6章 邂逅

 がらがらと、車輪は回る。

 微妙に上下する景色を眺めながら、イシルは少し顔の青いエヒトの背中をさすった。

「大丈夫かエヒト。」

「・・・一応は。」

「大丈夫ですよイシル殿。こいつは馬車に少し弱いだけですから。」

 笑って言ったのは、エヒトと同じ制服を着た別の人物。その言葉に同じ馬車に乗っていた他の騎士たちも軽く笑った。

 数日前、イシルが神話を編むと決意し、それが神殿にも認められて伝承を集めるためにかつて帝国の首都があった場所に行こうとしたときのこと。丁度その場所で集団暴走スタンピードの予兆が確認された。

 その場所は大きな集団暴走スタンピードが何度も発生しており、魔王ではと疑われる存在も確認されている。

 しかし当代の勇者は既に老人。とても戦いに出られる年齢ではない。その為集団暴走スタンピードの調査及び早期収束を目的として手練れであるエヒトたち王直轄の近衛騎士団、光の神の神官、その神官を守るための聖騎士1名が派遣されたのだった。

 馬車が黒緑の岩肌覗く崖の横を通り過ぎていく。かつて皇帝が住んだ城は全てがこの黒緑の石で作られていたという。贅を尽くし、天上の楽園にも例えられたそれは一夜にして消え失せた。神の、怒りに触れて。

「───イシル?」

「っ、ああ。どうした、エヒト。」

「いや、眉間に皺が寄り始めてたからつい。」

「・・・そうか? ありがとう。」

「・・・あまり、1人で抱え込むなよ。」

 最後の一言はひどく小さな囁きだった。イシル以外の誰にも聞こえないよう、配慮されていたから。

 イシルは、ただ微笑んだ。十年近い付き合いの友の、優しさに。

「大丈夫だ。ありがとう。」

 柔らかに、それでも確かな意思を込めて。

 町に着いたイシルと近衛騎士団は予約していた宿に荷物を置き、早速調査を始める。

「イシル殿はどうしますか? どこで魔物と出くわすかわからないので・・・もしよければ、護衛に1人付けますが。」

「いえ、私は町に留まることにします。何か用があれば魔具で呼んでください。」

「分かりました。」

 気心知れた聖騎士1人を伴って、イシルは町を練り歩く。町の人に色々話を聞きながらだからその歩みは自然、ゆっくりとしたものになる。

 ふと、視線を感じて立ち止まれば1人の老人がイシルを見ていた。

 子供と見紛うほどに小柄で、太い杖が無ければ歩けぬほど老いて。それなのに何故か、イシルは老人からある種の強さを感じた。

「ご老人。少しよろしいですか。」

「この老いぼれでよろしければ。」

「私は今、闇の女神の3人の娘についての伝承を集めております。彼女らはかつてこの地にあった帝国の滅びに関わっていると聞きました。そのことについて───何かご存知ではないでしょうか。」

「・・・こちらへ。」

 老人の小さな背中についていく。次第に周囲の景色は暗く汚くなっていき、イシルに付き従う聖騎士から本当についていくのかという無言の圧力が感ぜられる。

 だがイシルには戻る気はなかった。

 これを逃せばもう出会えないような。そんな気がした。

 着いたのは、一軒の荒屋。人が住んでいるかも怪しい荒れ果てたそこに、老人は入っていく。

 汚い襤褸きれにしか見えない、かつてはクッションであったかもしれないものに座り、老人の目は冥いフードの奥からイシルを射抜く。

「さて・・・何から語りましょうか・・・。」

 老人は自らを『語り部』であると言った。

「神官殿。貴方は何を聞きたいのかな?」

 迷いなどなかった。

「全てを。闇の女神とその3人の娘が関わった、すべての出来事を。」

「・・・いいでしょう。」

 老人は姿勢を正し、堂々と、朗々と吟う。

 光の神の姉でありながら彼と交わり全てを産んだ闇の女神の、この世で一番最初の罪の物語を。その3人の娘たちの下した罰と、裁かれた者たちの記録を。かつてこの地にあった帝国の、傲慢なる皇帝と都と共に消えた勇者の罪業を。人を救わんとして人を殺めた、使徒となった少女の物語を。

 イシルは声に乗り、大河を流れる枝葉の如くに語られる物語に溺れ、沈み。その全てを飲み込んでゆく。

 貪欲な蛇が獲物を貪るように。飢えた獣が死骸に食らい付くように。

 その、全てを。

 怖気沸き上がる『叫び』に我に返ったとき、イシルの中に物語は確かに刻み付けられていた。

「・・・ご老人。貴方は。」

「わたしは一介の語り部に過ぎませぬ。お行きなされ、若き神官殿。」

「・・・はい。」

 最後に1つ礼をして、イシルは振り返ることも考えずに『叫び』の起こった方へと走り去る。

 老人はそれを見送り、荒屋に沈澱する闇の中へと一歩、足を踏み入れ。

 仄かな闇色のひかりを残し、跡形もなく、消え去った。

◇ ◆ ◇ ◆

 世界のどこかの、暗闇の中。そこで溢れ返る書物を読み耽っていた青年は、ふと立ち上がり無限に続くかに思える狭い階段を上っていく。

 突然現れたかに思える扉を開き、赤い絨毯の敷かれた廊下を進み、とある部屋の前に立った。

「プリエール。入るぞ。」

 声をかけ、ウォルナットの扉を開く。そこは花で溢れていた。室内であるにも関わらず柔らかな陽光が降り注ぎ、甘い花々の香りが微風に流れて青年の鼻を心地よくくすぐった。

 銀色の髪の少女はその中心で跪き、手を組み合わせて祈っていた。

 何のためかはわからない。誰のためかもわからない。ただ少女は、一心不乱に祈っていた。

 青年は陽光に溶け込む白亜の壁にもたれかかり、少女を眺める。

 風のそよぎだけが響く時は、いかほど続いたのだろうか。少女は唐突に立ち上がった。

「セイヴ様。どうしましたか?」

「・・・いや。もうそろそろだと思ってな。」

「そうなのですか?」

「あの方たちの気配が強まっている。・・・もう、あの方たちは完全に世界の歪みと化した。」

「忘れることは、できませんか。」

「忘れることなど、できるものか。あれは、忘れてはならない俺の罪だ。」

「・・・そうですか。」

 2人は同時に顔を上げた。

「・・・来たな。」

「はい。行きましょう。」

 2人は連れたって階段を降りていき、この場所の中心にある大テーブルにたどり着いた。

「ジャッジメント様・・・。」

「審判は下されました。」

 金縁片眼鏡モノクルの向こう。何よりも紅い瞳は哀しさと、憐れみを持って告げた。

「世界の歪みの権化を滅し、あるべき姿へと導け。」

 瞳が示すは祈りの使徒たるプリエール。救済の使徒たるセイヴ。そして、終焉の使徒たるエンド。

「プリエール。セイヴ。エンド。お願いね。」

「わかりました。ジャッジメントお姉様。」

「エンド。あなたの出番は最後・・・まずはプリエールとセイヴで行きなさい。」

「かしこまりました。」

 2人は礼をし、全ての闇へと繋がる大扉へと向かう。

 プリエールの持つ鍵が扉を開き、無明の闇が通じる先は、人の意識の虚というある種の闇。

 2人は一歩、足を踏み出し。

 魔物たちに立ち向かう騎士たちの狭間に降り立った。

 2人は誰にも気付かれることなくゆっくりと歩いて行き、最前線に辿り着く。

「セイヴ様、行ってください。ここは私が。」

「・・・すまない。ありがとう。」

 プリエールが手を祈る形に組み合わせ、セイヴが愛剣を抜き走り出す。それと同時に2人は意識の虚というある種の闇からその存在を光の元に現した。

 騎士たちが、突然現れたかに思える2人の存在にどよめく。特に、プリエール。

 かつてプリエールが人だったとき、王の護衛としてあの場所にいた近衛騎士たちは、彼女の顔を忘れてはいなかった。

 風もないのに月光の銀が柔らかに揺れ、海原の青の瞳が伏せられる。何らかの力が戦場に満ち、魔物たちの振り上げた爪や剥き出した牙は少女の前方で不自然に止まる。

 少女はさらに真っ直ぐ手を伸ばし、横開きの扉を開くかのように手を開いていく。

 魔物たちは何かに押されて退けられ、その中心に道が出来ていく。

 そこを疾風と駆け抜けるは金髪の青年。少女の青い瞳と兄妹のように似て、確かに別人と異なる蒼穹の青を静かに煌めかせ、遠ざかっていく。

「・・・ご武運を、セイヴ様。」

 少女は開いていた手をまた、祈る形に組み合わせる。一心不乱に。ただ、静謐に。

 戦場にあってなお祈るそれは奇妙に似つかわしくて、相応しくなくて。

 その場にいる人々は茫然と見つめるのみ。

 誰も語らず動かず。戦場は、たった1人の少女によって停滞した。

 一方、セイヴはプリエールが開いた道を駆けていた。

 魔物たちはプリエールの不可視の力に阻まれ、そしてセイヴとの圧倒的力量差もあって悔しげに睨み付けるのみ。

 セイヴが足を止めたのは、石切場とおぼしき場所だった。かつての都を作っていた黒緑の石が覗き、川のようにも見える。

「居るのだろう・・・・・王よ。」

 声が響くと同時に黒緑の石から黒い靄が沸き上がりセイヴを包み込む。彼を中心に渦巻く黒い竜巻は、いつしか竜のような姿を取っていた。

 3つの首の先にある頭は明らかに人のもの。1つは少女の。1つは中年の男の。1つは中年の女の。

『『『ユ──ウ───シ─ャ』』』

 伸びる靄の腕を切り払い、飛びすさる。靄の竜の周囲は枯れて、涸れて。

 命すら、己のものだと言うように。

 先ほど切り払ったばかりの靄の腕は何事もなかったかのようにまた、伸びてくる。

 かつてこの地で何度も起きた集団暴走。その全ての中心はこの魔王。

 切っても倒れず、命を啜る災禍。

「貴方は───貴方たちは、本当に変わらない。」

 跳び、命奪う手を避ける。

「全てが己の手中にあると信じて疑わない。」

 光纏った剣を振り、無数の腕を斬る。

「己の手中にないものは、どんな手を使ってでも手に入れる。」

 かつてセイヴが人だったころ王が求めたある宝石。彼が帰るのに手を貸したそれは、持ち主ごと壊されたと聞いた。

「そんな、貴方たちを。」

 靄の腕が触れ、肌に走る痛みを切り捨てて。

 その巨体に斬り込んだ。

 セイヴの体が靄に沈みこんで行き、愛剣が何か固いものを捉える。

「もっと早く、止めるべきだった。」

 近くにいたのに。誰よりも、何よりも。

「もっと早く、拒むべきだった。」

 どうでもよかったのなら、受け入れるべきではなかったのに。

「貴方たちを取り返しのつかないところまで追い込んだのは。」

 彼らを殺すしかなくしたのは。

「───俺だった。」

(偽善者め)

 靄から声がする。

(ワシら/私たち/わたくしたちを、殺しておいて。)

(ワシら/私たち/わたくしたちを、また殺すのか。)

(お前/貴方様/貴方は正義などではない。)(お前/貴方様/貴方は勇者などではない。)(傍観したお前/貴方様/貴方は、決して。)

(勇者などでは────「知っています。」

 「セイヴ」が、食われていく。体の各所が痛い。でもこれは、然るべき報いなのだ。

「俺は勇者なんかではない。俺は───俺こそが、罪人でした。」

「俺がこのカタチを与えられた理由は、贖罪。」

「何一つ救わなかった、愚かで怠惰な勇者であるはずの者への。」

「───今度こそ、見捨てない。」

「今度こそ───貴方たちを。」

 救うべきだった貴方たちを。かつての自分が救わなかった貴方たちを。

「救済の使徒、セイヴの名の下に」

「汝らの罪を精算し」

「汝らの魂を──」

「浄化せん。」

 靄が、爆発するように消えた。

 同時に魔王がこの世に留まる媒介であった、黒緑の石が砕ける音がする。

 同時にセイヴの胸に痛みが走る。セイヴの使徒としての力は罪や業をセイヴに移し替え、時間をかけて浄化するもの。多くの罪を受け取るほどに、セイヴは傷付いていく。それでも。この痛みさえも。セイヴにとっては贖罪だった。

「終わったぞ、プリエール。」

 呟きは、祈り佇む月の色をした少女の下へ。

 少女は届くはずのない声を聞き、伏せていた瞳を開く。果てなき深みへと続く海原の瞳は、痛ましさに溢れていた。

「・・・終わった救えたのですね、セイヴ様。」

 プリエールは、胸元に下げた鍵を引っ張り出す。古くも新しくも見える、奇妙な鍵。

 プリエールはそれを、何もない空間に差し込み。

 捻る。

「エンド様。お越しください。」

 扉が開き、無明の闇が溢れ落ちる。そこから滲み出すように───1人の少女が現れた。

 何物をも飲み込むような、黒い髪。緑の瞳は翡翠のように美しく、圧倒的なまでの虚無を抱く。白皙の面は何処か先に現れた2人と似通った、感情のない無表情。

 エンドの虚空の瞳が、プリエールの作り出した不可視の障壁に阻まれる魔物たちを映して。

 抱き締めるように、手を広げる。

「終焉の使徒、エンドが下す。」

 淡々と。何処か愛おしげで、何処か哀しげな。確かに神と呼ぶに相応しい、慈愛と無慈悲の共存した視線。

「この地に積もり、繰り返されし全ての罪よ。在るべき闇へと帰りたまえ。」

 放たれた力は何もかもを連れ去っていく。

 魔物も、魔王であったものの欠片も。突如地面から沸き上がった不吉に黒い靄も。

 その全てが帰っていく。始まりたる闇へ、終焉エンドの力の下に。

 響き渡る崩壊の音。かつての栄華の象徴たる黒緑の石が砕けひび割れ消えていく。あちこちで採石場が崩れ、人々の悲鳴が遠く聞こえる。

 永遠にも思える刹那の果て。全ての罪は、全ての業は、エンドを通じて消え失せて。

 騎士たちの前に静かにある、3つの姿。

 誰も語らず、誰も動かず。視線のみが彼女らを捉えていた。

 プリエールが鍵を差し込み捻り、扉の形に空間が途切れて無限の闇が覗く。

 エンドが、セイヴがそこに足を踏み入れ見えなくなる。扉を押さえていたプリエールが続こうとしたその時。ふと、振り返った。

 エンドのそれと似て異なる緑の瞳と、海原の青が絡む。

 イシルの手はもどかしく首に下げた革紐を引きちぎり、1つの小さな煌めきを飛び立たせた。

 星のような微かな光は、プリエールの姿と共に消えた。

「・・・イシル。」

「渡せたよ、エヒト。ようやく。」

 全ての想いを詰め込んだ小さな指輪。イシルの手で控えめに輝くそれの上に、ぽつりと雫が落ちた。

「・・・やっと、渡せたんだ・・・・・。」

「ああ。」

 想いの結晶を胸に掻き抱き、堪えきれない嗚咽を漏らすイシルをエヒトは、昔のようにぐしゃぐしゃと。押さえつけるように、髪を掻き乱した。

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