第26話 きちんと紡げば
舞台の上で優紀たちを待っていると、松屋を先頭に劇団員たちが現れた。
優紀は「お待たせ」と微笑むと、「練習するわよ」と言って、団員たちに指示を出す。
「荒田はステージ左から。堂本は右の方に。照明! 色変えて! オレンジの光がいいわ」
テキパキとした指示に、小雪たちはどうしたらいいのか分からなくなる。
困惑して、動けない小雪たちを動かすのは、いつだって松屋だった。
「おい、お前らは主役だろ。ちんたらしてねぇでさっさと動け。動きは部活で覚えてんだろ。わかったなら定位置につけ。いいか、団員はこの舞台初見だ。間違っても頼ろうとするなよ。お前たちがリードしなきゃいけないんだからな」
松屋のぶっきらぼうな言い方は、部員を鼓舞するときに限ってより悪くなる。
優紀が松屋の言動をフォローしようとする。
「違うのよ。あなたたちをグズだと思って言ってるわけじゃない。えっと、今のはね――……」
「大丈夫です」
「あたしら、ちゃんとわかってるんで」
優紀のフォローなんていらない。
彼は素直になるのが苦手なだけだ。
だから、言葉の端に、本音が隠れる。
優紀ほどではないが、彼の言いたい事は汲み取れる。
「『期待してる』ってことですよね」
美和と声が重なった。優紀は一瞬目を見開いて、すぐに笑顔になった。
「そうよ」という彼女の声は優しかった。
小雪と美和はステージの隅にスタンバイする。松屋は観客席の一番前で、舞台を見上げていた。
練習なのに、本番のような緊張感。でも、舞台に立てる嬉しさの方が勝る。
小雪は一歩踏み出す瞬間が、待ち遠しかった。優紀の合図が来るまでの時間が長いと感じた。
「始め!」
優紀が手を叩く。
小雪は、ライトが照らす舞台に、踏み出した。
***
一回目の練習は、小雪たちにとって芳しくない結果となった。
散々練習したのに、台詞を噛むわ舞台で転ぶわで、目も当てられない。
観客席で松屋が目を押さえていたのは、見ていて悔しかった。
優紀は小雪たちの失敗を
けれど、長い間練習してきた小雪は、その小さな失敗が許せなかった。
優紀たちが、練習を切り上げて掃除に移る。美和が手伝いを申し出て、松屋も掃除道具を用意する。
「あの、ここって何時に閉めるんですか?」
小雪は優紀に劇場の閉館時間を尋ねた。
優紀は不思議そうに「9時に施錠する」と返す。
小雪にできることは一つだ。彼女は優紀に頭を下げて、真摯に頼んだ。
「舞台の掃除は私がするので、施錠するまでの間、練習させてください」
小雪の申し出に、優紀は目を丸くする。
松屋も思ってもみなかったことに、ポカンと口を開けた。
「本気で言ってる? 劇団の練習は、部活よりもハードよ。それに加えて、施錠時間まで自主練? 体壊すわ」
「無理を承知で言っています。でも、私はその演劇を成功させたい」
自分の世界を、完璧に演じたい。
誰かと築き上げた物語が、誰かの琴線に触れたなら、どんなに良いだろう。
かつて自分が、そうだったように。
独りよがりの自己満足が、仲間のための物語になって、誰かのための物語になるこの過程を見届けたい。
決して頭をあげない小雪の姿勢に、美和も一緒になって頼んだ。
「あたしも、練習させてください。舞台ピカピカにして帰るんで。ちゃんと掃除するんで、お願いします」
優紀は困ったように顎に指を添える。
二人のお願いを聞きたいのはやまやまだが、高校生を夜遅くまで劇場に居させるのがネックだという。
「親御さん、心配するでしょ?」
そう言う優紀に、美和は「うち放任主義なので大丈夫です」と答えた。優紀は小雪をちらっと見る。
小雪は、少し暗い瞳で答えた。
「両親、私に興味ないので大丈夫です」
――もう少し、まともな言い訳はあった。言おうと思えば言えた。
それでも、小雪はそう伝えることにした。
優紀は松屋に目配せをするが、松屋は頭をポリポリと掻いて知らないふりをする。
優紀は少し考えると「分かった」と言って、二人の申し出を了承した。
「寄り道しないで家に帰ること、それが条件よ。いいわね?」
「はい!」
小雪は許可してくれたことが嬉しくて、自然と笑みがこぼれる。その笑顔に、優紀は複雑そうに微笑んだ。
***
次の日からは想像の倍以上に忙しかった。
衣装は以前舞台で使ったものをリメイクし、大道具や小道具も使いまわしで、無いものは全員で作ることになった。
大道具の製作には工具が使われるので、聴覚過敏がある松屋は、別室で小道具の製作を手伝うことになった。
衣装や道具の製作だけでなく、舞台の練習もやらなくてはならない。
小雪たちは台詞を覚えているが、団員は覚えていない。
それぞれ特急で作った台本を片手に、舞台の練習を詰め込んでいく。
練習はシーンごとではなく、最初から最後までを通しでつなぎ、つまづいたり直したいところを自己申告したりと、猛スピードで進んでいく。
しかも怖いことに、練習中の優紀の威圧感が、松屋の比ではないのだ。
「ねぇ、何でこの短い台詞につまづくの。つまづくとこじゃないよ。発声ちゃんとやった?」
「今後ろ下がったの何で? 必要ない動きしたよ。もうしないで」
「美和ちゃん、そこの台詞で声落とさないで。次の台詞の雰囲気壊れるから」
「小雪ちゃんそこ動かない。そこから動いたら、後ろの役者が観客から見えなくなる。全員見えないと意味ないよ。周り見て、ちゃんと」
これらが注意されて、5分も経たないうちに出てくるものだから、小雪と美和は
委縮したら「練習だからって気を抜かないで」と叱られてしまう。
小雪はとにかく、喰らいついていこうと必死だった。
練習は朝10時から始まり、夜8時に終わる。
日中は別の演目があるため、練習用のホールを使い、夜は舞台の上で練習を続ける。
1週間も経てば、小雪も美和もヘロヘロだった。
練習の後、小雪と美和はステージに残って練習を続ける。
モップを持って、台詞を口ずさみながら掃除をする。
「『お願い! どうしてもあなたの力が』……じゃなくて、ここ名前呼ばなきゃ」
「観客に、役の名前覚えさせないといけないんだよね。小雪、ここよく引っかかるから」
「そうなんだよね、部活で台詞直した後も直らなくて」
「心の中でさ、役者さんの事を役名で呼んでみたら? あたしよくやるんだよね」
「そうしてみる」
お互いのミスを、お互いに教え合ってミスをしない方法を探る。
あと2週間しかない。その焦りもあるが、環境が変わったからどうも調子が出せない。
小雪はその場で軽く跳ねて、息を整える。
またプレッシャーに押しつぶされそうで、小雪は不安だった。自分がまた倒れてしまったら? 演技が上手くできなかったら? 悪い考えが頭を巡ってまた具合が悪くなる。
──大丈夫、自分ならできる。
小雪は自分にそう言い聞かせた。
同じ轍は踏まない。美和のためにも、自分のためにも。
松屋が持ってきてくれたチャンスはこれだけだ。これっきりなのだ。
それを無駄にするわけにはいかない。
だから、自己犠牲はしない。
小雪は頬を叩いて気合を入れ直した。悪い考えを払いのけて、台詞を最初から諳んじる。
掃除を済ませて、帰り支度をすると松屋が入り口で二人を待っていた。
相変わらず、本は手放さない。今日は『蟹工船』だ。
「遅ぇよ。優紀に怒られんだろ、俺が」
「先生、ホントそういうとこ」
「先に帰ってるもんだと思ってました」
小雪がそう言うと、松屋はそっぽを向いた。
優紀と何かあったのだろう。松屋のその拗ねた顔は、彼がちゃんと弟なのだと実感させた。
「送ってく」
拗ねたような声で、松屋は車の鍵を開けた。
***
昼とは違う、きらびやかな街の景色がイルミネーションのようで綺麗だった。
街灯の明かりが車内に入り込む度に、大人の世界に迷い込んだような錯覚に
美和がうつらうつらと眠りに落ちる。
小雪は美和の落ち着きのない頭を、自分の肩に乗せた。
松屋は無言で、住宅街に向かって車を走らせる。
小雪は松屋も疲れているだろうと、気を遣って口を閉じていた。
「練習、きついか?」
ふと、松屋がそう尋ねた。
小雪は「はい」と返す。松屋は「そうか」と言った。
「3週間しかないからな。優紀も、いつもあんなにピリピリしてるわけじゃない。急いでるだけだ」
「分かっていますよ。注意だって、きちんと理由を添えてくださってるんですから」
小雪は、松屋の言葉の真意が汲み取れなくてモヤモヤした。
バックミラー越しに、松屋の目と何度か合った。そこで小雪は、彼の言いたい事を汲み取れた。
「心配ですか。お姉さんのスパルタで、私たちが演劇嫌いになるのは。私がまた、倒れたりするのが」
松屋の目が逸れた。図星らしい。
松屋は時間を少し置いて、「不安だ」と本音をこぼした。
「佐伯先生の横暴に振り回されるお前らが可哀そうで。つい、優紀に演劇の代役を頼んだ。ギャラは自分が払うからって、言って頭を下げた。ボランティアって言ったのは、お前らが気を遣うと思ったから。『短い期間で演技を仕上げるから、優しい言葉はかけないし、練習も部活のようにはしない』と言われてた。俺は、『それでいい』って」
劇団に協力してもらえた裏話に、小雪は目を丸くした。
あの松屋が、自分の姉に金を出して頼んだなんて。それも、自分たちを理由に。
……優しい嘘までついて。
考えれば不思議なことだ。
この演目が観たいなら、卒業公演を観に行けばいいのだから。
質は落ちるが、内容は練習していたものと一緒だ。ここまでする必要なんてない。
「どうして、そこまでして?」
小雪が尋ねると、松屋は口をきゅっと結ぶ。後ろからでも、それがなんとなくわかった。
松屋は、奥にしまった秘密を明かすように言った。
「お前たちが主役の、俺らが作り上げた演劇が観たかった」
耳が良すぎて普通の演劇が観られない。
学校ですら、音が苦痛で図書準備室にこもっていた。
ここから出ることなく、また1年が過ぎると思っていた。
そこに演劇部が現れて、図書室に小雪が通い出して、声をかけてくれた。
松屋は、自分が諦めていたことをできるのが嬉しかったのだ。
声をかけてくれたことが、どうしようもなく……。
「余計なことしたか?」
そう聞いた松屋の声は、とても自信が無くて不安げだった。子犬のように縮こまった言葉に、小雪は胸を張って、本音で返した。
「感謝してますよ。美和との夢が叶うし。私も、自分の物語を誰かに伝えたい」
だから、松屋には堂々としていてもらわなくては困るのだ。
この人が、夢を後押ししてくれた。形にしてくれた。現実にしてくれた。
未来にしてくれた。
小雪はいつか松屋が言ったことを、彼に返した。
「妙な所で気を遣わないでくださいよ。私たちの配慮とか、クソいらないことしなくていいです」
小雪はわざと意地悪く笑った。松屋の普段の態度を
彼は吹きだすように笑うと、「それオレの真似かよ」と言う。
くつくつと笑って車を走らせる松屋の表情は、すっかり晴れていた。
小雪は美和の顔にかかる髪をかき上げて直す。
きらびやかな世界は住宅街に向かうたびに薄れていく。
3人が乗った車は、闇に紛れるように住宅街に消えていった。
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