第14話 松屋のイヤホンの意味
小雪は放課後、美術部の部室に顔を出した。
来客に気づかずに、皆が黙々と石膏のデッサンを描く様子は、時が止まったような静けさがある。
図書室とは違う緊張感に、小雪は体がこわばる。音を立ててはいけない空気に、息すら恐れる。
それなのに、見入ってしまう。
鉛筆の走る音、紙の擦れるわずかな音。部員たちの微かな呼吸。
息をするように絵を描くその真剣さが、絵が描きあがる瞬間が、愛おしくて切ない。
小雪が美術部の活動を眺めていると、一人の男子が小雪に気が付いた。
裾が絵具だらけのカラフルな制服に青いヘッドホンが似合う、美術部部長の
「…………何の用?」
柔らかいが冷たい声。それは「邪魔しないで」と言っているように聞こえた。
小雪は早く用を済ませようと急いだ。
「卒業公演の背景依頼しに来たの」
「卒業公演? 背景はいつも使いまわしだよね? 新しくってどうしたの。破けた?」
「いや、演目が今までと違う新しいやつで、今あるのだとちょっと合わなくて」
「ふぅん。で、どんなやつ?」
小雪は裕翔に背景イメージを伝える。
裕翔はファンタジーチックな、と聞くと目を見開いて「ホントに?」と小雪に確認する。
裕翔はイメージの絵を、目の前で軽く描いてくれた。
鉛筆の荒い線が、大まかに近い形を描いているだけなのに、それだけでどんな背景かが分かる。裕翔の画力はすごいものだ。
「こんな感じのやつ?」
「うん。そんな感じ」
「……ホントに今までと違うね。分かった。いつまでに仕上げるの?」
「10月の下旬だから、えっと」
「9月の末に渡せるようにするよ。全員スケッチ止め。演劇部の背景製作に取り掛かるよ。すぐに片付けて」
裕翔は眠そうに指示を出すと、自身も制作のために部員の輪に戻る。
「うちとの話し合いは」
「和樹君でしょ。分かってるから」
「うん。お願いね」
「…………ん」
裕翔はすぐに部員に背景のラフを描くように指示をした。
部員はスケッチを持つと、裕翔の指示通りに鉛筆を走らせる。
小雪は裕翔の背中を見つめてから部室を出た。
***
演劇部の部室に近づくと、なにやら騒がしい。
誰かケンカでもしているのだろうか。それなら美和が止めるはずだ。けれどケンカが収まる様子がない。
もう少ししたら松屋が来る。松屋が来れば、説教どころでは済まない。
小雪が急いで部室に入る。ドアを開けると、オロオロと焦る智恵がこちらを見た。
「もっぺん言ってみろ! 大した演技力もねぇ1年が!」
「何回だって言いますよ! 中村先輩なんかより、私の方が主役にふさわしいです!」
ケンカをしていたのは美和と日野だった。
翔太が美和を押さえているが、美和は翔太の腕を振り払う勢いで日野に掴みかかる。
「あんたなんか佐伯のエロジジイに気に入られただけのド素人じゃん! そのくせ3年生の卒業公演まで主役やりたいとか、頭湧いてんじゃねぇの!?」
「教師に気に入られるのも一種の才能でしょ! お気に入りになれなかったからって、ひがむのやめてくださいよ! 悔しいならそう言えば!?」
「おい二人ともやめろ! もう松屋先生来るんだぞ!」
翔太がなんとか美和を止めているが、美和の力はすさまじく、和樹や琴音が押さえてようやく止まるくらいだ。
小雪は状況の説明を智恵に求める。
智恵は困った様子で教えてくれた。
「え、えっとね、日野ちゃんが、し、『主役は自分がいい』って翔太君に言ったから、美和ちゃんが、お、怒ってね。日野ちゃんも美和ちゃんもひ、引かなくて」
「そうなんだ……」
部員としては、日野の暴走程度なのだろう。
聞き流せばよかったのだが、美和の逆鱗に触れてしまった。
日野は小雪に気が付くと、「先輩!」と小雪に近づいてきた。
「主役を譲ってください! 私の方が上手く演じられます! 中村先輩よりいい劇にしてみせます! どうせ先輩が演技しても、顔がパッとしないんだから、主役じゃなくてもいいでしょ」
美和は役を変わらない。
自分の方が綺麗な顔をしている。
なら同じ主役でも、美和より気が弱くて、あまり可愛くない小雪を狙う方がいい。
――きっと日野はそう判断したのだろう。
ちやほやされることに慣れてしまった。
甘やかされることを知ってしまった。
佐伯に逆らえない、お気に入りにもなれない部員なら、奴のお気に入りの自分の言うことは聞くと、思い込んだのだろう。
だから、小雪が自分より弱いと判断してしまった。
「あんたのど下手くそな演技で、私の演目汚されたくないんだけど」
小雪は、縛られない環境に慣れていなかった。だから日野に対して強気になれた。
自分が作り上げている。自分が歯車の一つになれている。その高揚感が、責任感が、小雪をより強くしていた。
小雪のはっきりした意見に、全員が目を丸くした。
小雪は本当は、適当に受け流そうとした。けれど、あまりの言われように腹が立った。
どうせこの演劇に佐伯の妨害は入らない。今回ばかりは遠慮しなくていい。そう思ったら、今まで我慢した分も一緒に吐き出た。
「そもそも発声なってないよね。体育館の奥まで声届いてないの知らない? 台詞も練習足りないからうろ覚えだし、とちるし、舞台の上で忘れたこともあったよね。かっこいい台詞も棒読みでダサすぎ。感情を込めるって知ってる?」
小雪はここぞとばかりに不満を吐き出した。
小雪の口から溢れて止まらない不満と文句と嫌味と注意の嵐に、日野は顔を真っ赤にして震える。
小雪が溜め込んだものの多さに、美和すらうろたえる。
小雪は周りの空気も気にせず言い切ると、大きくため息をついた。
「卒業公演は遊びじゃない。3年生の集大成の演劇なの。それに、演劇を観るために時間を使ってくれることをありがたいと思えない人に、主役やってほしくない。生半可な覚悟と、くそみたいな理由で舞台に立たないで。あんたの演技を観るくらいなら、幼稚園のお遊戯会の方がまだマシ」
小雪の怒涛の説教に、日野は唇を噛んだ。
松屋が部活に来た。足音が聞こえる。
日野はニヤリと笑う。
「お前なんか、終わりだよ」
そう言って、小雪を突き飛ばした。
よろける小雪を、翔太が支える。
松屋が部室に入ると、その異様な空気に顔をしかめた。「何事だ」と尋ねても、誰も答えない。
生徒たちが松屋を見る中、日野はわざとらしく声をあげて泣き出した。
「いきなり泣いてんじゃねぇよ」
日野のウソ泣きに、美和の怒りが再燃する。
松屋は美和を片手で抑えると、日野に近づいた。
「どうした?」
「せ、先生っ! み、みんなが、寄ってたかって、わ、私をいじめるんですっ! 中村先輩が、私の演技、『幼稚園の方がマシ』って……、ひど過ぎることぉ……」
日野はわざと声を崩して、その場に膝をつく。さめざめと泣いて、教師の同情を誘う。ハンカチで口元を隠して、涙までちらつかせる。
日野は嘘は言っていない。だからこそ、質が悪かった。
被害者面をして、自分の非を打ち消して、哀れな1年生を演じている。誰がどう見ても、悪役は小雪たちだった。
その演技力を演劇に生かしてほしかった、と小雪は息をついた。
松屋は小雪に「本当か?」と事実確認をする。
小雪がそれを認めると、翔太が慌てて援護する。
「中村は悪くありません! 日野がいきなり……」
「俺、お前に聞いてないよなぁ?」
「ちょ、先生それ無いんじゃない? あたしらの話聞かないで、日野の話だけ聞くとか」
松屋は美和を無視して、うずくまって泣く日野の前にしゃがんだ。
「おい、泣くのやめろ」
松屋は優しい声色で日野を慰める。
結局、松屋も佐伯と一緒か。黒髪でロングヘア―の可愛い女の子が泣けば、男はコロッと騙される。清純派至高とか、アダルト動画の見過ぎだろう。
騙されないのは、本性を知っている演劇部員くらいなものだ。
小雪や3年生は落胆する。
美和は小雪の傍で「絶対譲んないから」と意志を固める。小雪以上に、美和は小雪の主役を望んでいた。
小雪も「そのつもりだよ」と、美和に意志表明する。
松屋は日野に、優しく声をかけ続けた。
「ほら、早く泣くのやめろ」
「お前が嘘ついてんの、全部バレてるから」
松屋のとんでも発言に小雪は目を見開き、美和は「嘘でしょ」と疑う。
日野も驚いて涙が止まる。ウソ泣きすら忘れて、松屋を注視した。
「ほら、嘘じゃん」
松屋は嫌味ったらしい笑い方をした。イヤホンを軽く叩き、「知らねぇだろうけど」と丁寧にも説明する。
「俺、やたら音に敏感なんだよ。食器の音とか、黒板のひっかく音、椅子を引く音とかうるさくてたまんねぇの。頭痛くなったり、吐き気したりすっから、遮音イヤホンしてんのな?」
だから松屋は、イヤホンをしているのか。
小雪は松屋がイヤホンを手放さないのではなく、手放せないのだと、この時初めて知った。
「それでも人の声とかは聞こえるんだよ。特に、怒鳴り声とか。うるせぇったらねぇの。廊下の向こうにいてもお前らの声が聞こえてたぞ」
松屋はじわじわと日野を追い詰めていく。
退路を塞いで、言い訳も許さず、松屋は日野の弁解を待つ。
「中村よりいい演技できるんだっけか。台詞とちったり忘れたりすんのに? いい劇にできるって? 棒読みで動きもぎこちないのに、どうやっていい劇にするんだ? お前なんかより、中村の方がふさわしいぞ」
松屋に追い込まれて、日野は何も言えなくなった。
松屋はそれでも止まらず、「どうするんだ?」ともう一度尋ねた。
それが純粋な質問だろうと、少し痛い目見せようとしているのだろうと、松屋の声で、言い方で、答えられるわけがない。
小雪は今の今まで散々な言われ方をしていたのに、日野が可哀そうになった。
美和も同情するくらい、松屋の意地の悪さが発揮されている。
いつまでも答えない日野にしびれを切らし、松屋は大きなため息をついた。
「
松屋のひときわ低い声に、日野は本当に泣いてしまった。
日野は部室を飛び出したが、誰も追いかけなかった。仲の良い1年生すら、日野の味方をしなかった。
松屋は軽く息を吐くと、何事もなかったかのように部活を始める。
「発声」
松屋はそう言って廊下に出た。
彼は近くでちゃんと聞きたいのかもしれない。けれど、耳のせいで近くに寄れないのか。
翔太が発声の号令をかける。
小雪は発声をしながら考えた。
静かな図書室で、魅力的な物語に埋もれながら、声を聴けない苦しみを。
本で埋め尽くした彼の静寂の城を、小雪は自分勝手な理由で、壊してしまったのかもしれない。
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