第29話 トラブルはつきもの
「本番、30秒前です」
演出担当がそう言った。
会場からは観客の話し声がざわざわと響く。それが心地よくて、小雪はリラックスできた。
小雪は美和と手をつなぐ。小雪から手をつなぐことは少ないから、美和は驚いた顔をした。
「どうしたの?」
美和はそう尋ねた。小雪は微笑んだ。
「ようやく、夢が叶うんだなぁって」
小雪がそう言えば、美和は泣きそうな顔で笑う。「当り前じゃん」という彼女は、この瞬間を誰よりも喜んでいた。
小雪も彼女の夢を、二人が望んだ
ざわめく会場が、ブザーの音で静かになる。
鑑賞時のお願いのアナウンスが流れると、胸が高鳴る。
真っ赤なカーテンがゆっくりと開いて、ようやく観客とご対面だ。
本当に起きている。
今ここで、起きている。
小雪は美和と手をつないだまま、ステージに上がった。
観客の期待をはらんだ眼差しが、小雪の胸を打つ。
ステージという小さな世界を、観客は一つも見逃すまいと、目を開いて待っている。
その光景は、息を呑むほど美しかった。
眺めるだけでは味わえない、舞台に立つ者だけが、見える景色。
小雪は、最初の台詞を口にする。
それが、舞台に命を吹き込んだ。
***
舞台は続く。
練習通りに、筋書き通りに。
小雪は今できる精一杯を、この舞台にぶつけていた。
観客は、舞台の上で変わっていく物語から目が離せない。それがまた、小雪には嬉しくて、より本気になれた。
物語は終盤に突入する。
風車に車翼を取り付けて、回るのを確認して、主人公と村人が仲良くなって幕を閉じる。
そういう筋書きだ。
けれど、風車の車翼を取り付ける際、トラブルが起きた。
――ガシャン!!
大きな音を立てて、車翼が落ちた。
小雪が上を見上げると、車翼を釣り上げていたワイヤーが切れていた。
(こんな時に……!)
舞台の誰もがそう思った。
焦る役者の様子を見て、観客もトラブルを感じ取っている。
不安げな表情が、舞台を覗いていた。
このままでは舞台が終わらない。
予備の大道具は用意していない。
舞台袖の奥で、優紀が大道具係に急いで指示を出す。
舞台の上で、役者は置き去りになる。
観客が、続きがない舞台に不満げになる。
彼らが予備を作るまで、このままでいる?
小雪は美和を見る。青ざめた様子の彼女は、手を小さく震わせていた。
……どうしよう。役者たちに指示を聞けない。
この場面で登場しない優紀が舞台に立つわけにもいかない。
小雪はぎゅっと目をつぶった。
『お前たちがリードしろ』
(そうだよね。先生)
小雪は息を吸った。
目を開けて、「大丈夫!」と、舞台を続けた。
「『もう一回作ろう! 材料はまだあったし、みんなで一緒に作り直せば、きっと上手くできるよ!』」
美和が得意なアドリブで、小雪は舞台をつないだ。
美和はすぐにそれに乗った。
「『そうだよね。ちょっとびっくりしたけど、みんなでもう一回作ればいいじゃん!』」
「『失敗なんて、当たり前だもん。村人さん、もう一回作りましょう!』」
小雪と美和が役者たちにそう言って、彼らは頷く。
場面を切り替えるため、カーテンが下りた。
すぐに壊れた道具が回収され、舞台の端で優紀が「どうするの?」と二人に言った。
「下手に物語をつなげば、グダグダになって終わるわ。いっそ、ダメだったで終わっても良かったのに」
優紀に言われて、そういう結末もあったな、と小雪はハッとする。
けれど、小雪は首を横に振った。
「それじゃ、意味が無いんです。物語が変更されても、舞台の終わり時間が過ぎても、その結末は『正しく』ない。わがままを言ってすみません。でも、必ず舞台を成功させます」
小雪は優紀にそう言った。
優紀は「二言は無いわね」と、小雪に釘を刺す。
「時間が無いわ。どうやって物語を繋げるの?」
小雪が優紀に問われ、一瞬考える。けれど、美和が小雪の腕を組んで、笑った。
「大丈夫です。この話は、小雪が作ったもんですから。あたしは小雪のキャラを、全力で演じます。アドリブは、得意なんで」
美和に『協力する』と言われると、小雪は勇気が湧いてきた。
けれど、一人で役者全員の台詞や動きを指示するのは、無謀すぎる。
ちょうど、松屋が優紀の後ろから走ってきた。
舞台のトラブルを見て、観客席から抜けてきたらしい。
「どうした、大丈夫か?」
心配する松屋を見て、小雪は妙案を思いつく。
「大丈夫じゃないです。道具が直るまで、私たちは時間を稼がなくちゃいけない」
「どうする気だ。お前たちがアドリブでつなげたから、会場にアナウンスができねぇんだぞ」
「えぇ。だから、アドリブで話をつなぎます」
小雪の策に、松屋も優紀も目を丸くする。
そんなことができるのか。シーンの修正とは全く違う。
話を書き換える必要があるそれに、松屋は「無理だ」と言った。
「お前、ひとりで役者全員の台詞を指示するつもりか? 到底できることじゃねぇぞ」
「誰がひとりで、と言いましたか」
小雪がそう言うと、松屋は察したのか、顔から血の気が引く。
「先生、速記が得意だと、最初の授業で言ってましたよね」
松屋が一学期最初の授業で、自己紹介をするとき言っていた。
ほとんどの生徒が冗談だと思ってからかったら、その日から一週間授業は速記で行われた。誰も黒板の字が読めず、ノートが取れなくて泣かされたことを思い出す。
なら、台詞を読めるように、速く書くのだって得意だろう。
小雪は、松屋がいつもしている意地の悪い笑みで、彼に笑いかけた。
「先生に手伝ってもらうんですよ」
***
舞台の上で、役者たちが材料集めをするシーンが繰り広げられている。
小雪はカンペを出して、役者たちに次の台詞を指示していた。
役者たちはさすがプロといったところで、台詞を一瞬で覚えると、それらしい動きをつけて違和感なく演技を続けた。
松屋と小雪が交互に台詞を書いて指示を出す。
松屋は速記が得意なだけあって、小雪よりも早く指示が出せた。
小雪は自分の出番が近づくと、話の大筋を書いた紙を松屋に渡した。
「先生これ通りに進むように、他の人に台詞回してください。私と美和はアドリブでいけます」
「あぁ……って、中村この筋書き!」
本の虫である松屋はすぐに気が付いた。
小雪は笑って「そうですよ」と、舞台に向かって歩く。
「一番最初の、物語です」
寂しくて、冷たくて、辛い孤独を
小雪を慰めるためだけに生まれた物語。
小雪は舞台に戻った。
それは、真の意味で小雪が全てをさらけ出して、役を演じることを示していた。
寂しい、誰か傍にいて。
一人は嫌なの。
私もう、一人ぼっちになりたくない。
「『お手伝いするわ』」
小雪がそう言うと、美和は何かを感じ取った。
悲しそうな表情を一瞬だけ浮かべて、すぐに笑顔に戻る。
「『じゃあ、材料集めを手伝ってちょうだい。あたしも行くの。一人じゃ寂しいわ』」
小雪底を知っているような台詞に、小雪はたじろいだ。でも、今は寂しかった頃とは違う。
仲間がいる。松屋も支えてくれる。
美和も、ずっと隣にいてくれた。
いつまでも、昔にすがっているわけにはいかない。
「『……えぇ。一緒に行きましょう』」
してほしかったことを、したかったことを。
この物語で全部、終わらせよう。
小雪は仲間と作っていた話の雰囲気を壊さないように、物語を続ける。
役者たちは、松屋の完璧な台詞カンペを読んで、合わせてくれる。
壊れた道具の、使わない部品をそのまま舞台道具として活用し、新しいものができるまでの工程を描く。
特に美和のアドリブには助けられた。
小雪がアドリブに困ったとき、松屋が台詞に悩んだ時、美和がさっと間に入って、続きが出やすいように調整してくれた。
それがあったから、小雪は安心して演技を続けられた。
10分ほどで、車翼の修理が終わった。
小雪は舞台袖の優紀の合図を見て、車翼の取り付け場面に持っていく。
カーテンが下がると、大道具係と役者が結託して新たなワイヤーの設置と、車翼の取り付けをする。
松屋が小雪と美和を呼んだ。
二人が彼の元に寄ると、松屋は短く「よくやった」と褒めてくれた。
松屋は笑っていた。ひまわりのような笑顔だった。
小雪は素直に褒めてくれたのが嬉しくて、美和とタッチして立ち位置に戻った。
***
物語はようやく、結末を迎える。
完成した風車を見つめ、主人公二人と村人が仲良く握手をする。
美和が村人たちと宴に向かい、幸せな終わりをほのめかす。
小雪も一緒についていくはずだった。
けれど、小雪は一人、舞台の上に残った。
小雪は、美和たちが向かった袖をじっと見つめる。
劇団員は、小雪に「どうした」「早くこっちにこい」と合図を出す。
松屋と美和は、小雪の最後の演技を見届けた。
小雪はそれに甘えた。
だから、自分を演じられた。
「『私はもう少し、旅をしよう』」
仲間たちと宴には向かわず、小雪は一人で反対方向に向かった。
舞台は
ハッピーエンドとは言い難い。
小雪が描いてきた物語とは、全然違う結末。
それが、物語の本来の終わりだと思ったのだ。
カーテンの向こうから、大きな拍手が聞こえてきた。
優紀が小雪に手招きをする。
「カーテンコールよ。ほら、戻ってきて」
小雪が戻ってくると、優紀は美和と小雪を舞台の真ん中に立たせた。
演者全員が舞台に戻り、カーテンが開くと、観客に向かって深くお辞儀をする。
全員で手を握るとき、美和の手の力が弱くて、弱くて、折れてしまいそうだった。
この上ない喝采が小雪たちに降り注ぐ。
カーテンが閉じるまで、小雪たちは観客に手を振り、笑顔で対応する。
――このまま、カーテンを閉じないで。
――もう少しだけ、夢を見させて。
そう願っている間に、カーテンは下りた。
終わった夢に浸る時間は無い。
小雪たちは楽屋に戻る。美和は楽屋への道中も、手を離さなかった。
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