第19話 プレッシャーにのまれて
「ダメだダメだ!」
今日5回目のダメ出しに、小雪は唇を噛んだ。
松屋はいつにも増して深いため息をつくと、小雪に向かって舌打ちをした。
「中村ぁ、お前やる気あんのか」
台詞は間違え、動きはあやふや。
小雪の気の抜けようは、誰から見ても分かるくらいだった。
小雪自身、わざと手を抜いているわけではない。
卒業公演まであと一ヶ月しかない中で、誰よりも焦っているのは、彼女なのだから。
けれど、完璧にしようと思えば思うほど、演技に曇りが出る。
小雪は「すみません」と、素直に頭を下げた。
どうしてミスをするんだろう。
どうして動きが上手くできないんだろう。
いつもなら、しないミスなのに──!
小雪は混乱したまま、思考のループに
「5分休憩。中村、その間に全部整えろ」
松屋は部員にそう通達する。二時間続けていた部活にようやく休憩が挟まれて、生徒たちは背伸びをしたり、座って水を飲んだりと体を休める。
いつもなら、台本を読んで休む松屋が、部員に気を遣って部室を出た。
小雪は、部室の隅に座ると、台本を開いた。
台詞が思い出せないなんて、動きがぎこちないなんて。
こんな状態で、舞台に立つなんて……。
(絶対にありえない!)
ミスを一つでも減らそうと、小雪は何度も読んだ台本を、もう一度読み直す。
せっかく時間にうるさい松屋が、部活の時間を8時までに伸ばしてくれたのに、もったいない使い方はしたくない。
小雪の台本は読み返すうちに、すっかりボロボロになってしまった。端の方なんて、もうちぎれてしまって掴めなくなっていた。表紙を含め、ページは全て、セロハンテープで補強している。
シーンに重要なセリフや、演技指導が書き込まれて、真っ黒なページを小雪は目が痛くなるまでじっと見つめた。
1ページにじっくりと時間を使って、それでいて休憩時間に全部読み切れるように。
小雪はとにかく自分に台本の内容を、物語の全容を、登場人物たちの心情を、全てを叩き込んだ。
けれど、ページを捲る度に。台詞を読む度に。
小雪の中で物語が崩れていく。
自分で書いたものなのに、分からない。
自分が演じているのに、まるで他人が作り上げたような気すらしていた。
これは本当に、自分が演じたいものだったのか。
これは本当に、自分が書いたものだったのか。
これは本当に、観客に見せられる話なのだろうか。
オリジナルゆえの重圧と、最初で最後の主役。そして、公演まで時間が無い中のクオリティの低さが気になって、小雪は胃が痛くなっていた。
胃が痛くなると、全身が強張って自然と体が縮こまる。
――これは、舞台にふさわしくないのではないだろうか。
――自分は、主役にふさわしくないのではないだろうか。
──アレ、私は。何をしたかったの?
弱気な考えが、ぐるぐると巡って、小雪は気分が悪くなる。目の前が暗くなってきて、手が震えてきた。
胸がギュウッと、締め付けられるように苦しくなって、腹の底から吐き気が込み上げた。
「おい、おい! 大丈夫か!?」
気が付けば、翔太が小雪の肩を掴んで揺さぶっていた。
小雪は、自分の肩を掴む翔太の手が震えていることに気が付いた。
練習はとっくに始まっていて、小雪が動かないから心配したらしい。
美和が小雪の顔を覗き込んでいた。翔太は小雪から手を離さない。
小雪はしばらくぼぅっとして、ようやく状況を飲み込んだ。
「……ごめん、ちょっと。その、考え事をしてて」
「うん、それならいいんだ。もう練習が始まってるから、ほら」
翔太は小雪から離れた。
小雪も、練習に戻ろうと立ち上がる。
その途端、視界がぐにゃりと歪んで、立つことも出来ないほどの寒気と、強烈な吐き気に襲われた。
美和がとっさに小雪を支えてくれた。
小雪は深呼吸をしようと息を吸う。自分の不調を整えようと、自分を律しようとしたが、こればかりはどうしようもない。
腹の奥からせり上げてくる吐き気に抗えず、小雪は床に崩れ落ちる。
そのまま、小雪は吐いてしまった。
喉の奥が痛くなるまで、腹の中のものが全て無くなるまで小雪は吐き続けた。
美和が耳元で叫んでいるのに、遠くに聞こえる。
松屋が焦った様子で、部員に何かを指示している。
──何をしているんですか。どうしてそんなに焦ってるんですか。私は大丈夫です。
だからどうか、部活を続けて。
その言葉は口に出ることなく、胸の奥に沈んでいった。
耳の奥が詰まったように、音が消えていく。まぶたが重くて、開かなくなった。
小雪は、眠るように意識を手放した。
***
小雪が目を覚ますと、目の前には保健室の天井があった。
仕切りカーテンに囲われたベッドの中で、小雪はボーっと天井を眺めていた。
目を覚ましたのに、起き上がる気力も部活に戻る体力もない。
小雪は天井のシミを数えて、聞こえてくる音を聞き流す。
音だと思っていたものは、人の声だった。それも、見知った人の声だった。
美和のしゃくり上げる声が、松屋を責め立てていた。
「先生のせいだからね! 小雪頑張ってたのに、先生が何回もダメ出しするから!」
美和に責められても、松屋は反論せずに聞いていた。美和は「う~っ!」と
「小雪は誰よりも台本読んでた! 小雪は誰よりも舞台を良くしようとしてた! 台詞の書き換えも、シーンの変更も、誰より早く対応して、練習に参加してたのに! 先生があーでもないこーでもないって、小雪の事責めるから……!」
美和が松屋にそう言っているのを聞いて、小雪は少し、起き上がる気力を得た。
松屋は「そうだな」とか、「悪かった」とか、美和の
心なしか、落ち込んでいるように聞こえる。
美和は「小雪死ぬの?」と弱々しく聞いた。
松屋は「それはない」と、きっぱりと返した。
「中村は極度のストレスで倒れただけだ。しばらく部活を休めば落ち着くはずだ」
――しばらく、部活を休む?
(そんなの、公演に間に合わない!!)
「それは絶対にダメ!」
小雪はカーテンを開けた。
二人の前に飛び出すが、小雪はすぐにふらついて、倒れた。
美和は涙でぐちゃぐちゃになった顔で、小雪を抱きしめた。
「小雪、小雪! ダメだよ、まだ寝てな?」
「先生、私まだやれます! 大丈夫です!」
小雪は松屋に練習再開を申し出る。体はまだ動く。口だって、ちゃんと話せる。
どこも悪くない。病気でもない!
だが、松屋は傷ついた表情で、小雪を見下ろしていた。
今休んだら、練習に遅れが出る。全員が舞台のために、必死で最後の仕上げをしているのに、自分が休んでは、舞台が台無しになってしまう。
小雪は松屋に「大丈夫だから」と、繰り返し言った。
小雪がそれ繰り返すと、美和の涙は増えていく。「大丈夫じゃないよ」と言う、彼女の方が死んでしまいそうだった。
松屋はため息をついた。
「3日、休みを取れ」
小雪は、どん底に突き落とされたような気持ちになった。
小雪が「どうして」と聞けば、松屋は悲しそうな顔をする。
「先生、私は平気ですから」
小雪がすがるように、松屋に言った。
松屋は、小雪に深く頭を下げた。
「……すまなかった」
短くて、重い謝罪。小雪は不意に涙が出た。
どうして? 何がいけなかったの?
練習についていけなかったから?
自分じゃ主役に向いていなかったから?
こゆきは松屋の謝罪の真意すら、見抜けなくて苦しい思いを重ねた。
松屋は小雪の前にしゃがむと、きちんと自分の考えを伝える。
「中村なら、きつい練習でも大丈夫だと過信していた。無理させていたのに、分かっていたのに知らん振りした。最後の追い込みだからって、役者を、生徒を殺すようなことは、顧問としても、教師としても、やっちゃいけないことだったのに」
小雪は「そんなこと……」と呟いた。それ以上の言葉は無い。
松屋は「今週は休め」と、再度伝えてきた。
小雪はどうしても部活に参加したかったが、美和が「死んじゃう」と、余りにも泣くので、なくなく了承した。
「中村、親は迎えに来られるか?」
「さぁ。呼んでも来ないと思いますよ。私、嫌われてるんで」
「そうだった。……部活が終わったら、俺が送ってく。それまで保健室に居ろ」
小雪をベッドに戻すと、松屋は部活に戻る。
美和は小雪の傍にいたいとごねたが、松屋に「主役二人欠員はヤバい」と言われて、渋々部活に向かう。
小雪は一人残された保健室で、また天井を眺めた。
自分が悪いわけではない。
少し無理をしたから、その分休むだけ。
でもそれが、悲しくて、悔しかった。
舞台から引き下ろされたかのような絶望感に、小雪の目尻の涙が溜まる。
小雪は静かに泣いた。枕を湿らせて鼻をすする。
あんなに練習してきたのに、こんなことでくじけるなんて。
こんなことで休むなんて。
小雪は悔しくて悔しくてたまらなかった。
シーツを握って、声を押し殺した。
小雪は、思い知らされた。自分は自分が思っている以上に弱いことを。
小雪は、気がついた。自分が思っているよりも執念深くて、舞台に焦がれていることを。
誰よりも、照明で輝く舞台の上に立つことを。
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