終章 世界の狭間の暗闇より

「おはようございます、イシル様。」

「おはよう。」

 イシルはかつての親代わりであった人と同じ服を着て、神殿を歩いていた。

 最後に手紙が来たのはずっと昔の、神官長夫妻の死の間際。

 ただ感謝だけが綴られたそれは、夫妻の墓で共に眠っている。

 それから手紙が届くことはなく、何十年もの時が流れた。

 エヒトはいつの間にか出会った穏やかな女性と結婚して、子供が1人生まれて。イシルは神官長になった。

 エヒトも将軍に任ぜられて、今も戦の先陣を切っている。もう年なんだから無茶するなといつも言っているのに、毎回毎回武勲を上げて。

 心配するこっちの身にもなってみろ、とエヒトの妻と共に何度苦言を呈したものか。

 結局彼は全く変わることがなかったのだけど。

 夜、祈りを終えてカーテンを引き、ベッドに腰掛ける。側仕えの神官見習いの少年が去っていって、イシルはしばしぼうとする。

 ふと思い出したかのように、左手の薬指に嵌めた指輪を撫でた。

「なあ、ライン。見てるかい? おれはこんなにも、立派になったよ。」

「エヒトも将軍になってさ、孤児院に行くと『エヒト様みたいになりたい!』って言われるようになったんだ。」

「おれも、当代の勇者を見つけたんだ。・・・いい子なんだ。息子みたいに、思ってる。」

「あの時君が、諦めかけたおれたちを救ってくれたから───今、おれたちは生きてる。君のお陰で、おれたち・・・いいや、あいつは幸せになれた。」

「おれだって幸せだよ。君に、これを渡せた。あの時君が──って、言ってくれた。それだけで、充分過ぎるぐらいに幸せさ。」

「そうだ・・・おれ、君の話を書いたんだ。世界の維持を司ると言われる、使徒たちの1人として、だけど。王立図書館にも納められたから、これで君はずっと忘れられないよ。」

「そういえば・・・あの時の語り部の老人は、一体何だったんだろうね。あの後お礼を言おうと思って行って見たら誰もいないし、誰もあの人のことを知らなかったんだ。」

「もしかして、君の仲間だったのかなぁ・・・ねえ、ライン。」

 さらり、とイシルの背中を何かが撫でた。目を向けると、閉めたはずのカーテンが風にたなびいて、月光をゆらゆらと反射させていた。

 その、狭間に。

 今、何か。

 導かれるように、イシルはよろめき立ち上がった。一歩一歩と窓に近付くにつれ、足取りは軽くなっていく。

 彼女と別れたあの時───17歳の、ときのように。

 カーテンの狭間では、月の光が微笑んでいた。

 イシルはそれを抱き締める。二度と離さないように。二度と離れないように。

「おれは、君をずっと、愛してる。」

「知ってるわ。」

「ずっと、見てたもの。ずっと、貴方の幸せを祈っていたもの。ずっと、ずっと───。」

 ふわり、とどちらからともなく目を閉じて。どちらからともなく、この上なく愛おしい存在に触れる。

「指輪、しててくれたんだ。」

「貴方から、もらったものだもの。」

「ありがとう。」

「いいの。私こそ、ありがとう。」

 ふふっ、と笑い合う。

 昔のように。3人で笑っていられた、あの頃のように。

「ねぇイシル。私ね、もうお勤めはいいって言われたの。闇の女神様から。お前の贖罪は終わりよ、って。」

「じゃあ・・・・・。」

「ええ。だから、これからはずっと一緒。一緒に、いきましょう。」

「うん。」

 2人、手を繋いで。

 窓から差し込む月光に誘われて。

 足が地面から離れて、それでも手は離さずに。

「ねえイシル。私ね、貴方のこと、愛してる。」

「知ってるよ、そんなこと。」

 笑い合いながら、どこまでも歩いていく。2人で、一緒に。

 いつの間にか朝日が昇って、神官見習いがイシルを起こしにやって来て。

 どこからともなく現れた花冠を胸に抱き、眠るように呼吸を止めた、イシルを見つけた。

 翌日には葬儀が行われ、一番の親友であったエヒトが二本の花をその胸に置いた。

「父上、どうして花を二本置くんだ? 普通は一本だろ?」

「ああ、これでいいんだよ。あいつが1人で逝ったわけがねえ。どうせ、あいつと一緒だろ。」

「意味わからないんだけど、父上。」

「わからなくていいんだよ、ライエ。」

 その翌年。イシルの後を追うようにエヒトもまた、呼吸を止めた。

 イシルと同じように、胸に美しい花冠を抱いて。どことなく、満ち足りたような顔で。

 夫人はこのことをどこか予想していたように、仲が良すぎるのも困り者ねと笑って、それから涙を溢した。

 イシル・ハーヴェイ。エヒト・ハーヴェイ。孤児出身としては初めて神官長と将軍になった2人の名は、今もこの国で語り継がれている。

◇ ◆ ◇ ◆

 世界のどこでもあってどこでもない、とある空間。そこで、救済の使徒たるセイヴは1つの部屋にいた。

 室内にも関わらず陽光降り注ぎ、微風が心地好い細やかな花畑。よく見れば、花は一部手折られたような跡がある。

 セイヴは陽光溶け込む白亜の壁にもたれて、いつかと同じように部屋の中心を眺めていた。

 もうそこには、月光の色をした少女はいない。

「セイヴ。」

 いつの間にか、人形のような少女が傍らにいた。その瞳は、無垢なる虚無を湛えてなお優しい。

「寂しい?」

「・・・寂しくないと言えば、嘘になる。」

 自分と似て非なる瞳をした、1人の少女。まるで、妹のように思っていた。

 だからこそ。

「プリエール・・・いいや、ラインは、幸せになるべきだ。」

 いつも人のことばかり考えていた。いつも人の幸せばかりを祈っていた。あのお人好しで、理想家で。そして、誰よりも優しいあの娘は。

「俺なんかよりもずっと、幸せになるべきなんだ。」

 今頃彼女はきっと、手を繋いで歩いているのだろう。3人揃いの花冠を身に付けて。2人揃いの、指輪を嵌めて。

 いつかのように、3人で。笑い合いながら。

「きっと、あの娘は幸せ。」

「あの娘は、人のために祈った。たくさんたくさん祈った。だからその分、報われる。報われなければならない。・・・セイヴも。」

 ぼろぼろに傷付いた、セイヴの魂。こんなになるまで人の罪を、業を肩替わりしたあなたは。

「・・・俺は、罪人だ。」

「罪は、償える。罪をきちんと受け止めて、償ったならきっと、救われる権利はある。」

「優しいものには、相応しい終焉おわりがあるものだから。」

「・・・そうだったら、いいな。」

 風が吹く。かつてこの部屋の主だった少女を祝福するかのように、花びらが舞う。

「そうだ、セイヴ。『語り部』が持ってきた。」

 手渡されたのは、一冊の書物。著者は、イシル・ハーヴェイ。

「私たちと、あの娘と、貴方の物語ですって。」

 エンドが去った後、セイヴはそれを開いた。

 いつか『語り部』がイシルに与えた物語。それは、こう締め括られていた。

 

 世界の狭間の暗闇より。今日も彼女たちは、この世界を見ているのだろう。

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