第20話 休息に語る
松屋に車で送られ、家に帰った。
「着いたぞ。大丈夫か?」
「大丈夫です。ありがとうございました」
家の玄関は明かりがついておらず、誰も小雪の帰りを待っていないようだ。
松屋は小雪が平然として家に入る様子を、
他人が口を出すべきではないと判断してか、彼は何も言わずに車を走らせた。
小雪は玄関にある小さな窓から、松屋の車が遠くなるのを見つめていた。
小雪がリビングをちらと見ると、テーブルに夜ご飯が置かれている。
焼き肉の匂いがした。けれど、テーブルの上にあるのはコンビニ弁当。
また弟のお祝いか。豪勢なことで。
自分の子供を冷遇することを、なんとも思わないなんて、頭がどこかおかしいんじゃないか。
小雪は弁当を回収して、部屋に上がった。
***
ベッドの上で、小雪は台本を開く。
書き足しや、削除を繰り返した物語は、小雪が当初思い描いていた話と、まるっきり違うものになっていた。
独りよがりな話ではない。仲間と作り上げ、洗練された物語だ。
以前のものよりずっといい。この話は、小雪のお気に入りだ。
小雪は寝ながら弁当を食べ、台本を読んだ。
物語の舞台、小さな村で主人公や登場人物たちが、一つの目的を達成すべく、手を取りあって生きる。その姿は生き生きとしていて、小雪の目に魅力的に映った。
これが現実なら、どんなに良いだろう。
現実なんてクソだ。しょうもなくて、小説よりも汚い世界だ。抗いようのない、泥の底だ。
自分でどうこうしたって、変えられない。
「……『こんにちは、初めまして』」
小雪は台詞を読んだ。
物語の序盤にして、最初の台詞を。
この一言から、この世界は始まる。
本当は美和が演じる役の台詞だった。けれど、動きをつけたら、役の性格と一致しなくて、小雪の台詞と取り替えになった。
だからその台詞は、小雪の演じるべき、優しくて行動力ある主人公が、鼓動する瞬間だ。
――それを、壊しかねないなんて。
小雪は唇を噛む。
泣いても泣き足りないくらい、悔しい。
不意に、電話が鳴った。
小雪は驚いて、台本から手を離す。
机の上のスマホに手を伸ばすと、台本はベッドから落ちた。
スマホを指でタップして、電話に出る。
電話口からは、聞き慣れた声が不安げに流れてきた。
『小雪ぃ、大丈夫?』
美和の今にも泣きそうな声が、小雪の胸に刺さる。
小雪は強がって「大丈夫」と言った。
『松屋がさ、『家でも台本読むのは控えろよ』って伝えとけって。言わなくてもいいかなって思ったけど、小雪はやめないなぁって』
流石。3年間の付き合いは伊達ではない。
美和は小雪のことを、本人よりもよく知っていた。
小雪が「読んでないよ」と言えば、『嘘ばっかり』なんて返ってくる。
本当に、よく知っている。
『小雪は悪くないよ。最近、部活厳しかったし。本番近かったから、より大変だっただけだし』
「……うん。でも、この大事な時に私、倒れたなんて」
『気にしないでよ。誰が倒れてもおかしくないじゃん。今回が、たまたま小雪だっただけだよ』
美和は優しい言葉を掛けてくれるが、小雪は自分が許せないでいた。
美和は電話の向こうで軽く息をついた。
小雪の責任感の強さを知っているからか、美和は話題を逸らした。
『小雪はさ、どうして演劇部に入ろうと思ったの?』
美和の質問に、小雪は喉の奥が閉まるのを感じた。
明確な理由がある。
家族に嫌われても進みたいと思った理由が。
それを誰かに打ち明けるのは、初めてだ。
「――中学の時。受験の息抜きに、劇団に連れてってもらってさ。そこで観た演劇が、すごくおもしろかったの」
輝く舞台の上で、楽しそうに動く役者の一人一人が、物語の人物に命を与える。
役者としてではない、登場人物として舞台を踊る姿が、とても魅力的で、小雪は演劇の世界の
自分じゃない誰かになれる。
『中村小雪』以外の何者かになれる。
親の言う通りに生きる道とは違う、自分だけの世界を持てる。
それが、小雪の人生の分岐点だった。
ステージを泳ぐスポットライトを追いかけて、物語は進んでいく。
世界が一秒、一分の間に変わっていき、心だけがむき出しになったまま、最高の幕引きを迎える。
あの高揚感が、あの頭が痺れるような興奮が、小雪の知る小さな世界に輝きをもたらした。
それを、自分でも作ってみたかった。
あの興奮を、きらめきを、誰かに知ってほしかった。
だから、親に反抗した。
嫌われてもいいと思った。
望んでこの息苦しい道を選んだ。
後悔はしていない。反省はもっとしてない。
小雪はその一瞬の輝きのために、今この時を生きているのだから。
小雪の
高校生にしては重すぎるであろう、小雪の理由を聞き、美和は『羨ましい』と言った。
『あたしは、大した目的なんて無いからさ。演劇部に入ったのだって最初は『面白そう』としか考えてなかったし』
「そんなもんじゃない? 学校だって、部活にそこまで求めてないよ。どうせ3年で終わるじゃん。大学なんて、行くかどうかも分からないし、続けるかなんてもっと分かんない」
『でもさ、運動部とかは続けてるヤツ多いし、ちゃんとした理由を持ってんじゃん? あたし、めっちゃ軽い理由で部活入ったんだよ』
「でも理由があるじゃん」
『今はね』
美和はそういうと、ふふ、と笑った。
そして、いつもの口癖を言う。
『小雪と、主役をやりたいの。同じ舞台で、一緒に。最後まで舞台に立ちたい』
『でも、それは今すぐ叶わなくてもいいこと。だからさ、無理しないでね。あたし、小雪が壊れるのが怖いの』
小雪はぽろっと、涙を
自分は、舞台そのものをダメにするんじゃないかと不安だった。
でも本当は、美和との夢を壊すのが怖かったのだ。
美和は小雪に『ちゃんと休んでね』と言った。
『明日はあたしも休むし。松屋にちゃんと許可貰ったよ。全力で駄々こねたから、一緒に甘いの食べに行こ』
小雪は深呼吸して「うん」と返した。
美和との通話が切れると、小雪はダムが決壊したように泣き出した。
自分はどうして、こんな単純なことにも気づかなかったのか。
美和との約束を、二人の切望を、小雪は今の今まですっかり忘れていた。
あれほど聞いていたのに。耳にタコができるまで聞いていたのに。
自分が倒れたら、全く意味を成さなくなることを、どうして知らなかったのか。
小雪は彼女との約束を守るために、休養を取ろうと決めた。
彼女との約束のために演じようと、固く誓った。
小雪の演じる役が、呼吸を始めた。
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