第73話 先の話は決まっていないから

 レオンがあまりにも不安そうな顔をしていたので、私は更なる笑いは堪えながら、婚約誓約書にサインをした。こんなに気軽にサインしていいものかとは思ったが、ほっとしたレオンの顔を見られたから、きっとまあいいのだろう。


 婚約誓約書は、再びナッシュが預かることとなった。ウルカーンの王城で厳重に保管されることになるそうで、次に拝めるのは婚姻の時だとか。


 このままいくと、私はいずれはウルカーン王国の次期王妃となってしまう訳だが、こんなに自由でのんびりとした王子が育った国だ。きっと、なんとかなるだろう。というか、レオンって本当に王子なのだろうか? まだまだ疑わしいなと思ってレオンのほっぺをつねろうと手を伸ばしたら、手を掴まれて手のひらにキスされてしまった。……うん。


 私達が王の間から出ると、そこにはエミリの兄だという見張りの兵に連れられたエミリが立っていた。


「エミリ!」

「ナタ様あああっ!」


 首に巻かれた包帯が痛々しい。イシスの王家のメンバーと宰相に元老院のメンバーである父は、王の間に残って今後の打ち合わせを行なうことになったので、私と共に外に出たのはレオン、ホルガーにナッシュだけだ。次回会合を国王と取り付けはしたが、レオンは仰々ぎょうぎょうしいのは嫌いだと見送りを拒否した。この辺りも、実にレオンらしいな、と私は好感が持てた。若干贔屓目ひいきめに見てしまっているかもしれないが。


 駆け寄ろうとしていたエミリが、私の後ろをビクビクしながら見て立ち止まったのは、きっとアルフレッドを恐れてのことだろう。だから私の方からエミリに駆け寄り、エミリに抱きついた。


「エミリ、怖かったでしょう……! もう大丈夫だから、安心して頂戴!」

「え!?  では、ホルガー様ととうとう……!?」


 エミリが期待に満ちた目で、私とホルガーを交互に見る。すると、レオンがツカツカとやってくると、私の頭を引き寄せ自分の頬を付けた。


「ホルガーじゃない、俺だ」


 エミリは、突然王の間から現れた見知らぬ黒髪の他国の軍服を着た男を、不審げに見上げた。


「ナタ様、こちらの方は一体?」

「あ、あのねエミリ、この人はレオンといって」

「レオン……?」


 ホルガー推しだったエミリにとって、私がホルガー以外の男を選択するという可能性は考えていなかったらしい。私の腕を引っ張ると、自分の方に手繰り寄せようとした。


「ナタ様のお話からは一度も聞かなかったお名前ですが」


 ツンと澄ましたエミリがそう言うと、レオンが慌てて私に尋ねてきた。


「おいナタ、どういうことだ? お前、もしかして俺と会いたいと思ってなかったのか?」


 焦り具合がレオンにしては珍しくて、私はおかしくなって笑ってしまった。


「いやね、ちゃんと思ったわよ。エミリの黒髪を見る度に、レオンを思い出したわ。でも、口に出したら泣いちゃいそうだったから」


 すると、エミリがハッとして自分の髪に手を触れた。じわりと目に涙を浮かばせると、私の手を握る。


「ナタ様……そうだったんですね。このエミリ、そんなことはちっとも気付かず……っ」


 そりゃ、言われなきゃ分からないだろう。この子は本当に気の優しい子だ。私はほっこりしたところで、レオンの紹介の続きをすることにした。


「エミリ、レオンはね、ウルカーン王国の王太子で」


 私が続けようとすると、レオンが食い気味に言った。


「たった今さっきナタと婚約した男だ!」

「え? 王太子? こ、婚約? ではホルガー様は……?」


 エミリが、信じられないといった表情で少し離れたところに立っているホルガーの方を見る。すると、ホルガーが腕組みをしながらレオンを見つめた。


「……まだ、結婚した訳じゃないよな」


 ボソリと言ったホルガーの言葉に、レオンの目がすっと細められる。


「――ほう?」


 それに対し、ホルガーは挑戦的な目つきで続けた。


「なりふり構わず利用しろと言ったのはレオンだったから利用させてもらったけど、いきなり他国に赴いて人付き合いが得意じゃないナタがうまくやっていけるかというと、正直俺は疑わしいと思う」

「――なんだって?」

「ちょ、ちょっと二人とも?」


 折角のエミリとの再会ハッピーモードが、ホルガーとレオンの初期の頃の様な雰囲気に逆戻りしているではないか。


「それに、マヨネーズ作りはまだこれからが本番だろう?」


 ホルガーが、今度は私を見ながら尋ねた。確かにそれはそうだ。


「マヨネーズ工房を立ち上げたいのよね! そして色んな味のマヨネーズを作って、いずれはマヨネーズ界の女王になりたい!」

「――ほら、だってさ」


 ホルガーが、にこやかな笑みを浮かべながらレオンに言う。レオンはぽかんとしてそれを聞いていたが、やがて挑むような笑顔になると、私の肩を抱き寄せた。


「言っておくが、俺だって手に入れた以上もう離す気はないぞ」

「そんなの、実際に結婚するまでは分からないじゃないか。なんせ前例があるからな」


 前例。確かに、私はすでに一度アルフレッドと婚約破棄をしている。出来れば二度目はないに越したことはないが。そんなことまで気にするとは、ホルガーはやはり過保護だ。


「ということで、俺もナタと一緒にウルカーンに行くから!」


 ホルガーが、にこにこと私に笑いかける。


「え、でも、ホルガーは跡継ぎでしょ? 国を離れちゃまずいんじゃ」

「なに、ウルカーンは大国だからね、領地経営に必要なことが学べると思うんだ。期間限定なら、父さんも許してくれるだろうし」


 先程まで少し落ち込んでいた様に見えたホルガーは、今やすっかり普段のホルガーに戻っている。私がアルフレッドから解放されて、ホッとしたのだろう。本当に心優しい従兄弟だ。


 なので、私はホルガーのやる気を応援することに決めた。


「そうね! 色々大国のことを学べれば、スチュワート家の領地ももっとうるおうに違いないものね! 私、ホルガーを全面的に支持するわ!」


 すると、このやり取りを一所懸命聞いていたエミリが、勢いよく挙手した。


「はい! 私も行きます! 行かせていただきます! ナタ様について行きます! 行かせて下さい!」


 そして、その勢いのまま私に抱きついてきた。綺麗な黄銅色の瞳を輝かせ、懇願こんがんする様にささやく。


「ナタ様……貴女様の傍にいたいのです……!」

「エミリ……! いいの?」

「勿論です!」


 エミリは、数少ない私を理解してくれる心優しい女性だ。そんな彼女が一緒にウルカーンに行ってくれるなら、これ程心強いことはないだろう。


 すると、ホルガーがにこにことエミリに話しかけた。


「よし、そうと決まれば早速手続きだ! 大丈夫、俺が掛け合ってこれまでの賃金もしっかり交渉してみせるから、えーと」

「エミリです、ホルガー様」

「エミリだね、荷物を今日中にまとめて、ナタの家に移動だ!」

「はい! ホルガー様!」


 ご機嫌な二人は、「あとでナタの家で!」と言うと、給金交渉をしに行ってしまった。


 それを眺めていたナッシュが、これまた楽しそうに笑う。


「あーあ。いいんですか? レオン様」


 それに対し、レオンも笑顔で返した。


「ま、いいんじゃないか? 俺達はマヨネーズ研究の同志だしな」

「強気なことで。……まあいいや、そうしたら僕は馬車の手配をしてきますので、こちらでお待ち下さい」

「ああ、頼んだ」


 やはりどう考えても、ナッシュがやっているのは禁軍将軍のやることではない。待遇改善は、確かに必要なのかもしれなかった。


 閉じられた王の間の前で、私達は二人きりになってしまいしばし無言になる。その沈黙に耐えられず、私は前から疑問に思っていたことをレオンに尋ねることにした。


「そ、そういえば、なんでレオンはアルフレッドの生誕祭の後も国に戻らないでシラウスの街にいたの?」


 私の質問に、レオンがポリポリと指でこめかみを掻く。


「いや……俺も婚約破棄をしただろう?」

「そういやそうだったわね」

「そういやって……まあいい。で、国にいると次から次へと見合い話がやってくるんだが、大人しい癖に気位の高い令嬢にどうしても惹かれなくてな」


 まあ、面白いからとマヨネーズ研究に名乗りを上げる位だ、レオン自体が変わり者ともいえる。普通の令嬢では、レオンの相手は務まらないだろう。


 なんせ、初対面の私を酒樽の様に運んだ男である。令嬢を肩に担ぐこと自体が、普通はあり得ない。


 レオンは、淡々と続ける。


「アルフレッドの生誕祭を口実に、暫く遊学すると言って帰国を先延ばしにしてたんだ」

「禁軍将軍を連れて?」


 私が目だけ笑いながらそう尋ねると、レオンも目だけで笑い返した。


「よく気付いたな。そう、禁軍将軍を連れてだ。あいつも軍部のあれこれに嫌気が差してたみたいだから、とても協力的だったぞ」


 ナッシュは若い。若いのに頂点に近いところに立つのだから、周りの反発も多いのだろう。


「じゃあ、私とレオンは本当に偶然に知り合うことが出来たのね」


 この奇跡に純粋に驚いていると。


 レオンが、私の耳に口を近付け、怒っている様な照れている様ないつものあの顔になった。


「ナタ、俺のことはまあいいんだ。それより俺は気になっていることがあってだな」

「気になってること? 何よ」


 レオンの頬が、赤くなってきている。どうしたのだろうか。


「お前が言わないから、俺はまだ不安なんだ」

「へ?」


 また間抜けな声が出た。どうも私は、レオンの前だと素の自分になってしまうらしい。


 レオンが、私の両肩に手を置く。ひたすら青い瞳が、切なそうにきらめいた。


「俺は、ナタが好きだ。だけど、ナタはどうなんだ? 俺のことを、好きでいてくれてるんだろうか?」

「あ……っ」

「あってなんだ、あって」

「そうか、そうよね、別にレオンには言ったって構わなかったのよね」

「?」


 私はひとり、すとんと腑に落ちる感覚を味わっていた。


 そうだ、アルフレッドの時とは違い、私はもう自分の感情を言っても良かったのだ。ここはもう、決められた未来が待ち受けている小説の世界ではないのだから。


 もう、この先の話は何も決まっていない。これからは、私は自分で道を切り開いていくのだから。


 レオンと一緒に。


「ナタ?」


 訳が分からないのだろう、レオンの瞳が泣きそうな子供の様に揺れ動く。


 愛しさが、溢れた。


「レオン、好きよ」

「――え?」


 レオンが、理解が出来なかったのか、問い返す。


 全く、これを問い返すのか? 呆れもしたが、これがレオンらしくもある。


 私は笑いながらレオンの頬を手で挟むと、驚いた表情のレオンの顔を引っ張り寄せた。


「好きって言ったのよ、今度はちゃんと聞こえた?」


 キョトンとしていたレオンの顔に、少しずつ笑みが浮かび。


「ああ、聞こえた」


 レオンは私の肩を抱き寄せると、もうどこにも逃がさないとばかりに、私をきつくきつく抱き締めたのだった。

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悪役令嬢ですが私のことは放っておいて下さい、私が欲しいのはマヨネーズどっぷりの料理なんですから ミドリ @M_I_D_O_R_I

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