走れ警吏

@nickbalbossa

走れ警吏

警吏は激怒した。必ず、メロスを止めねばならぬと決意した。


警吏には政治がわからぬ。シラクスの市の治安を維持する警吏として、ただ信順単一に勤めを果たすことが自分の使命だと考えていた。

それゆえ不正には人一倍に敏感であった。どんな小さな罪でも見逃さぬ代わり、千金の賄賂を積まれようともそれを受け取らない、純然たる法の執行者であった。

このところ王命により多くの者たちを捕らえたが、それが自分の仕事だと強く信じていた。


ある日王城の巡邏に当たってると、買い物袋を背負った普段着の男がウロウロしていた。どう見ても不審者である。

すぐさま尋問すると、男は名をメロスと名乗った。王の暴虐邪智が許せぬので、これから王に会いに行くと言う。

こういう手合いは年に数人は現れる。とりわけ春先に多いのだが、大抵は狂人であるので、話を適当に受け流しながら近衛兵団に身柄を任せるのが常だった。


騒ぎを聞きつけて近衛兵団がやってくると、その場で身体検査が始まった。

このメロスという男は不幸にも短剣を持っていたため、その場で捕縛されてどこかへ連れて行かれた。

王は叛逆を許さぬ方なので、恐らくは刑に処されるだろう。

だが、それは警吏には関係のないことであった。警吏の職務は治安を維持することにある。法を犯す者には武力行使も辞さないが、刑を判断するのは我々の仕事ではない。

警吏は近衛兵団への身柄引き渡し書類にサインすると、持ち場へと戻った。


明くる日に人伝に聞いた話では、あのメロスという男は、なんと条件付きで保釈になったそうだった。

身代わりとしてメロスの親友が捕縛され、メロスが三日以内に帰って来ない場合はその男が処刑されることになるらしい。

あの男、なんとも上手くやったものだと警吏は思った。

王の性格上、そうでもしなければその場で首を刎ねられていたに違いない。

身代わりの親友とやらには気の毒だが、誰だって自分の命は惜しいものだ。

あの男はきっと帰ってこないに違いない。


王のこのところの疑心暗鬼には、警吏も思うところがない訳ではなかった。

しかし、それは警吏の職務とは関係のないことだとも理解していた。

王の治めるシラクスで警吏として王に遣える以上、王は法であり、法は絶対である。

警吏は法を末端まで行き渡らせるための駒であり、駒であろうとなんであろうと警吏の勤めを果たすことが自分の使命だと理解していた。

警吏は決して楽な仕事ではない。日常のあらゆる雑務に追われるうち、警吏はメロスのことをすっかり忘れてしまっていた。


二日後、警吏はシラクスを囲む城壁の門番として職務に当たっていた。

昨日の大雨で常勤の者が風邪をこじらしたので、臨時の門番として城門に立つことになったのだった。

夕方、そろそろ城門を閉めようかという時に、遠くの方から一直線にこちらに走ってくる者がいた。尋常ならぬ速さである。どうにも様子がおかしい。

その者が近づいてくるにつれ、警吏はそれが三日前に保釈されたメロスだということに気がついた。本当に帰って来やがった。警吏は驚いた。

警吏をさらに驚かせたのは、その異様な風態だった。

髪を振り乱し、目を血走らせながら、口からは血を流している。日に焼けた体は傷だらけで、血と汗と埃により異様な色となっていた。

何よりメロスは全裸だった。正確にいうと腰布の切れ端のようなものがぶら下がってはいたが、ほぼなんの役目も果たしていなかった。

メロスのイチモツは大地を蹴る振動に揺れに揺れ、夕日に照らされて黒光りしていた。

全力疾走する異常な風態の全裸男性メロスは、今まさにシラクスの市に入らんとしていた。


事情はわからぬでもない。一刻の猶予のない状況もよくわかる。

しかし、ここから王のいる刑場まで行くには、シラクスの市を真っ直ぐに抜けなければならない。この時間帯、買い物帰りの親子や若い娘衆も多くいることだろう。

その只中に、この異常全裸男性を放てば、どうなるかは目に見えている。

どうしてもあの男を止めねばならぬ。振り乱すイチモツを隠す何か履かせねばならぬ。


メロスはあっという間に目と鼻の先まで走って来た。

警吏は叫んだ。

「そこの者!止まれ!その格好の者を入れる訳にはいかぬ!」

しかしメロスは止まらなかった。それどころか警吏を王の手先と勘違いした。

「おのれ王め!ここまでして私を邪魔したいか!許さん!」

メロスはそう返して、足を止めぬまま警吏を力いっぱい体当たりした。

加速度のついたメロスに、警吏は軽々と跳ね飛ばされた。

メロスがひっくり返った警吏を飛び越えていったため、メロスのイチモツが警吏の右頬にぺチッと当たった。


跳ね飛ばされた警吏は激怒した。必ずメロスを、あの異常全裸男性を止めねばならぬと決意した。

止めて、なんとかして下を履かさねばならぬ。

これは警吏としての使命感もあったが、メロスのイチモツで顔を叩かれた屈辱感もあった。実際、メロスのイチモツは警吏のそれよりずっと大きかったのだ。


あの男に今すぐ何か履かせねばならない。しかし、今警吏が男に与えられるのは、自分の着ているものしかない。

一瞬の思考のあと、警吏は急いで腰巻きを外して走り出した。

警吏はパンツ一丁になったが、気にはしなかった。

あの異常全裸男性のイチモツを隠し、市中の治安を維持できるのならば、自分が恥ずかしいことなど物の数に入らなかった。

警吏は自分の腰巻きを片手に、黒い風のように走った。パンイチで。

メロスはとんでもなく速かったが、警吏はそれよりも速く走った。

既に前方からメロスを目撃した人々からの悲鳴が聞こえている。そら夕方家路に着くときにあれに出くわしたら誰だってそうなる。

警吏は息を切らしながら叫んだ「メロスよ!止まれ!邪魔はせぬ、ただこれを履くだけでいい!」

メロスは答えた「ならぬ!今は一刻の猶予もない!」

警吏は返した「腰巻きをつけるだけだ!二秒!二秒くれ!俺も手伝う!」

メロスはまたも「ならぬ!今やその猶予もない!」と答えた。


こうなっては埒が明かない。

既に二人はシラクスの最も繁華な場所にさしかかっており、全裸男性と腰巻きを手にしたパンイチ中年警吏の異常なチェイスは市中をパニックに陥れていた。

面白がった野次馬も後ろからいっぱい付いて来ている。

このまま刑場に突入すれば、騒ぎはさらに大きくなるに違いない。

警吏は最後の力を振り絞ってメロスに追いつき、その前に立ちはだかった。


警吏は腰巻きを振りかざして言った。

「履けえええええええぇーーーー!」

メロスは答えた。

「どけえええええええぇーーーー!!!」


その瞬間、メロスは跳んだ。

走り幅跳びの容量で、立ちはだかる警吏を飛び越えたのだ。

メロスの身体が警吏の頭上を超えるその刹那、メロスのイチモツが警吏の下顎にクリーンヒットした。

その衝撃は脊椎まで届き、警吏はその場に膝から崩れ落ちた。パンイチで。


警吏が目を覚ました時、既に日は落ちきっていた。

刑場に行くと群衆から歓声が起こっており、どうやら全てが丸く収まった様子だった。

群衆をかき分けて中に進むと、刑場の中央で全裸のメロス、半裸のメロスの親友、そして国王が三人で抱き合っていた。

警吏には、状況が全く理解できない。群衆は「「万歳、王様万歳。」」歓声を上げている。怖い。

隣の人に聞くと、メロスはギリギリで間に合ったので、親友は解放された。

何か話した後に一発ずつ殴り合ったあと、お互いを抱擁しあった後に王がそれに加わったらしい。

警吏には余計に意味がわからないし、誰もあいつらの格好に疑問を抱かないことが異様に感じた。


しばらくの抱擁と歓声ののち、一人の少女が気を利かせて緋のマントを差し出した。

メロスは自分が全裸なのに気づき、ひどく赤面している様子だった。

自分の差し出した腰巻きを着ていれば、赤面することも無かっただろう。

警吏がそう考えた瞬間、警吏自身もパンイチだったことを思い出した。警吏もひどく赤面しながら腰巻きを履いた。


群衆はそれを見届けたのちに散り散りと解散になり、警吏も気だるい疲労とともに家路に着いた。

家に帰ると既に食事の準備が出来ていたが、娘の姿が見えない。

「妻よ、クロエはどこに行ったんだ?」

「あんたとご飯食べたくないってさ。今日街中で腰巻き片手にパンツ一丁でぶっ倒れてたらしいじゃない、全く恥ずかしい…」

妻は冷たく答えた。

しまった、見られていた。ただでさえ多感な時期で、最近はろくに口を聞いてくれない娘だ。おそらく向こう一ヶ月は目も合わせてくれないだろう…。

「汚いから先に身体を流してきておくれな」

「そうするよ」


身体を流しながら、警吏は散々な一日のことを思い出した。

全く報われぬ、徒労ばかりだった。いらぬ使命感を抱かなければ、娘に嫌われることも、妻に冷たくあしらわれることもなかっただろう。

「それでも俺は、俺の勤めを立派に果たしたんだ」

警吏はひとり心地そう呟きながら鏡を見た。

警吏の顔は、メロスのイチモツが当たった右頬と下顎が赤く腫れ上がっていた。

警吏はまたひどく赤面した。

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