第16話 松屋の本気度合い

 小雪が美術部から部活に向かう途中、廊下で松屋と出会った。

 松屋は自動販売機にお金を入れている。それを見て、今は発声練習しているのか、と小雪は察した。


 松屋はオレンジジュースを買って、壁にもたれた。

 ペットボトルの蓋を開けて、深くため息をつく彼に、小雪は軽く会釈をする。

 松屋は会釈を返した。


「……」

「……」


 松屋は何も言わずにジュースを飲む。

 時折、目をつむっては部活の声を聞いていた。

 小雪も、さっさと通りすぎればいいのだが、松屋の様子が気になって、足が進まない。


「中村、2年の男子に声小せぇって伝えろ。1年に負けんなって」


 松屋が小雪に言った。

 1階の自動販売機の前にいて、2階の部室の声が聞こえるのか。松屋の耳は過敏というより、ほぼ超能力だ。

 小雪は「はい」と言ったものの、やはり気になってしまう。




「先生、私が先生を部活に呼んだのは、間違いでしたか?」




 小雪は松屋に尋ねた。松屋は不意をつかれて、ジュースを飲む時に喉を鳴らす。


 図書室はほとんどの生徒は寄り付かないし、近くで部活もしない。さらに、準備室のドアは頑丈で、音があまり聞こえない。


 あの場所は、松屋の耳にとって、かなり適した環境だ。さらに、準備室は棟の最端にあり、外からの音もしない。

 これほど快適な場所は、そうそう見つからないだろう。


 その環境から、小雪は彼を、うるさい外の世界に連れ出した。

 部活のために、彼の弱点を天敵に大きくさらした。



 小雪は、彼の楽園を踏み荒らしたのだ。



 裕翔は気にしなくていい、と言っていたが、不安な小雪はそうもいかない。

 小雪は、部活の事しか考えていなかった。松屋の事を何一つ、考えていなかった。


 松屋が図書準備室にいる理由も、イヤホンを外さない理由も、昨日聞くまで一度も想像すらしなかった。


 彼には彼の事情があった。それを、小雪は「教師なのにサボっている」「やる気が無い」「責任を放棄している」と、ずっと思い込んでいた。



 ――自分はもしかして、とんでもないことをしたのではないか。



 そんな考えが頭を巡って、小雪は申し訳なくなっていた。

 松屋はため息をついた。ペットボトルの蓋を閉める。中身が減ったペットボトルを軽く振り回して、呆れた声を小雪に浴びせた。




「そこは、俺を部活に呼んだのは『正解』でしたか、って聞けよ」




 松屋の答えに、小雪は顔をあげる。松屋は腕を組んで、じっとりと小雪を睨んでいた。


「まるで、俺の方が悪いみてぇじゃん。中村に無理やりついてった感じがして」


 松屋は不満そうに言うと、またペットボトルを揺らした。

 小雪は彼の言い方で「自分は間違ってはいなかった」と理解する。

 松屋は、小雪の安堵した表情を、「間抜け面」とからかった。



「嫌なら、最初から断ってんだよ。いらねぇ気ぃ回すな。だいたい、イヤホンしてるから問題ねぇって、昨日言ったろ? そんなことも忘れたのか。はぁ~、物覚えの悪い生徒持つと苦労すんなぁ~」

「な、人が少し気を遣えば、すぐそういうこと言う! 何なんですか! 先生の安心できる場所取っちゃったんじゃないって、私不安になってたのに!」



「それが、いらねぇ気遣いなんだよ」



 松屋はペットボトルで小雪の頭をこつんと叩いた。

 小雪は、むすっとしたまま松屋を見上げる。


 松屋の表情は、小雪が思っている以上に穏やかだった。いつもの不機嫌そうな態度や荒い言葉遣いが、嘘のように。


「別に、演劇嫌いだって言ってねぇだろ。俺は物語が好きだからな」


 小雪は松屋の表情の変化に、初めて気が付いた。それは本当に微かで、じっと見なくては、分からないような変化だった。



「俺だって、前に何度か部活に顔を出そうとはした」



 松屋の意外な暴露に、小雪は目を丸くする。

 一度も部室の傍で見たこともないし、松屋が放課後どこにいるかも、つい1ヶ月前まで知らなかった。

 でも、松屋は副顧問として、部活に行こうとはしていたと言う。



 ――けれど、どうしても部室の声が痛くて、耐えられなかったのだ。



 立つのもやっとな頭痛と吐き気が、何度も松屋の行く手を阻み、松屋のやる気をごりごりと削いでいく。


 いつしか松屋は部活に行くことも、生徒たちの傍に行くことも、諦めてしまった。



 松屋は口にしない。自分の内に秘めた感情も、本音も。

 だから、小雪は親近感を覚えたのだろう。「分かる気がする」と、松屋に言った。


 松屋は驚いた。小雪を馬鹿にはしなかった。

 小雪は親の冷遇、松屋は自身の過敏な聴覚。何一つ違う。

 でも、根底は同じ。



 ――寂しい。



 小雪はそれを口にはしない。口にしたら、今築いてきた関係は、雪のように壊れてしまうと理解していた。



「じゃあ、私が先生を呼んだのは、正解でしたか」



 小雪はさっきの質問を、言い方を変えてもう一度聞き返す。松屋は一瞬呆気に取られ、ふはっと笑った。



「知るか。そういう筋書きだったんだろうよ」



 松屋らしい返しに、小雪も笑顔になる。

 これを運命と言わない。そうなるものだったと知っていたかのような物言いは、本の虫たる彼しかできない。


「筋書きなんて、まるでこの世界が物語みたいな言い方」

「あ? 小説より変な世界が物語に収まるわけねぇだろ」

「あ~、先生っぽい」


 松屋は軽く耳をすませて、「終わったな」と呟いた。彼は背中を大きく曲げて、うんと背筋を伸ばす。


 松屋はペットボトルをぶら下げて、小雪の先を歩いた。


 小雪は彼の背中を見つめた。

 わざわざ高いイヤホンを買って、毎日部活に顔を出す。

 あの楽園にこもっていたいなら、松屋はそんなことをしない。



 ……最初から、心配することなんて何もなかったのだ。



 勝手に可哀想な人にしていたのは、自分の方だった。本人の気持ちをおざなりにしていたことを、恥ずかしく思う。

 それと同時に、小雪は心底安心した。


「おい、置いてくぞ」


 松屋はぶっきらぼうに小雪を呼ぶ。小雪は松屋の背中を追いかけた。

 松屋は本気だ。誰にも理解できないくらいの本気で、生徒たちの活動に、向き合う努力をしてくれる。


 ならば、それに応えなければ。失礼に値する。


 小雪は早歩きで松屋を追った。

 松屋は小雪よりも、もっと速く前を歩く。彼の背中は、もう寂しくなさそうだった。

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