第28話 最高の舞台を

 待ちに待った、舞台の公開日が来た。


 舞台の当日券の販売もそこそこで、劇場の前には列ができていた。正面を横切って裏口に向かう途中、客入りの様子がよく見えた。


 それを見て、小雪は緊張で体が震えた。こんなにもたくさんの人が、この演目を見てくれるのか、と。


 この舞台は小雪の、高校3年間の演劇部活動の集大成で、最初で主役舞台だ。


 停学中の身で、勝手に舞台を作って主役を演じるだなんて、一体何様だと思うだろう。小雪も、何度か罪悪感を抱いた。でもこの舞台を作った人の中に、その身勝手を咎める人も、笑う人もいなかった。


 美和も、松屋も、優紀すら「別に良くない?」と、あっけらかんとしていた。小雪が考えすぎなのか、三人が楽観的なのか。


 迷いながらも、この日は訪れた。ならば、できることを全うしなくては。



 仲間に作ってもらった衣装ではない、使いまわしの衣装。

 仲間と一緒に組み立てた大道具ではない、劇団員さんのお手製の大道具。



 本来使うはずだった小物とは全く違うが、これはこれで良いものだ。劇団の物というだけで、質や見た目が、けた違いに良い。小雪がそう思っているだけかもしれないが。


 高校の方はどうせ、知佳が作った衣装は日野専用に改造され、裕翔が作った背景は書き直しを命じられて、てんやわんやだろう。


 翔太たちには悪いが、面倒事に巻き込まれなくて良かった。日野と佐伯に振り回されるのは、もうこりごりだ。


 小雪が衣装を合わせながら深呼吸をしていると、美和が緊張した顔で小雪の傍に立つ。

 先に衣装を着ていたらしい。赤いスカートの衣装が、とてもよく似合っていた。

 小雪は無言で手を握ってくる彼女に、「大丈夫?」と声をかけた。


 美和は少し青い顔で首を横に振る。


「何も大丈夫じゃないよ。むしろ、なんでそんな冷静になれんの?」

「いいや、緊張してるよ。初めて主役やるわけだし、舞台に立つ時間も、これまでの演劇よりずっと長い」

「そうだよねぇ、小雪はいつも脇役だったもんね」

「今ちょっと背中の汗すごい」

「制汗剤探してくる?」

「大丈夫」


 小雪の緊張は、きっと美和よりも強い。けれど、小雪はそれ以上に、舞台に立てる喜びが強くて、浮かれてしまうのだ。


 スポットライトを浴びて、物語の登場人物になりきって、自分ではない誰かになる。光を追いかけるようにステージを歩き、同じ役者と手を取って踊る。


 思い描いてきた世界の一部を、小雪が担えるのだから、武者震いくらい、なんてことない。


「ちょっといいかしら」


 優紀が手を叩いて役者たちの注目を集めた。

 小雪と美和も、その方向を向く。


 優紀はいつになく真剣な眼差しをしていた。



「今日の舞台は、いつもより観客が少ないわ。事前告知を控えていたからね」



 ――あれで少ない? それなりに列ができていたぞ。



「観客が少ないからって、忘れないでね。私たちは、観に来てくれたお客さんのために、最高のパフォーマンスをするのよ。それを怠っちゃダメ。それやったら、プロ失格だから」



 優紀の言葉は、まさしく団長の威厳を表していて、小雪と美和も自然と背筋が伸びた。優紀は二人の方を見て優しく微笑む。


「そこの高校生たちは、これが卒業公演の代わりになる。彼女たちの集大成でもあるから、全力で支えてあげて。小雪ちゃん、美和ちゃん、あなたたちはいつも通り演じてちょうだい。この舞台をめいいっぱい楽しんでね」


 その一言がとても嬉しかった。

 小雪はじっくりと温まる胸の熱に浸りたい気分だった。でも開演時間が迫る中でのミーティングに、そんな時間は無い。惜しいものだ。



 誰もが最後の仕上げで、忙しなく楽屋と舞台を駆けまわる。

 小雪は優紀にメイクを仕上げてもらい、最後の追い込みで台本を開く。


 小雪が台本を読み込んでいると、後ろから松屋が声をかけてきた。


「試験じゃねぇんだから、読み込むのはやめとけよ。リラックスする方が先決だろうが」

「先生! どうしてここに居るんですか!」


 小雪が驚いて台本を閉じた。松屋は小雪の大声に驚いて、顔を歪ませて耳を押さえる。

 美和が「暇人かよ」と松屋をからかった。


 松屋はむっとした表情で、小雪から台本を奪い取った。その拗ねた表情は、どうしてか幼く見える。



「副顧問が生徒の卒業公演、見届けたらだめかよ」



 ――素直になれない物言いが、今日は大人しい。


 いつもなら、もっと言葉の限りを尽くしてきそうなものだが、今日は調子が悪いようだ。美和の「心配なんだ」と笑う声に、図星を突かれた。それなのに、ぐっとこらえて反撃しない。


 松屋は小雪の肩を叩いて、隣に座った。

 彼の気だるげな目が、小雪の姿を映す。明るい茶色の瞳に移る自分は、普段とはかけ離れていて、笑ってしまいそうだ。



「……前に、俺を部活に呼んで正解だったかと、尋ねたことがあったろ」



 松屋はいきなりそう話を切り出した。

 小雪はおぼろげな記憶を引っ張って、「そうでしたっけ」と、あいまいに返す。

 松屋は「あった」と、言いにくそうに顔を逸らした。


「俺はあの時、『そういう筋書きだった』と返した。でも、本当は、ちょっと違うっていうか……なんだ、その」


 松屋は、口を結んで開いてを繰り返し、ようやく本音を口にした。



「……正しかったかどうかはさておき、俺を呼んでくれたことは、本当に嬉しかった。物語を作る場に、物語を演じる場に誘ってくれたこと、感謝してる」



 俺もそれがしたかったんだ、と語る松屋の瞳に曇りは無い。心の底からの言葉は、珍しすぎて、小雪は何も言えなくなった。


 優紀は「ずっと素直でいてよ」と不満を垂れるが、今まで散々皮肉と嫌味を聞かされてきた小雪は、松屋の言葉にだんだん顔が熱くなる。


 小雪が照れているのを見た美和が、メイクの途中だというのに「先生、小雪になんてことを!」と騒ぎだす。


 松屋が「お前が連れてきてくれたんだろ。ありがとな」と言えば、「ほだされないから!」と怒りながら着席する。完全に絆されていた。


 その茶番があまりにも面白くて、小雪は肩の力が抜けた。

 美和も、深呼吸して役に集中する。


 優紀がメイクポーチを閉じると、松屋が紳士らしく、楽屋のドアを開ける。




「行って来い」

「「はい!」」




 小雪は美和と目配せをする。美和は幸せそうに笑っていた。小雪もつられて笑顔になる。


 最初で最後の舞台。


 美和との約束。


 自分と仲間が磨いた物語。


 小雪は、両手からはみ出す幸せに、大きく息を吸った。



 劇団の力を借りている以上、最高のパフォーマンスを。


 自分たちの最後のステージである以上、誰よりも楽しんで。



 小雪は舞台に向かって歩いた。

 借りた靴はガラスの靴ではない。着ている服も、ドレスなんて大層なものではない。

 それでも、自分じゃない誰かに変えてくれる魔法だった。


 小雪は舞台までの道を歩く。ランウェイを歩いているような嬉しさが、小雪の足を躍らせた。


 舞台に着くと、観客席から声が聞こえる。

 あぁ、今ここに、自分と美和の夢があるんだ。


 舞台袖から見える光は、どんな光よりも眩しかった。

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