5章 祈る者の過去~別れ~

 時は経ち、ライン16歳、イシルとエヒトは推定17歳になった年。それは起きた。

 とある曇った日の朝の、まだ夜も明けぬ頃。

 イシルは中々帰ってこないラインを待っていた。その金糸刺繍の神官服の下には丈夫な革紐に通した2つの銀色をした指輪が隠れている。

 襟元から革紐を引っ張ってそれを引き出し、手の中で弄ぶ。

 イシルが結婚可能な年齢、18の誕生日を迎えたらこの世で一番愛しい少女に渡そうと思っている婚約指輪。それに付いた揃いの翠の石は、月の光を含んできらきらと煌めいていた。

 弛んだ顔にはっとして辺りを見回す。幸いにも誰もいなかった。

「・・・妙に遅いな。」

 普段ふらりと遅くに出かけて行くとき、大抵ラインは誰かもしくは何かを拾ってくる。困ったことだと思いつつも、結局皆受け入れてしまうのだ。

 指輪を服の下に仕舞い込み、もう一度月を見上げたとき。幾つもの足音が近付いてきた。

 立ち上がり、門を細く開け外に滑り出る。

 やってきた人影に、イシルは何故か強烈な違和感を覚えた。

「・・・ライン?」

 ラインの筈だ。イシルが彼女を見間違えるわけがない。だが、何なのだろう。頭の中で鳴り響く、この警鐘は。

「ただいま、イシル。この人たち、お願い出来るかしら。それからもう1つお願いがあるの。」

「騎士団を、呼んでくれるかしら?」

 イシルの愛しい少女は大勢のみすぼらしい人間を連れていた。そして、彼女自身は。

 真っ赤な返り血に染まって、困ったように微笑んでいた。

「ライン!? まさか、怪我を!?」

 肩を掴み、至近で彼女を見つめる。よくよく見れば銀糸刺繍であった筈の神官服に破れなどといったものはなく、ただ血の赤だけが彼女を不吉に彩っていた。

「違うわ、イシル。」

 どしゃぐちゃぬちゃ、と湿って重い音と共にラインの右手が掴んでいた何かが地面に投げ出された。

「傷つけられたのではないの。」

 それは、5つの歪な球体。それぞれに生えた短い円柱からは何か赤いものが滲み出していた。

「私が傷つけ、私が殺したの。」

 人間の、生首だった。

 絶句するイシルの後ろで、修道女の誰かが甲高い悲鳴を上げた。

 呆然と立ち尽くすイシルの周りで人々が動き、ラインや後ろにいたみすぼらしい人々が連れていかれる。

 哀しいような微笑みだけがイシルの瞳に焼きついて、離れなかった。

 気がつけばイシルは部屋にいて、何故か側にはエヒトがいた。

「エヒト・・・なんで、ここに。」

「気がついたか、イシル。あれから何があったか覚えてるか?」

「・・・いや。」

「ラインが帰ってきて、逮捕されてからもう1日経ってる。お前はあの場所にずっと立ち尽くしてて、他の神官たちにこの部屋に担ぎ込まれたらしい。んで、俺が呼ばれてここに来てから今までずっと同じ体勢で固まってたって訳だ。」

「そうか・・・今、ラインはどうしてる?」

「牢の中で取り調べを受けてる。素直に応じてるらしいし、酷いことはされてないはずだ。」

「・・・そうか、よかった。」

 カーテン越しに夕映えが部屋を染める。何の嫌味か、空は何時にも増して赤かった。

「数日後には裁判をするらしい。」

「そうか。」

「見るのか?」

「ああ。そのつもりだ。」

 言わずとも分かっていた。人々の救済を旨とする神官が救うべき人を殺したというのなら、どのような判決が待っているのかぐらい。

「事が事だから、国王直々に裁判に出るんだと。神官長は欠席されるがな。」

「・・・ラインは、神官長夫妻の一人娘だから。」

「血族の裁判には出れないって、自分から辞退を申し出たらしい。」

「・・・あの方らしいな。」

「そうだな。」

 真面目で、堅物で、でも優しい。

 イシルたちの知る神官長殿ならば、きっとそうする。例え自分がどう思っていたとしても。

「イシル───」

「エヒト。」

 カーテンが風を孕んで踊った。

「いいんだ、エヒト。」

 エヒトの手が伸ばされて、頭を押さえつけるようにぐしゃぐしゃと掻き乱される。そうされるようになったのは、一体いつからだっただろう。

 イシルのズボンの上に、ぽつっと一滴雫が落ちた。

 エヒトは何も、言わなかった。

 数日後、王都の人々の誰もが口にするほど広まった神官による殺人事件の裁判が行なわれた。

 法廷の、最も高い場所には厳めしい顔をした王が座し、裁判員たちは貴族、平民問わず緊張に強張っていた。

 傍聴席には彼女と交流のあった人々、知らない人がともに大勢詰めかけている。

 被告人が入ってくる。

 ざわり、と人々がどよめいた。

 簡素な生成りのワンピースに、細い腕には似合わぬ無骨な手錠。そして僅かも衰えぬ白い美貌。長い銀の髪は奇妙なほどに優雅に揺れ、沖合いの海を思わせる青い瞳は凛と前を見つめていた。

 彼女は、変わることなく美しかった。

「裁判を始める!」

 かんっ、と高らかに木槌が鳴る。

「元神官ライン・エリアニア。そなたは先日奴隷商人5人を殺害した。間違いはないか。」

「ありません。」

「何故そのようなことをしたのだ!」

 居丈高に問う貴族の男にちらりとだけ視線をやって、ラインは王を見上げた。

 王は、ラインを見た。

 2つの視線が入り交じる中、ラインは静かに口を開いた。

「だって、求められてしまったのです。」

「『助けて。』と。」

「どうしたら助けられるか考えて、奴隷商を調べ上げて、あの方法しかなかったのです。」

「だから、私はあの男たちを殺しました。奴隷たちを救うために。」

「陛下、私は悔いていません。間違ったことだとも思っておりません。どうか私に、しかるべき処罰をお与えください。」

「私がまた同じような状況になったとしたら、きっと同じことをするでしょうから。」

 イシルは、半ば夢の中のようにその言葉を聞いていた。きっと、心を守らんと防衛機能が働いていたのだろう。

 ラインは、死を望んでいた。明らかに。

 国王は、ゆっくりと瞬いて。

 彼女に死罪を、言い渡した。

 気が付けば裁判は終わっていて、裁判所に勤めているのであろう清掃人が出てください、とイシルに言う。

 イシルはふらりと立ち上がり、牢獄へと向かって面会したい囚人がいると告げた。

「しかし・・・。」

 渋りながらもちらちらと何か期待するような様子の役人にイシルは手を差し出した。握手と共に、銀貨を数枚滑らせる。

 役人は満足げに笑った。

「手続きをするから少し待て。」

 ざあ、と冷たい夕刻の風がイシルを打つ。神官長に怒られるかもな、と心のどこかが呟いた。

 しばらくして案内された牢の中では1人の少女が膝をつき、祈っていた。手を組み合わせ、静かに目を伏せ祈る様は昔から変わらない。

 ふ、と何かを感じたのか、少女が顔を上げた。

「ライン・・・。」

「・・・イシル。」

 金臭い鉄格子。イシルの貧弱な力では、きっと揺るぎもしないのだろう。

「どうしたの、イシル。もう遅いわ。早く帰らなくちゃ。」

「ライン・・・。」

 何で彼女はこうなのだろう。誰にも頼らず弱みを見せず、いつも皆のはるか前で手を差し出して、待っている。

「ライン、逃げよう。」

 そんなことはできないと、イシルは知っていた。仮に逃げられたとしても、きっとイシルもラインと共に殺される。それでも。そうだとしても、言わざるを得なかった。

「ライン。逃げよう。おれと、2人で。」

 君のことが、愛しいから。

 君を、失いたくないから。

「ライんっ」

 胸元に伸びた手がイシルを引き寄せた。頬に錆びの浮いた冷たい鉄格子の感触があった。

 同じことを繰り返そうとした唇は、柔らかで甘い何かに塞がれてぴくりとも動かない。

「イシル。それはできないわ。」

 柔らかな感触が離れると共に耳元に囁かれたその言葉。どうしようもなく、愛おしかった。

「貴方も殺されてしまうでしょう?」

 その言葉は、どうしようもなく悲しかった。

「私はね、イシル。」

 月の光が、彼女を照らす。

「貴方のことが──」

 告げられたたった二言の言葉。

 イシルがずっと欲しかった、それ。

 でも、今その言葉は別の意味を持っていた。

「だからさよなら、イシル。もう来ないでね。」

 私の大切なひと。

 唇がそう動いたのを、イシルは確かに見た。

 イシルは言葉に突き飛ばされるようにして帰路に着く。

 部屋に戻って、胸元からこぼれ落ちた2つの指輪。

 震える手でそれを掴む。

「ら、いん。」

「あ・・・う・・・あ・・・・・っ・・・」

 突き上げるように。弾け飛ぶような。腹の奥底から沸き上がる感情。

 悲しくて、哀しくて、辛くて。

 頭を掻きむしって、床を殴りつけて、両の瞳からはとめどなく涙が溢れる。

 獣の遠吠えにも似た声が神殿中に響き渡る。それは一晩中、止むことはなかった。

 その日から、数日。いや、数週間だったかもしれない。広場に処刑台が現れて、多くの民衆がそこに集う。

 国王も立派な椅子と共に現れて、刑吏が現れて、最後に不吉な黒い馬車がやってきた。

 ふわ、と民衆の前を漂う少女は痩せながらも長い銀髪と美しい顔はそのままで。

 普段ならいくらでも浴びせられるはずの怒声は一言もなく、奇妙な静寂が広場を包んでいた。空は今にも泣き出しそうに暗く、気紛れに顔を覗かせる太陽も気だるげに光っていた。

「最後に言いたいことはあるか。」

 王の静かな言葉に、少女は微笑み応じる。

「では最期に、祈らせてください。」

 少女は手を組み合わせ、目を伏せて。手が顔に触れるほどに、頭を垂れて。

 ただひたすらに祈っていた。それが彼女の使命だとでも言わんばかりの美しさで。

 そのときばさりと羽音が聞こえた。

 死体を目当てにやってきたのか、無数の烏が少女の頭上を旋回している。

 刑吏たちが追い払おうとするも、烏は意に介さずそこを回っている。

 ぐるぐると。ぐるぐると。

 とと、と少女の前に、一際美しい烏が降り立った。どこから来たのかもわからないほど、突然に。

 その烏は無数の烏たちのどの個体よりも黒く、烏の形に空いた世界の穴のようだった。

 烏が嘴を開く。

「・・・妙な娘よな。」

 罪悪に甘い、気だるげにも聞こえる声。

 烏には、あり得ない。

「助けた人らに死を望まれ、それでもなお人の幸せを祈るか。」

 少女が目を開ける。銀色の睫毛が海原の青に被って、雲がたなびく空にも見えた。

「ええ。」

 紫色の瞳をした、何よりも黒い烏が問う。

「何故祈る、娘よ。何故そなたは、人を呪わぬ。」

 銀月の色を持つ、少女が答える。

「私が人に幸せになってほしいから。私の大切な人たちが、幸せであってほしいから。・・・ただ、それだけ。」

 紫の瞳の烏が羽を広げる。

「ふ、ふふふ、あははははは! 『それだけ』のために、例え死のうとも祈り続けるか!」

「ええ。死の直前まで、祈りましょう。例え死のうとも祈りましょう。私の愛しい人たちのために。私の愛した人のために。私を呪った人のために。私が殺した人のために。私を嫌う人のために。私の周囲にいる、全ての人のために。」

「私の幸せは、皆が幸せであること。私の幸せは、皆が笑っていること。・・・細やかなものでしょう?」

 烏が笑う。艶のある、人を罪へと導く声で。

「面白い! 面白いわ、娘!」

「そう?」

「ええ。・・・・・ねぇ、娘。そなたは、人のために・・・いいえ、その細やかな願いのために、人を捨てられるかしら。『それだけ』のために、死ねるのかしら。」

「当たり前でしょう。」

「ならばおいで、娘。わたしの元へ!」

 烏が鳴いた。一斉に、旋回していた烏も、家々に止まっていた烏も、そこにいる全ての烏が鳴いた。

 ばらばらと舞い落ちる烏の黒い羽。

 視界が暗くなっていく。

 誰かが叫んだ。

「───太陽が!」

 見上げる空の、一番向こう。烏の描く大きな大きな輪の中で。

 太陽が、黒い円に食われていく。

 悲鳴を上げ、神に助けを求める人々の上で太陽は食われていく。

 世界の全てが暗く陰気な影に覆われたとき、また、烏が啼いた。

 光の訪れと共に、無数の羽を残して烏が散っていく。

 光が再び戻ったとき、処刑台の上には誰も、何もいなかった。

 銀月の少女も、紫の瞳の烏も。

 何一つ。

 

 これが、3年前のこと。烏と共に消えた少女は処刑されたことになり、断頭台は使われないまま解体された。

 そしてこの時、原初の二神の片割れたる闇の女神の肚からまた1つ、産み落とされたものがあった。

 月の神の眷族として産まれたそれの名はプリエール。祈りを司る使徒であった。

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