4章 救う者の過去
かつて、大陸の半ばを領土とする大きな国があった。そこはただ、「帝国」と呼ばれていた。
黒緑の石で作られた帝都は目を見張るほどの重厚さ。人々は意気揚々と街を行き、豪奢な馬車が通り過ぎる。その道端にくずおれる痩せぎすの親子など目にも止めずに。
その親子の虚ろな瞳に、眩い光が射し込んだ。
その光は、青年の形をしていて。
「・・・食べろ。」
置かれた何の変哲もないパンに親は恐る恐る手を伸ばし、胸元にかき抱く。
「ありがとう、ございます・・・勇者様。」
青年は頷きもせず、去っていった。
青年はたった今自分が施しを与えた親子の存在など忘れてしまったかのように、ただ歩いていく。
金の髪は光を弾いて美しく煌めき、澄んだ蒼穹の瞳は、如何なる物も映らない。
がらんどうという言葉は、この青年のこの瞳の為だけに存在するようだった。
かちゃかちゃと鳴る剣の柄を宥めるようにそっと撫で、青年は進む。ひたすらに、真っ直ぐに。
辿り着いたのは、そびえ立つ黒緑の壁。それは青年の姿を見て、ゆっくりと扉を開いた。
開いた扉の真ん中を威風堂々と歩く青年の耳に、門番の発した言葉が届く。
「お帰りなさいませ。我らが勇者、ウェルシオン様。」
「───ああ。」
ただそれだけの返答は、妙に時間がかかった。
重厚かつ華美な城内を通り抜け、謁見の間に向かう。理由は簡単だ。皇帝に、呼び出されているから。本当に、ただそれだけ。
勇者と呼ばれる彼の意志は、どこにもない。
「・・・ただ今帰りました。」
「うむ。竜王討伐、ご苦労であった。見せたいものがあるのでな。早く身体を休めるがよい。」
「は。」
「下がってよいぞ。」
「かしこまりました。」
謁見の間を出れば、すぐに横合いから何かが抱きついてくる。右腕を胸元に抱き込まれ、柔らかな何かを押し当てられる。
並みの男ならばそれだけで理性を蒸発させてしまいそうなその柔らかさも、彼にとってはただの情報の1つでしかない。
「ウェルシオン様、お帰りなさいませ! わたくし、貴方様のお帰りを首をながーくしてお待ちしておりましたのよ?」
ピンクと白の、レースでふんわりと膨らんだドレスを着た少女だった。小柄な割に胸は大きく、それを強く青年の腕に押し当てている。
するりとさりげなく手を絡め、甘えるように軽く腕を引っ張って上目遣いに見上げる。
空のような青い瞳は、何の景色も何の感情も映してはいなかった。
少女は少し剣呑に顔をしかめ、すぐそれ消してからより一層甘えるように、少し伸び上がって青年の耳に囁いた。
「ねえ、今日の夜もお部屋に行っていいでしょう?」
「・・・好きにするといい。」
「はい、ウェルシオン様。」
腕は、彼の部屋の前でやっと解放された。
贅沢に湯を張られた湯船に浸かり、青年はぼうと宙を見上げる。
誰も彼も、自分のことを勇者だと言う。だが、自分はそんなものではない、と思う。
「俺は。」
今も昔も変わらない。自分はただの、戦闘人形。
戦う。
それだけの機能しかない、ただの人形。
頭を軽く振って思考をリセットすると、次に浮かんできたのは皇帝の「見せたいもの」についてだった。
前に見せられたものは、珍しい宝石だったような気がする。精霊が宿っているもので、確かに美しくはあった。だがそれよりも、その精霊が酷く怒っていたことの方が印象に残っていた。
怒った精霊の話によれば、皇帝はこの宝石を持ち主から無理矢理奪ったらしい。
呆れ返って、こっそり精霊に力を貸して帰れるようにしてやった覚えがある。
珍しい宝石がなくなったことに皇帝は怒っていたが、その後すぐに遠征に出たのでその後は知らない。ただ、元々の持ち主に何か不利益があったという話は聞かなかったので、丸く収まったのだろう。
そうであると、信じたかった。
頭にぼんやりと霧がかり始め、のぼせかけているのに気付く。のろのろと出来の悪い
部屋に持ち込まれた食事を義務のように口に運ぶ。贅を尽くしたはずのそれに味はせず、何故か紙のような味がした。
ソファーに身体を投げ出し移ろう空を眺めていると、部屋の戸が叩かれる。返事を待たずに開いたそこには、薄い透ける夜着を着た少女がいる。
「ウェルシオン様・・・。」
媚びるような、甘く蕩けた瞳。いつの間にか昇った月に照らされた肌は、ぬめるように光る。
舌の上で転がしていた魔法薬をそっと飲み込み、ソファーの上からベッドの上に移動した。
しなだれかかる少女の身体を乱暴に押し倒し、軽く歯を立てる。少女の恍惚とした悲鳴が耳障りだ。
己の身体の下で悶える少女の裸体と痴態を、ウェルシオンは見下ろした。
冷め果て渇いた、その青い瞳で。
月明かりに照らされたその姿は、人ではない何か別のものに見えた。
◇ ◆ ◇ ◆
朝から皇帝に呼び出されたウェルシオンは、その背中を追って階段を降りていた。彼の生み出した光しかない暗く、長い階段である。
「・・・見せたいものとは、一体何なのですか。」
「ふ、ふ。もうすぐだ。もうすぐ着く。」
豪奢な毛皮の上着を着ているのにも関わらず妙に軽快な足取りで、皇帝は進む。ようやく見えた階段の終着点は、地下牢だった。
「ここだ。」との声に、指し示された牢を覗き込む。そこには、1人の少女が囚われていた。
顔の造形は、完璧。目も鼻も口も、あるべき場所に丁度良いサイズで納まったとしたら、こうなるだろうというほどに。
それなのに、その翠の瞳の中には一筋の光ですらも存在を許されてはいなかった。
圧倒的なまでの、無垢なる虚空。ただ1人の少女に見詰められることがこんなに恐ろしく感じたのは、初めてだった。
確かに畏ろしい。だが、何故なのだろう。こんなにも、惹かれてしまうのは。
一歩、近付く。錆の浮いた鉄格子に指を絡める。言葉が勝手に口をつく。
「君は・・・。」
少女は、その虚空にウェルシオンを捉えていた。
こてり、と幼い小鳥のように小首を傾げる。
どこか熱を持ったがらんどうと、不変の虚空が見つめ合う。
「どうだ、素晴らしいだろう。」
「・・・王よ。彼女は。」
「使徒だ。」
愕然とした。驚愕に見開いた瞳がそのまま、皇帝に向く。皇帝は、愉しげだった。
「まさか、のこのこやってくるとはな。世界を維持するなどと言われているが知ったことか。この世界はワシの物。神とて、手出しは赦さん!」
この男は己が欲の為に、神の眷属にも手を出したのだ。
「神の娘と言えども肉体的にはただの少女と変わりないではないか。現に、鎖に戒められ大人しく囚われておる。」
下卑た瞳が、少女を舐め回す。ウェルシオンは、初めてこの男に嫌悪感を覚えた。
こんな陰気な場所に居たら身体に黴が生えるわと身を翻した皇帝に着いて、地下牢から立ち去るその時。
ウェルシオンは何故か、少女がこちらを見ているような気がした。
皇帝の前から辞し、剣を振るその時でさえもあの虚空の瞳が意識から離れない。日が暮れたのに遅ばせながら気付いたウェルシオンは、水でも浴びるかと井戸に行く。
上を脱いで水を浴び、魔法で軽く水を飛ばしてから部屋に歩いている途中。水色ドレスの少女がまとわりついて来た。
「ウェルシオン様、今日はどちらにいらしたの? わたくし、一生懸命探したのにどこにもいらっしゃらなかったから、心配したんですのよ?」
腕を引き寄せ、それに頭をこつりとぶつけてくる。柔らかな金の巻き毛が腕に絡んで、不快だった。
「今朝は、王と一緒に居た。」
「お父様ったら、ウェルシオン様を独り占めして・・・ずるいっ!」
頬を膨らませるも、ウェルシオンに反応はない。彼の歩く速度に合わせて小走りをしつつ、少女は軽く彼の服の袖を引いた。
歩く速度が遅くなり、ウェルシオンの顔が少女の方を向く。
「寂しかったのですわ、ウェルシオン様。」
「そうか。」
「だから・・・今日もお部屋に行っていいでしょう?」
いつも好きにしろ、と言う彼は、少し間を開けてこう言った。
「・・・体調が、優れない。」
「まあ大変! 後で先生をお呼びしましょうか?」
「休めば治ると思う。必要ない。」
少女は盛んに囀り続け、ようやく彼の部屋の前で腕を解放した。
「では、ウェルシオン様。よくお休みになってくださいね。」
「・・・ああ。」
ウェルシオンが閉じていく扉の方を見ることはなかった。
剣を手入れし、側に立てかけ、いつものようにソファーに身体を横たえた。
頭を上げずとも窓の見える位置に置かれているから、落日が最後の光を投げかけていく様がよく見える。
(あの、使徒は・・・。)
この美しい空を眺めることすら出来ないのか。
焦がれるように、手を伸ばす。赤い光は、指の隙間からこぼれ落ちてしまう。
囚われた使徒たる少女に想いを馳せていたウェルシオンは、いつの間にか腕を枕に眠っていた。
意外にもあどけないその寝顔を見ていたのは、天に揺蕩う月だけだった。
翌日、変な所で寝たからか違和感を感じる身体を引き摺りウェルシオンは再び地下牢に降りていた。
赤茶けた鉄格子越しに、ただ無言で見つめ合う。そんなことが、何日も続いた。
言葉を交わすわけでもない。頬を染め合うわけでもない。ただ、見つめ合うだけ。
それがすっかり日常となった頃、ウェルシオンは皇帝の私室に呼び出された。
「何か御用でしょうか、王よ。」
「用、という程のものではない。珍しくお前が気に入っているあの小娘の処遇が決まったので、教えてやろうと思ってな。」
繊細な水晶硝子のワイングラスの中で、深紅の液体が揺れる。
絹のズボンに包まれた足は、殆ど裸の奴隷女の背に乗せられている。その足を叩き付けるように組み替え、苦鳴を背後に男は語る。
「研究所に送ることにした。」
世界の色が、変わった。金銀の瞬きや派手な赤色黄色は白黒に。灰色に。
男の持つワインの赤だけが、その色を保っていた。
「何、仮にも神の娘。ちょっとやそっとでは死なんだろう。それよりも、神の眷属どもは不老不死というではないか。是非ともその秘密を解き明かさせねばならぬ。」
男は何が気に入らなかったのか、フットレストにしていた奴隷女を蹴り飛ばし、テーブルの上に置かれていた華奢なナイフを片手で弄んだ。
「・・・お前、こちらに来い。」
獣のように四つん這いで足元に這い寄った奴隷女の首筋を、華奢なナイフが貫いた。
ごぶ、と醜く音がして、鮮赤色と暗赤色の血が混ざり合い、毛足の長い絨毯を染めていく。
ウェルシオンはそれを前にして、凍りついた彫像のように立ち尽くしていた。
不意にその顔が歪んだ。
口角が吊り上がり、美しい三日月を
皇帝はそれに気付かない。
「・・・ふん、この忌々しい奴隷風情が。このワシを苛立たせおって・・・次だ! 次を持ってこい!!」
血濡れた手を侍従に拭かせ、そしてようやく皇帝はウェルシオンに意識を戻した。
「・・・む? 何を笑っておる、勇者よ。そんなにこれが面白かったか?」
「いえ。ようやく気付いただけです。」
「何にだ。」
「はじめから、こうしていればよかったんだ、と。」
◇ ◆ ◇ ◆
地下の、牢の中。
湿ったそこで、少女は鎖に戒められていた。
突然その場所に、周囲を喰らう闇色のひかりが現れた。
「・・・?」
それが何かを訴えかけたらしい。少女は一度目を閉じて、目を開ける。
それだけのことで、『終焉』の力は発揮された。
ぼろりと鎖と、おまけに鉄格子までもが脆く崩れ去る。
「行きましょう。」
その声に反応して、宙に浮かぶ闇色のひかりは少女を先導するように移動し始めた。
ぺたぺたと、白皮のサンダルで黒緑の廊下を歩いていく。
彼女を目撃した城の人々は何故か少女に手が出せず、ただその歩みを見送るのみ。たまに少女を止めようとした者は、少女に触れたその瞬間に塵と化す。
少女はただただ歩き、とある扉を開いた。
「私は、終焉の使徒エンド。裁定の使徒たるジャッジメントお姉様の下された裁きを受けてここに来た。」
答える者はいない。
「試練の使徒たるオーディアルお姉様の下した試練は、この国の至尊の地位にある貴方たちには届かなかったから、新たな罰が下された。」
やはり、答える者はいない。
「終焉の使徒たるこのエンドが、驕れる者どもに終焉をもたらす。はずだったのに。」
「必要なかったみたい。」
そこには、1人の青年が背を向けて立っていた。彼の周りには、3つの死体が転がっている。それらは全て、一刀のもとにその命を奪われていた。
「邪魔をして、申し訳ない。」
青年が振り向く。その顔は穏やかに微笑んでいて、頬には一筋赤く返り血が飛んでいる。
「ようやく気付いたんだ。はじめから、こうしていればよかったんだ、と。俺は人形であることに胡座をかき、勇者の義務を忘れていた。」
右手には、無骨な剣。使い込まれたそれは、赤く血に濡れていた。
「そう。貴方は光を捨ててでも、他の人々の幸せを優先させるの?」
「そんな御大層なものじゃない。・・・俺は、滅ぼすべきものを間違えていた。それに気付けたから、それを滅ぼした。それが、償いの第一歩だろう。」
大きな窓から射し込む日の光が、場違いに2人を照らす。ウェルシオンは、眩しそうにそれを見つめた。
無言のままにエンドがその手を祈りの形に組み合わせるのと、ウェルシオンの手から剣が滑り落ち、床に深々と突き刺さるのは同時だった。
「終焉の使徒エンドが下す。傲慢なる者どもに、相応しき
崩壊は、速やかだった。エンドを中心に放たれた不可視の力は帝国全土にあまねく広がり、触れたものに次々と滅びをもたらして行く。
黒緑の都は儚く崩れ去り、後には呆然と立ち尽くす僅かな人々だけが残る。
城のあった場所には、2人と1つの影が佇んでいた。
1人は黒髪に、翠の瞳の少女。もう1人は意識をなくして倒れ伏す、金髪の青年。その側には忠実な剣が床に突き刺さっていたときと同じ様子で大地に刺さっていた。
エンドはウェルシオンに手を伸ばし、その背に触れる。唐突に吹き荒れた風の巻き上げた砂が消える頃にはもう、そこには何者もいなかった。
かつて、大陸の半ばを領土とする大きな国があった。そこはただ、「帝国」と呼ばれていた。そこには光の力を授けられた勇者がおり、人々を魔物たちから守っていた。
ある日、一夜にして帝国が滅びたその後、彼の姿は見えなくなった。
帝国が滅びたその時、原初の二神の片割れたる闇の女神。あらゆるものを産み出したその肚の中からまた1つ、産まれたものがいた。
光の神の眷属として産まれたそれの名はセイヴ。救済を司る使徒であった。
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