩で行けるほどに近いのだから。
私はとても慎重にめぐみのあとを追った。
道行く人が同じような年頃で、同じような方向へと歩いているということは、めぐみと同じ、大学生というやつなのだろうか。
めぐみは細い道を、ずんずんと足早に歩いていく。こんなに細くてはすぐに気づかれてしまう、と考えた私はひらりと塀の上に飛び乗った。
そこは丁度いいことに、茶色いレンガの塀で、コンクリートの味気ないブロック塀なんかじゃない。やっぱりレンガとブロックじゃ、歩きやすさと気分がまったくもって違う。ブロックは、足の裏がざらざらとしてしまうのだ。私はようようと首を上げて、過去よりも随分ふさふさになった美しい黒毛を自慢しながら歩いた、ところで、いけないと首を振った。目的を忘れてはいけない。
レンガでできた大きな門をめぐみがくぐるのを見届けて、私は別の人間に見つからないように、体を小さくさせながら同じく門をくぐり抜けた。大学に入るのは初めてだが、人が集まるところに猫がいていいものではない、ということくらいはわかっている。なぜなら過去、今よりも幼く、互いの生活圏というものを理解してはいなかった頃、消えてしまっためぐみを追って、不安のままにコンビニに入ってしまったことがあるのだが、やっぱりそのときもぽいと放り出された。
めぐみが気づかなかったことのみが、不幸中の幸いだ。恥辱の記憶である。
そんな訳で必要以上に慎重に、人混みに紛れるように歩いていた所為か、気づけば随分めぐみの背中が小さくなってしまっていた。いけないと後ろ足のバネを大きく動かし、めぐみのあとを追った。すると小さくなっためぐみの背中は、一つの建物の中へと入っていった。
茶色いレンガ造りの建物で、小さな窓がたくさんある。街中に立っている、高層ビルを、何分の一かにカットしたような大きさだが、めぐみと住むアパートよりもずっと大きい。
これが大学というものか。と、考え、さすがに中に入ることは難しいだろうとぐるぐるとその場を回って考えた。
めぐみが入った入り口に、めぐみ以外にもめぐみと同じような性別と年頃のもの達がぽつぽつと入り込んでいく。これも学生なのだろう。しかし、次第にその数も少なくなっていってしまった。様子を探ってみたが、めぐみが出てくることもなく、仕方がないと周囲を回った。すると、先ほど大きいと思ったはずの建物と同じような建物が、敷地の中にはいくつもあることを知った。なんということか。
めぐみはこの大学で、理系というものに属しているらしく、情報をと言うものを操っているそうだが、深くは知らない。
見回して知ったことだが、ここは緑が多く、一つの林のようになっているところも少なくない。ざわざわと、木々が風でこすれる音がした。
不思議な音が響き渡った。きんこん、かんこん。何かの合図なのだろう。慌てて走っていく人間が見える。
しょうがない。ここはおとなしく、めぐみを待つことにしよう。
誰かに見つかってはたまらないため、私は丁度いい植木の中へと体を突っ込んだ。こんもりと膨れあがった、手入れのしていない緑が、なんともおあつらえ向きだ。
その中からこっそりと片目を覗かしてじっと見つめた。こっそりするのは得意であり、お手の物だ。もしかしたら中にしおりがいるかもしれない。今頃、めぐみと再度出会ってしまっている可能性もある。
ここまで来て、私は気がついた。しおりを見つけて、私は一体どうすればいいんだろう。
近づくなと叫ぶのか、その顔を思いっきりひっかいてやればいいのか。しかし私は無闇矢鱈に爪を出していいものではないと知っている。痛いということは、恐ろしいことだ。
私は考えていても仕方ない。と一つの結論を得た。しおりを見つけてから、めぐみを悲しませる要因を探す。これでいい。
はじめこそはじっと瞳を細くさせて、眼前を睨んでいた。ひゅるひゅると冷たい風が吹いている。ひげが震えた。くしゃん、と音を出したとき、これはいけないと上手に落ち葉を集めて中に入る。すっぽりと口元を飛び出させた。これはいい。素敵な寝床ができてしまった。
私はひどくうっとりとして、次第に瞳を緩ませた。これはいけない。もちろんわかっている。しかし抗うことができないものは存在する。これはいけない。幾度か呪文のように唱えたのちに、私の体はまるまるとしてうずくまってしまっていた。とてもよろしい寝床である。
私がはっ、と目を瞬いたのは、けたたましい音が耳に響いたときだった。きんこんかんこん。再度の合図の音だった。ぞろぞろとたくさんの人間が、めぐみが消えた建物の中から出てくる。こんなに入り込んでいたのかと一瞬妙な方向へ驚いてしまったけれど、そんな問題ではない。
もしかして、私が簡単に意識を飛ばしてしまっていたときに、めぐみは私の前を通り過ぎてしまったのだろうか。
後悔したところですでに遅い。眠たいものは眠い。仕方のないことである。諦めたところで、くるくると腹が鳴る音がした。めぐみを追いかけようと必死になって、私とあろうものが、朝の飯をおざなりにしてしまった。なんということだろう。
悔しさに歯噛みしつつ、植木からぴょこんと顔を出して通り過ぎる人間達を見つめた。
なぜだか鞄以外に、何かを持っている人間を目にすることが多い。椅子に座って、ランチを始めている姿を目にして、なるほどと理解した。人間は昼時の時間なのだろう。美味しそうにパンをかじっている姿に、くるくると鳴る自身の腹と合わさり、殺意を抱いた。私は空腹が一番嫌いなのだ。
帰ろう。私は欲望に忠実にそう決断した。ふむと立ち上がったところで、たくさんの人混みの中に紛れながら、右手に袋を掛けためぐみが、私の目の端っこにちらりと映った。
ここで帰ってしまっては、今までの行動が無駄になってしまうというものである。私は空腹も嫌いだが、無駄なこともとても嫌いだ。ふん、と鼻の穴を広くして息を吹き出し、ぴょんと植え込みの中を飛び出した。
こっそりと隠れてめぐみの後ろを追跡することは、道中とは異なりとても楽だった。障害物が多く、道は太いし、隠れる場所はどこにでもある。めぐみはその姿には似つかわしくないほど足が速いため、見失わないように注意が必要である。
めぐみは、一人でご飯を食べるのだろうか。
そうだったなら、ほんの少し寂しい。いつも一人で、黙々と固形の餌を食べる自分を思い出した。もちろん私は猫であるので、孤高の存在として自身を認識していることもあるが、人間は別だろう。私はめぐみを、あの狭い部屋の中でしか知らないため、きちんと学友がいるのかどうなのかということは知らない。うぬう、と唸りつつ、尻尾を揺らした。
もちろん私の心配など知らず、しっかりとした足取りですたすたと歩いていためぐみが、突然ぴたりと止まった。
何があった! と飛び出しそうになった体を戒めて、じっとめぐみを見つめる。
めぐみは、ズボンの後ろポケットに手を入れて、小さな機械を取り出した。知っている、スマホである。音が鳴るときと、鳴らずに震えるときがあるそれは、今回は震えるだけだったのだろう。
めぐみはスマホを立ち上げ、画面を食い入るように見つめた。その間に、私はそそくさと場所を移動させ、めぐみの表情を観察した。ぴくりと、眉を動かしたのが見えた。
そのままスマホを握りしめ、くるくると辺りを見回す。何があったんだろう。
「やほっ」
しおりだった。
彼女はこの間、泣きそうな、崩れ落ちそうな笑顔をしていたのを忘れたかのように、すっきりとした、写真に写っていたものと同じような笑みを浮かべてめぐみに向かい、片手を振っていた。
反対の手には、めぐみと同じようにスマホが握られている。ただ色も違って、きらきらとしていて目に痛いので、私はあまり好きではない。きらめきに恐れを抱いて、ふぬ、と呻きつつ、鼻に皺が寄ってしまう。いやそんな場合ではない。目当ての女がそちらからやって来たのだ。
しかしまさか飛び出すわけにはいかず、女を睨みつつ気持ちを苛立たせた。
「お昼、これから?」
しおりは可愛らしく首を傾げた。めぐみと一緒に食べたいといった意思表示なのだろう。この間、めぐみを悲しませた自身の行いを忘れてしまったのか、まったくもって腹立たしい。
えっ、とめぐみが小さく声を上げた隙に、しおりはめぐみの右腕を掴んだ。めぐみの腕にかけていたコンビニの袋が、がさりと揺れる。
「コート、行こっ」
しおりが無理矢理にひっぱるたびに、めぐみは眉毛を八の字にした。しかし観念したように、ゆっくりとめぐみは頷いた。まったく、あの女は何なんだ。
くるくるとなる私のお腹も、そろそろ最高潮だ。羨ましい、恨めしい、と言葉を残して、私はめぐみとしおりの跡をつけることにした。
緑色に着色されたコートと呼ばれる場所には、白いラインがひかれていて男二人が、黄色い球を打ち合っている。ぱかぱか不思議な音が聞こえる度に、わずかにわずかに自身の尻尾が揺れて飛び出してしまいたくてたまらない気分になったが、鼻の穴を大きくさせる程度でなんとか抑えた。
そしてコートを囲むようにして、大きなフェンスが立ち塞がっている。おそらくあの黄色い球が、私のような見物客に当たらないようにと言う設計なのだろう。
フェンスを越えて、ほんの少し小高くなっている場所は、青々とした芝生が生えており、めぐみやしおり以外にも、弁当を広げている人は多かった。
その他にも、寝っ転がってしまっている人までいる。冬とは言え、ぽかぽかとした日差しが、なるほどたしかに気持ちいい。とてもいいお昼寝スポットとも言える。
しおりは芝生にお尻を付けた後に、お弁当箱を黄色いスカートの膝元へと置いた。
めぐみもそれを倣うように座り込んで、ズボンの上にご飯を置いた。残念ながら、しおりと違い、コンビニのパンなのだろうが。しかし量は、しおりの倍ほどはある。まったく、少食な女だ。
その様子を、私はどうにか近くで眺められないかとうろちょろした結果、フェンス近くの物置を壁にして、窺うように顔を出した。耳がひくひく動いている。
ときどき勢い余ったボールが大きな音とともに大きくフェンスを揺らすのだが、そこは我慢だ。
音がある度にはねてしまいそうになる私の体を、ぐ、と地面にこすりつけた。ついでに耳もぺたんとさせた。
「あ、しおりだ」
めぐみとしおりの会話を聞こうとしたはずだったのに、延々とボールを打っていた人物の声を聞き取ってしまったらしい。
さっきまで振り回していたラケットを、ピタリと止めて、男は向こう側へと視線を投げかける。
お目当ての人間の名前に思わず耳をピクピク動かせて、会話を拾おうとしてしまった。しおりだ、と呟いた男とともに球を叩きあっていたもう一人の男が、「ああ、本当だ」と声を上げた。会話が続く。
「しおりってさあ、明らかに良和のこと狙ってるよな」
「ええ、なんで」
「見りゃわかるよ」
うわぁ、そりゃショックだ、とおどけたように一人がラケットで口元を抑えた。
もう一人の男は「良和も可哀想になあ」と、同情感に溢れるような台詞と声色とともに、声をひそめた。口元にラケットを置いたままの男が、どうしてと言いたげに首を横に傾げた。
思わず、私も一緒の動きをしてしまった。
「だって、二人の女にひっぱりだこ」
「羨ましいじゃない」
「どこか。全然。だって、もう一人は――」
男の一人が、めぐみへと視線を投げかけたときだ。
「コラー! 勝手にコート使うなお前らー!」
まるで火山が爆発したのかと思わせるぐらいの大きな声の男は、平均よりも小さいであろうその体から、一体どんな風に声を発しているのかと疑いたくなった。
もしかしたらめぐみよりも小さいかもしれない。
小柄な男は、ラケットを握った男二人に向かって、どすどすと足音を響かせ腕を振り回しながら近づく。
「いけねっ部長だ」
男二人のどちらとも言えない言葉を聞いて、なるほど、彼はここでの権力者らしいと理解した。
私が呆気にとられている間に、二人の男は一目散に逃げ出して、ひゅるりと姿を消してしまった。私はあまりの大声に、四つの足が固まってしまってまったく動かない。
部長は随分目ざといようで私とぱちりと瞳がかち合った。
「猫もだめだ」
部長は、ひょいっと私の首根っこをひっつかんだ。
すっかり振り子のようになってしまい、屈辱である体勢のまま、丁度辺りを巡回していたらしい警備員にぽいと渡して、ほっぽりだしといて下さい。となんとも慈悲のない一言を告げた。
なんだと、と暴れようとしたときにはもう遅い。
警備員にしっかりと両脇を掴まれた私は、門の外へと文字通り、ほっぽりだされてしまった。
警備員の目を盗み、急いでコートに戻ったときには、めぐみどころかしおりの姿までいなかった。先ほどまであんなに賑わっていたコート周りも、ぽつんぽつんと寝そべっている人間が見えているだけだ。
あまりの悔しさに地団駄を踏みたくなってしまったが、そんな場合ではない。
しょうがないと私はとぼとぼとした足取りで、今朝めぐみが消えた建物へと向かうことにした。こんなに広い学校の中を、むやみに探し回るよりも、賢いような気がしたからだ。 大体の方角は覚えているから迷う心配もない。私はときおり暇つぶしに外に出て、お散歩をしているお散歩マスターである。この程度、造作もないことだ。
ときどき首筋に流れる冷たい風に、私はフサフサした毛皮へと顔をすくめてしまいそうになりながら、先ほどの男達の会話を思い出した。おぼろげながら理解していたことが、はっきりとした。なるほど、めぐみが肩を落とすはずだ。しおりが諦めればいいだけじゃないか。
後は最終的な確認としてもう一度めぐみを確認し、しおりを見つけ次第、顔を思いっきりひっかいてやればいい。
一生めぐみに顔合わせができないようにしてやれば済む話だ。
しかしながらそんな方法を、めぐみは嫌がるに違いない。ひっかいてやれ、と考えるものの、痛いことは嫌いで、それを行うものは、悪そのものである。
めぐみは真っ直ぐな人間だ。『罪を犯した人間は、裁かれなくてはいけない』のだ。それはめぐみの口癖である。
私は人ではないが、それはめぐみにとって同じことであるだろう。裁かれる、とはもうめぐみにと出会うことができなくなるということで、それは想像するだけでも恐ろしくて、ぶるぶると身震いをして尻尾どころか、体中の毛が膨れあがってしまいそうになった。
ではどうすればいいのだろうかと私は考えたが、中々いい考えは思いつかなかった。
基本的に私は行き当たりばったり、というヤツらしい。まぁいい。次にしおりと会うときまでに考えておけばいい話だ。
めぐみを悲しませる要因は、一体なんなのだと頭を抱えていた今朝と違い、腹は減っているものの、私の足取りは軽やかだった。
要因は分かった。あとはそれをどう実行するかだ。山の半分を登って、頂上まであと半分というところだろう。
考え事をしながら歩いていた所為で、随分違う方向へと歩いてしまっていたらしい。お散歩マスターもたまには間違いをする。私は基本的に自身の間違いを認めないので、これは誤ったのではなく、ただの気分転換とした。
見覚えのない景色が辺りに続き、空を見上げてみれば日も幾分か落ちていた。これはよくない、気分転換はさっさと終わることにしよう、と反転したとき、私の人間よりもよくきく鼻が、ふと妙な臭いをかぎとった。
鉄と、何かが腐ったような臭い、まるで密封したタッパーから、ほんの少し溢れたように、微かに漂う。
生ゴミの匂いとまでは言わないが、あまり長くは嗅いでいたくない臭いには違いない。
それは緑に生い茂った木々の、もっと奥の方へと続いているらしい。私は鼻を再度ひくつかせた。本来なら逃げ帰ってしまいたい気分であったが、足を進めたのはほんの気まぐれである。私は気まぐれでできているのだ。
私の体が半分ほど埋まってしまうような草だらけの道の中を飛び込み、進んでいく。すると先ほどまでのアスファルトと違い、ほんの少し湿った土が続いていた。むんとした臭いがやはり一層濃くなった。
肉球の先に細かい土が入り込んであまり素敵な気分にはならなかった。めぐみにばれてしまう前に、じゃりじゃりとしっかりと洗わなければいけない。部屋の中を汚くしてしまう。
ふと、過去を思い出した。この臭いを私は昔かいだことがある。赤い輝きは昔の記憶を思い起こさせ、私の兄弟達は、誰もかれもがこの臭いを発し、何も言わぬ固まりへと変わってしまった。
随分と奥へと進んだ道の奥に、太い木の幹に何かが括り付けられていた。
それは人間の形をしていて、可哀想に、腹に得物を刺されたままだ。
その得物はこんな場所にあるよりも、台所で見かける方が遥かに違和感のないもので、刺された場所からは、赤い液体が流れたあとがこびりついている。
いやそれはすでに赤とは言えず、濃い紫と言うべきなのだろう。
私がかいだ鉄の臭いは、これなのだろうかと考えてみたけれど、それは随分と日にちが経っていて、すっかり乾いてしまっている。触ってしまえば、カサカサと風化されてしまいそうだ。
おそらく、これではなく近くの葉っぱへと飛び散った、赤く丸い跡からだろう。
乾燥していたものが僅かな少しの湿りで戻ってしまったようだ。
もとは人間らしきそれは、ぱっくりと口を開いていて、濁りきった瞳を溢れんばかりに見開いて、私を見つめていた。当たり前だが、これはもう生きてはいない。腐ったような臭いは、改めて言う必要もない。
どうすればいいのだろうかと一瞬考えたとき、がさりと近くで物音が響いた。
「忘れてた」
あんまりにも脳天気な台詞が響いて、さっ、と私もその身を草木の中へと隠す。
見覚えのある真っ黒な、背中まである髪に、あまり高くもない背、しおりと比べてもやはり小さな彼女は、ゆらゆらとした危なっかしい足取りで、人間らしきものの前へと、すっと立ち向かった。
私は始め、彼女が大声を出して逃げまどうのかと思ったのだけれど、どうやらそれは違ったらしい。
彼女は薄いビニール手袋を付けた両手で、死体の腹に突き刺さっていた包丁を、力一杯引っこ抜く。
抜かれた後から血があまり飛び出ないのは、とっくの昔に心臓の活動が停止しているからに違いない。
「よかった」
そう彼女は呟くと、斜めにかけていた小さなバッグから透明なゴミ袋を取り出し、中へと入れた。
それはこの地区で使われている袋で、大きな袋の中にぽつんと入った包丁はひどく不思議な光景だった。ぐるぐると巻いて、再びバッグの中へとしまう。
「うん、忘れてた」
もう一度彼女は呟いて、足下辺りを見つめていた顔を、ゆっくりと長い前髪ごと上を見据えた。
その瞬間、私ははっきりと見た。見覚えのある体。見覚えのある声。見覚えのある顔。
「早く帰ろう、猫が待ってる」
どこか明るい声で踵を返す彼女。
それは、私の飼い主だった。
耳の奥で声が聞こえる。
『罪を犯した人間は、裁かれなくてはいけないよ』
ぴくり。ぴくり。私は微かに、尻尾を動かした。
「どうしたの、猫、元気ないね」
いつも通り、めぐみは私の首筋辺りを、人差し指でこりこりとひっかく。
それはとても気持ちがよかったけれど、私は今、それどころではない。なぜなら私は彼女の殺人現場を目撃してしまったからだ。いつもなら揺らすはずの尻尾すら揺らすことができない。
あの後何もひたすら考えずに力一杯に走り、我が家に戻ってきたところ、めぐみはまだ帰っていなかった。
日も沈んでしまうような時間帯だったのに、こっそり開けていた私専用の通り口である窓の隙間から忍び込み、汚れた手足はそこらで放置しているタオルで丹念に拭かせてもらった。
私はその間、自分が目撃してしまった事実を悶々と考え続けたけれど、どうすればいいのか、しっかりとした考えを出すことができなかった。
空腹を主張する腹を無視する訳にもいかず、固形物の飯を腹の中にねじ込んでみても、どうしても食べた気にならない。
――私は、どうすればいいのだろうか。
アレは、犯罪なのだろうか。もちろんそうだろう。人間の法律と結びつけると、同じ種族の命を絶つことはしてはいけないことに違いない。
めぐみに首もとを優しくマッサージされながら、私は考えた。彼女は、確実に罪を犯した。
『罪を犯した人間は、裁かれなくてはいけない』
これはめぐみの口癖だったはずで、それは今も変わらない。
彼女がなぜ人を殺してしまったのか。
そんなこと私には理解ができないし、したくもないが、私がすべきことはしっかりと頭の中で理解出来ている。
私は、彼女の罪を告発しなければならない。
そこまで考えて、一緒に寝ようかと小さく呟き、私を抱き上げためぐみを見て、一瞬どうでもよくなった。
だって、あの死んだ人間と私は知り合いでもなんでもない。
死体となったあれには同情する気持ちはわずかばかりは存在するが、それよりも、私は私のことが大切だった。そしてそれ以上にめぐみが一番大切だった。
告発。それはとても危険な行為なのだろうし、それに私は猫だから、とてもとても難しいことだ。警察に行こうとも言葉が通じない。それに私が今更騒がずとも、あの死体はどうせいつかは見つかるだろう。
誰も人が来ない密林なんかじゃないのだ。大学だ。人がたくさんいる。
今の季節を考えると、腐臭も、人間の鼻では嗅ぎ分けるには難しかろうが、人一人が消えてしまっているのだ。捜索の手はすぐに伸びる。
ねこ、と呼ばれ、暖かなふとんに私と一緒にくるまって、うっとりとした気分で、私は思わずゴロゴロと喉を鳴らした。
めぐみも嬉しそうに私を見つめる。そして眠る前に、とテレビをつけた。
頭の中で、あの文章がまた流れる。罪を犯した人間は。私は真っ直ぐなめぐみが好きだ。
(そして私も、真っ直ぐにならなければいけない)
めぐみと一緒に。
テレビはときどき音が飛んでしまったようにぶつっ、と妙な音をするけれども、その役割はしっかりと果たしていた。
めぐみが好きな刑事番組が流れている。彼はいつも終わりの時間になると、お決まりの台詞を言う。
『犯人は、あなたです!』
そして犯人を力一杯人差し指でさして、反対の手は、ほんの少し着崩したスーツのポケットへとつっこむ。だらしないといえる格好なのだろうが、私はそれを案外気に入っている。――自分は、彼のようになれるだろうか。
「犯人は、彼女です!」と叫ぶことができるだろうか。
私は、私の体へと腕を回しためぐみに、ぴたりと寄り添った。
麻でできたパジャマは、いつもの服よりも柔らかくて気持ちがいい。
ねこ、おやすみ。と優しいめぐみの声が聞こえた。私は返事の代わりにぺろりとめぐみの手のひらを舐める。
私は、彼女を告発することを決意した。
確認しなければいけない。
あの死体を、もう一度確認しなくてはいけない。
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