第15話 耳の話
「『これなら、風車を直せそうだわ』」
小雪は台詞を喋る。
松屋に言われたことは、まだできない。
けれど、小雪は自分の精一杯を、練習にぶつけた。
日野の台詞は松屋がカバーして、練習が途切れないようにしてくれた。
それでも、皆の注目は松屋のイヤホンに集まる。
松屋は、発声練習の時は決まって外に出ていた。あれは自己防衛のための行動だったのだ。
発声をして、声がよく出るようにしてからの練習は、松屋には苦行だろう。
音に敏感、と言われても、小雪たちにはピンとこない。
椅子を引く音、黒板を引っかく音はせいぜい少し不快な程度で、うるさいとはでは思わない。
翔太は中学生の時、クラスに難聴の生徒がいたから、補聴器をつけている人の対応は、少しならできると言っていた。
けれど、音で頭痛がしたり、吐いたりする人なんて、小雪たちの誰一人として会ったことも聞いたこともない。
部内で声の大きい翔太や美和も、松屋に配慮して声を落とす。
松屋は突然不機嫌になった。
「誰が声落とせっつったよ」
松屋の怒りのこもった声は、練習に対してではない。自分への気遣いに向いていた。
「あのな、妙な所で気ぃ遣うのやめろ。言ったよ、確かに言った。うるさい音は嫌いだし、音で頭が痛くなるとか吐き気がするとか。でもお前らに気を遣わせるために言ったんじゃない。いずれバレることだったし」
松屋は台本を閉じると、椅子から立ち上がって翔太たちの前に行く。
「普段は遮音イヤホンで不快な音は消える。声はどうしても聞こえてくるが、体に不調が出るほどじゃない。だいたい、これしきの事で具合悪くなるんなら、演劇部の練習見に来たりしねぇよ」
松屋は翔太と小雪の額を指ではじく。
パチンッ! と音がして、小雪は額を押さえた。
「ちゃんと声出せ。俺の配慮とか、くそいらねぇことすんな。自分たちのやるべきことをしろ。俺にこの高い遮音イヤホンの元取らせろ。2万したんだぞ」
松屋は部員の笑いを取って練習再開を呼びかける。
小雪は松屋の空元気の様な笑い方が気になった。
***
「悪い、誰か美術部に背景のチェック行ってくれない?」
和樹が昼休みにそう頼んだ。
演目が決まった後も、空き教室に集まって昼ご飯を食べる演劇部3年生は、和樹のお願いにキョトンとした。
「和樹がそんなこと頼むなんて、なんかあったのか?」
「数学のテスト赤点取って補習になった。翔太、今日ちょっと部活いけないかも」
「え。和樹、マジで言ってる? 今回のテスト超簡単だったじゃん」
「美和、テストの赤点はな、計算ミスだけじゃないんだよ」
「てことは何?」
「解答欄ずれてた」
「あははは! バカじゃん!」
確認しろよ~、と美和に笑られる和樹だが、そのお願いは誰も引き受けられない。
智恵は衣装のチェックがあるし、翔太は演劇部のまとめ役で離れられない。
琴美は照明のやり方などの引継ぎがある。
美和も、小道具の手伝いがあって、部活から離れられない。
「私行くよ」
小雪が引き受けると、和樹は表情を明るくして「え、神…」と喜んだ。すぐに翔太に頭を叩かれていた。
和樹からカラーイメージや雰囲気の要望メモを受け取って、小雪は焼きそばパンを口に詰め込んだ。
***
放課後、小雪は美術部を訪れる。
前回訪れた時の静けさはなく、生徒たちが協力して依頼した背景を描いていた。
裕翔のスケッチ通りの絵に、色がついていく。
生徒たちは、正解が分かっているかのように色を混ぜ合わせ、濃淡を調節して、大きな紙に色を乗せていく。
小雪はその様子を邪魔しないように眺めていた。
絵を見るのも、なかなか心が洗われる。
真っ白な紙に青空が広がり、草花が咲き誇る。
まだ描きかけだとしても、本物のような出来には感嘆がこぼれた。
「ちょっと」
小雪の後ろから気だるげな声がした。
振り返ると、絵具の缶を持った裕翔が、小雪を見下ろしていた。
「……邪魔」
「あ、ごめん。すぐに退けるね」
小雪が道を譲ると、裕翔は缶を背景絵の傍に置く。
裕翔が来ると、生徒たちの話声がぴたりと止む。裕翔はため息をこぼした。
「で、小雪は何の用?」
裕翔に尋ねられ、小雪は和樹から預かったメモを裕翔に渡す。
裕翔は「ふぅん」と興味なさげにスケッチを始めた。
「ここ、作業してるから隣の準備室で話そう」
裕翔は黄色の絵具が染みたポケットから鍵を出した。
それで準備室のドアを開ける。
小雪は部員の邪魔をしないように、部室の隅をそろそろと歩く。
裕翔は「多少踏んでも平気」と言うが、真剣に描いている絵を踏まれていい気はしない。
小雪が絵を踏まないように準備室の前につくと、裕翔は薄く笑った。
「ビクビクしすぎ。ウケんね」
「いいじゃん。絵を踏むより」
準備室のドアを閉めると、部室の方からぽつぽつと話し声が戻ってくる。
裕翔はそれを聞いて、またため息をついた。
「はぁ、ウザ。僕がいるときは話しないのに」
裕翔の呟きに、小雪が反応する。
「どうして誰も話さないの?」
裕翔は言うべきか、言わないべきかで少し迷った。
上を向いたり、下を向いたり、とゆっくり頭を動かして悩む。
1分近く悩むと、裕翔は小雪に質問した。
「
小雪は知らなかった。それを伝えると、裕翔は「うんとね」と、それについて教えてくれる。
「簡単に言うと、些細な音が不快なほど音に敏感な事なんだけど。女性の声とか子供の声がダメとか、食器の音がダメとか。そのせいでイライラしたり、体に不調が出たりとか」
小雪は松屋と同じことに驚いた。
裕翔は耳が痛くなったり、音を拾いすぎて疲れたりするらしい。
だから彼はいつも気だるげなのだ。
「だから、音を軽減するヘッドホンをつけてるんだけど、部員は僕が聴覚過敏だって知ってから、誰も話さなくなった」
裕翔はドア越しに聞こえる話し声に目を細める。
羨ましそうなその目は、松屋にはない。
「人より音がうるさいだけ。僕はそれだけなんだ。でもみんな、僕に気を遣って話さない。僕がいないところで楽しそうにお喋りしてる」
裕翔は悲しそうに笑った。その表情に、その感情に、小雪は覚えがあった。
「僕も、みんなとお喋りしながら絵を描きたい」
――寂しい。
小雪がつい最近まで抱いていたそれは、裕翔の首を絞めていた。
裕翔は「ごめん。忘れて」と、演劇部の話に戻す。
「それで、えぇと。背景の雰囲気の――」
「ちゃんと話した方がいいよ」
「えっ?」
小雪は裕翔に言った。
寂しさなんて、簡単に手放せる。
考え方を変えたら。誰かが手を差し伸べられたら。
自分はここに居てもいいと、思える。
「ちゃんと話した方がいいと思うよ。多分、聴覚過敏のことよく知らないから、そうしてるだけだと思うの。裕翔君が、ちゃんとみんなと話し合いすれば、変わるよ」
小雪の言葉に、裕翔は「ぷはっ」と笑った。
裕翔の純粋な笑顔は貴重かもしれない。
「そうだね。ちゃんと話さないと」
「そうだよ。……ついでに、ちょっと相談してもいい?」
「何?」
「松屋先生のことで」
小雪は裕翔に話した。
松屋も恐らく同じ聴覚過敏であること。
音で頭痛がしたり、吐き気がしたりすること。
それを知らなかったとはいえ、小雪と美和で部活に引っ張り出したこと。
小雪は悪いことをしたんじゃないかと、不安になっていた。
けれど裕翔は「そんなことないよ」と、小雪を励ました。
「本当に来るつもりが無かったら、頼んだ時点でこっぴどく断ってるでしょ。断んないで引き受けてるなら、先生も興味あったってことだよ。先生も本当は部活に来たかったんじゃない?」
裕翔はニヤッと笑った。
「話し合ってみたら?」
変わるかもよ? なんて、今小雪が言ったばかりなのに。
小雪はふふ、と笑って「そうだね」と返す。
ようやく背景の話に入り、小雪と裕翔は絵のすり合わせをする。
和樹からの要望は一部を除いて裕翔の許可が出た。
話し合いの途中で出た小雪の要望や、裕翔自身のイメージも併せて、背景イメージがより具体的に仕上がる。
話し合いが終わって、準備室を出ると、生徒たちの声がまた止んだ。
裕翔はしょんぼりするが、小雪は「大丈夫」と言って美術室を出た。
不安そうにヘッドホンを直す裕翔を一度だけ振り返って、小雪は部室に急ぐ。
小雪も、松屋と話をしなくては。
きちんと、話をしなくては。
小雪は駆け足で部室に向かう。
美術室から、小さく笑い声が聞こえた。
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