5章 祈る者の過去~救済~

「イシルーー! ちょっと来て!」

「どうしたーー?」

 大声での呼び声に負けず劣らずな大声で応え、イシルは孤児院の玄関へと走った。その服は、かつてラインが着ていたものと同じ、白く飾り気のない神官見習いのもの。始めよく踏んづけそうになった長い裾には慣れて久しい。

「お待たせ、ライン。何があったんだ?」

「この子・・・今日の奉仕活動で見付けて連れて帰って来たのだけど。」

「・・・うん。」

「力強いから手を貸してほしいなって。」

 ちなみにライン、現在黒天鵞絨くろびろうどの髪と瞳をした暴れまくる少年を押さえつけている。

「・・・あまりおれに、力仕事を期待しないでほしいんだけど。」

「でも私よりは力あるんじゃない? 身長だって私より高いんだし。」

「おれは戦闘訓練の類いは一切してないから、たぶんラインと替わった瞬間振りほどかれる。」

「・・・そう。じゃあ、しょうがないわね。」

「ところで、何で彼は暴れてるんだ?」

「いつものようにお風呂に入れてもらったりしようと思ったら、唐突に。理由は不明だわ。」

 なんとなく、理由が分かったような気がした。

「ライン、風呂はおれが入れるよ。君も、それでいいか?」

 腕と足の動きがどんどん小さくなっていき、終いには止まった。

 ラインが拘束を解き、少年に手を貸し立ち上がらせる。

「じゃあイシル、よろしくね。彼の名前はエヒトよ。」

「・・・よろしく。」

 少し下からイシルをねめつけるエヒトは、傷付いた狼のように見えた。

 2人で湯を浴び、髪を洗うための洗剤を渡す。一応洗い方は知っているようで、イシルが共に入る意味や如何にと首を傾げたくなった。

「・・・なあ、あんた。」

 聞き慣れないかすれた声は、きっとこの浴室にいるもう1人の人物のもの。

「なんだ?」

「なんで、分かったんだ。」

 著しく言葉が欠けていたけれど、イシルには分かった。自分でも分からないぐらい、ごく自然に。

「なんとなく、かな。大人に自分を任せるのが嫌なんじゃないのか、って思っただけだよ。この孤児院にいる他の子たちにもそういう子はいたからさ。」

 そしてその予想は当たっていた。エヒトの背中には、くっきりと肉色の軌跡が刻まれていたからだ。

「・・・あんた、名前、何て言うんだ。」

「イシル。イシル・ハーヴェイ。」

「わかった。覚えた。」

 浴室を出て、用意されていた服を身に纏ってエヒトの伸び放題の髪を切る。あまりにも綺麗な黒天鵞絨のそれは洗う前より輝いていて、切るのが少し勿体ないと思えるほどだ。

 短くなった髪を弄っているエヒトの背を押してラインのところに連れていくと、大人たちの壁の隙間から深い海原の青が見えた。

「ごめんね、ちょっと待ってて!」

 しょうがないから木陰のベンチに腰掛けて待っていると、待たせたお詫びにかよく冷えた果実水を持ったラインがやって来た。

「綺麗よ、エヒト。」

 そう言ってラインは微笑んだ。

 何故だかイシルはエヒトとラインに挟まれて、少々居心地が悪い。

「・・・なあ、ラインだっけ。あんたは何で俺を助けたんだ。他にも同じような奴らはいただろ?」

「私があなたを助けたのは、あなたが生きることを放棄しようとしているように見えたから。だから、私はあなたを助けたの。」

 ふうん、とエヒトは言って果実水を一口飲み、ぽつりと呟いた。

「ラインってさ、結構酷なことするよな。」

「そうかもしれないわね。」

 何も、言えなかった。それは確かにそうなのだ。

 ラインのしていることは死しかなかった未来に、新たな未来を与えること。

 イシルは知っている。エヒトも知っている。「生きること」とは眩しくも厳しい太陽のようなものであると。「生きること」を諦めることは、酷く楽なことなのだと。

「生きることは辛いこと。ええ、そうよ。知っているわ。それでも私は生きてほしいと思う。生きることが辛いことなのなら、生きることを辛くないようにしたいと思う。だから私は助けるの。イシルや、エヒトや、まだ見ぬ人たちを。」

 何故かエヒトは、両手を肩のところまで上げた。

「・・・降参。ラインは、すげーな。」

「どうもありがと、エヒト。」

 何だかよく分からなかったけど、エヒトとラインが打ち解けてよかった、と思うことにしたイシルだった。

 それから、半年が経過した。

 ラインは新たに猫を2匹拾ってきて、きちんと里親も見つけていた。

 イシルは光の神の神官見習いとして修行三昧。

 そして、エヒトは。

 焦っていた。

「エヒト・・・自分がどの道に進むかは大事なことだから、急いで決めなくてもいいのよ?」

「・・・いや、不味いだろ。一応成人までには決めないと。すでに色々出遅れてるしさ。」

 エヒトの推定年齢はイシルと同じぐらい。つまり、現在14歳程度と思われる。そしてこの国の成人年齢は、15歳。後1年ほどしかないのである。

 イシルが成人と同時に神官見習いから正式に神官となることが決まってから、よりその焦りは強まっていた。

「気分転換に、お買い物でも行ってきたら? 丁度おつかいをお願いされてるの。」

「・・・そうだな。行ってくる。」

「あ、おれも行くよ。」

「いってらっしゃい、エヒト、イシル。」

 大人たちからお金を受け取り、ラインに見送られて2人は孤児院を出る。交わす雑談は次第に先程の話へと戻っていった。

「・・・本当に、どうすればいいんだろうな。俺。」

「そればっかりはおれは何も言えないよ。でもエヒトは頭もいいし、大体何でも出来ると思うけどな。」

「・・・たぶん、神官にはならないと思う。」

「そんなことだろうと思ったよ。大体エヒト、あまり神を信じてないだろ?」

「・・・・・信じてないわけじゃないけど、結局俺は自分の力であいつから逃げてきて、自分の力で生きてきた。・・・まあ最後は諦めかけてラインに助けられたわけだけど・・・・・神が俺を助けてくれたとは思ってないだけだ。」

「ほら、やっぱり。」

「うるさいなっ、人並みには信じてるって言っただろ!」

「わかったわかった。」

「笑いながら言うなぁ!」

 ぎゃいぎゃいと、ラインがいないからこその乱暴などつき合いをしつつ2人は商店の立ち並ぶ一画に向かった。

「で、何が要るんだった?」

「えっと・・・縫い糸と小麦と、後はその他食品類かな。ああ、ワインも頼まれてる。」

「これ、元々ラインが頼まれてたんだよな・・・? 多すぎだろ、明らかに。」

「ははは・・・ライン、力持ちだからなぁ。」

「いやそのレベル越えてるだろこれ・・・・・・なぁ、二手に別れないか?」

「賛成。」

 2人は別れ、お互いに振り分けた買い物を果たすべく神官たちがよく使う、いわゆる御用達の店に入っていった。

 小麦を買い、縫い糸を買いワインを届けてもらうよう頼み、その他食料品を買い込んでいるとき、イシルは軽い衝撃を感じた。

「おい坊主、どこ見て歩いてんだ!?」

 どうやら誰かにぶつかったらしい。

「すみません。あまり周りを見ていなくて。」

 反射的に謝ると、自分を怒鳴りつけた男は何故かにやぁ、と笑った。

「謝るぐらいなら、物で示してくれよ。気持ちをさぁ。」

 ぐいと腕を引っ張られ、乱暴に小道に引き摺りこまれる。周りにはさっき男が浮かべたのと似たような笑みを顔に貼り付けた男たちが大勢でイシルを囲んでいた。

(なるほど。始めから仕組まれていたと。)

 ラインなら男たちの攻撃を上手く捌きつつ包囲を抜けることなら出来るだろうが、あいにく戦闘の類いは一切才能なしというお墨付きを頂いているイシルである。

(どうしよう。)

 お金を渡して穏便に済ませられるならその方がいい。だが簡単にお金を渡してしまえばイシルと同じ神官見習いたちがいいカモとして狙われてしまうかもしれない。

(やっぱりここは、助けを呼ぶのがベストか。)

 男たちに気付かれないように息を吸い込んで、まさに声を発そうとしたときだった。

 黙りこくったイシルに苛立ったのか、男の1人が拳を振りかざしたのだ。

 しまった、と思ったときにはもう遅く。右頬に衝撃を感じた次の瞬間には道に叩き付けられていた。

「う・・・」

「神官サマよぉ! お前らの仕事は俺ら貧乏人に施しを与えて下さることだろぉ!? 黙ってねぇでさっさと財布出せってんだよこのガキが!」

 とっさに顔を腕で庇うと、その腕に堅い靴がぶつかった。ずきんと痛みが走り、苦鳴が漏れる。

 次は無防備な腹だった。一回地面をバウンドして、壁に背中から叩きつけられた。激しく咳き込んでいると、追い打ちをかけるようにもう一撃。同じ場所だからか、さっきよりも酷く痛む。

「ぐ、は。げほっ、がほっ」

 脚。

「うぁっ」

 体。亀みたいに背中を丸めて、鳩尾を守る。

 その背中も、蹴られる。

「えぐっ、けほっがっ」

 次々に叩き込まれる靴や、拳。その数は到底1人分のそれだけではなかった。

「・・・・ぁ・・・ぅ」

 呼吸ができない。蹴られた腹が痛い。腕や脚がじくじく痛む。口の中が切れた靴が脱げた身体が動かない───

 ああ、死ぬな。

 ぽつりとそんな言葉が頭に浮かんで、意識が遠のいていく。

 身体が持ち上がる。ラインがいつも誉めてくれる自分の髪を掴まれて、持ち上げられているらしい。

「なあおい死んだか? 神官サマ? ・・・つーかよく見たらこいつ、結構綺麗な顔してんじゃねーか。」

「殴った後で気付くなよ・・・。」

「神官サマに大人の遊びを教えてやろうぜ?」

「お前も物好きだよなー。」

 てがたくさんのびてくる。うごけない、うごけない、うごけない。

「・・・れ、か」

 誰か、おれを助けて。

「イシル!」

 この半年の間にすっかり聞き慣れた声。

 その後ろでは、ばたばたと大勢の足音もする。

「チッ、おい逃げるぞ!」

「待てぇ!!」

 壁際に転がるイシルの前を騎士の物らしいブーツがたくさん駆け抜けていって。にわかに騒がしくなった小道は瞬く間に静かになった。

「イシル・・・・・!」

「えひと・・・?」

「大丈夫か!?」

「一応、何とかなる程度だ。」

「嘘つけ。自分だけじゃ起き上がれもしない癖に。」

 エヒトは何故、泣きそうに顔を歪めているのだろうか。イシルは彼に感謝しかないのに。

「ごめん、イシル。」

 その声は、少し震えていたように思う。

「ラインに、頼まれたんだ。イシルを守って、て。」

「でも、守れなかった。お前から離れなきゃよかった。・・・あんな提案、するんじゃなかった。」

 俯いて、エヒトは懺悔する。

「・・・折角、頼ってもらえたのに。失格だな、俺は。」

 俯いて、隠れた目元。そこからはとめどなく涙が溢れる。

「ごめん、イシル。本当に。」

 イシルの顔を見れない。俯いたその顔を、上げることが出来ない。怖くて、ただ怖くて。

 自分を生んだあの女の冷たい目や罵詈雑言、振り下ろされる鞭には耐えれた。何とも思っていなかったからだ。あの女はエヒトにとって、血の繋がりがあるだけの赤の他人にすぎなかった。

 だが、イシルは。ラインは。他の、共に暮らす子供たちは。エヒトを受け入れてくれたみんなは。

 エヒトにとって初めて出来た、家族だった。

 もしも失望されたとしたら。もう、笑いかけてくれなくなったとしたら。エヒトはきっと、もう立てない。

 それほどまでに大切なものに、彼らはなってしまったのだ。

「エヒト。」

 体が強張る。どんな言葉がかけられるのか、沙汰を待つ罪人の気持ちがわかったような気がした。

「ありがとう。」

「え」

 驚きのあまり、頭が持ち上がる。あんなに重く感じていたのが嘘みたいに、すんなりと。

「エヒトが来てくれたから、おれはまたラインに会える。エヒトが来てくれたから、おれはここでこうしてエヒトと話せる。」

 視界が滲む。世界の輪郭がぐにゃぐにゃと崩れていく。

「だから、ありがとう。エヒト。おれを助けに来てくれて。」

 その言葉は、何よりの救いだった。

 もう、耐えられなかった。

「う・・・・あぁ・・・・・。」

 背中をさする手の温かさ。それはより一層の涙を誘う。

 ふ、と心に1つ、意思が生まれた。

(騎士になろう。今度は守れるように。今度は泣かないために。)

 ぐしゃぐしゃの顔を乱暴に拭って、エヒトは奇妙に清々しく笑った。

「イシル、俺、決めた。」

「何をだ?」

「俺は、騎士になる。」

 イシルは、穏やかに微笑んだ。

「そうか・・・応援する。」

「ああ。ありがとう。」

 こつん、とどちらからともなく差し出した拳をぶつけた。

 片や全身傷だらけ。片や目を赤くして。傾いた日がそんな2人を祝福するかのように、光の欠片を投げかけていった。

 この出来事から1年後。

 イシルはラインから遅れること2年で光の神の神官となった。美しい金糸刺繍のそれは、彼のためにあるかのようによく似合った。

 さらにその半年後。

 エヒトは近衛騎士団の入団試験に合格、晴れて騎士となったのだった。

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