206話目 アイドルのライブ

 今日は檸檬さんが用事あるから、美容院の手伝いがない。


 最近、惰眠を貪ることができていないな。


 まだ、8時過ぎ。


 もう1時間ぐらい寝ようと思い目を瞑る。


 もう少しで眠れそうな所で、下から足音が聞こえてきた。


 愛と純がきたのだろう。


 睡眠欲より幼馴染欲の方が強い。


 ベッドから下りてリビングに向かった。


「準備はできているかしら?」


 リビングに入ると、母がそう聞いてきた。


「準備って何のこと?」

「昴のライブの関係者席に空きができたから、こうちゃん達を招待するわ。昴から連絡きてないかしら?」

「きてないよ」


 あの子に頼むんじゃなかったわと、ぼやいた母は部屋を出て行った。


 数分しても戻ってこないから、母に連絡するけど電話にでない。


「らぶも行くの‼ 絶対に昴のライブに行くの‼」


 愛と純に昴のライブのことを伝えに行くことにして外に出ると、愛の叫び声が聞こえた。


 急いで愛の家に行く。


 玄関のドアにしがみついている愛を、琴絵さんが引っ張っていた。


「熱が39度もあるから、部屋で寝てなさい!」

「熱が下がるように大きな注射してもいいから行くの‼」


 2人を見ている母が、「駄々をこねるらぶちゃん可愛いわね」と口にした。


 それには同意だけど、いるならこの状況をどうにかしてほしい。


 愛の隣に行き、腰を下ろす。


「無理したら今より体調が悪くなるから、昴のライブはまた今度行こう」

「今日行きたいの‼ 今日がいい、ゴホッゴホッ、の‼」


 咳き込む愛の背中をさする。


「僕も昴のライブに行かないから、一緒に留守番をしよう」

「……こうちゃんはじゅんちゃんといっしょに昴のライブに行って……。らぶは大人しく家で待っているからおみやげ買ってきてね!」


 しゅんとしながらも引きつった笑顔を作る愛に、分かったと答えることしかできなかった。


 昴のライブのことを伝えに純の家に向かう。


 純の部屋に入ると、純はイヤホンで音楽を聴いていて僕に気づき外す。


 昴のライブのことと、愛は熱が出ていけないことを説明する。


 純は愛の看病をするから行かないと答える。


 予想通りの反応に、愛が僕達のお土産を楽しみにしていると話すが純は引かない。


「こうちゃんはらぶちゃんを残して、昴のライブを楽しめる?」


 純のその言葉で、体に衝撃が走る。


 楽しいは何をするかではなくて、誰とするかが重要。


 その誰かは愛と純で、その2人がいないと始まらない。


「じゅんちゃんの言う通りだよ! ごめん! 僕が間違っていたよ!」

「謝らなくていい。今から2人でらぶちゃんの看病しよう」


 愛の部屋に行き、ベッドで寝ている愛にそのことを伝える。


 ゆっくりと立ち上がる愛。


「2人がライブに行かないのは駄目! こうちゃんとじゅんちゃんがどうしても行かないって言うなら、らぶも……」


 喋っている途中で力尽きたのか、ベッドの上にうつ伏せで倒れ込む。


「……一緒に行くから、こうちゃんとじゅんちゃんも一緒に行こう」


 顔を上げて這いながら、僕達の方に向かってくる。


「お土産買ってくるから、らぶちゃんは寝ていて」

「ありがとう……」


 純の言葉を聞いた愛は安堵したような表情を浮かべて、ゆっくりとベッドに戻る。


 純は昴の歌が好き。


 愛はそのことを知っているから、無理をしたのだろう。


「らぶちゃん、ありがとう」

「……お姉さんだから、当たり前、だよ……」


 僕にそう答えた愛は目を瞑って、寝息を立て始めた。



★★★



 目的地の東京のドームに着いた時間は、18時を過ぎている。


 周りの建物の明かりが強くて、夜になっている気があまりしない。


 人が多いから男が純に当たらないように警戒しながら、ドームの中に入る。


 母の後ろをついて行くと、ドアの右側に昴さま控室と書かれた部屋に着く。


 ノックをした母がドアを開く。


 ピンクで全体的にヒラヒラした煌びやかな衣装を着た昴が母に抱き着く。


「衣装が崩れるから暴れないの」

「普段着だったら抱き着いていいんですか?」

「いいけど、こんなおばさんに抱き着いて何が楽しいの?」

「楽しいから抱き着いているんじゃなくて……好きだから、社長が……好きだから抱き着いています」


 本気で恋する目をした昴がはにかむ。


「わたしも昴さんのこと好きよ」

「……本当ですか?」

「娘のようで大切に思っているわ」

「……」


 顔を引きつらせて数分固まった昴は、僕の所にきて深々と頭を下げる。


「社長を、三実さんをボクだけの母親にしていいかな?」

「いいよ」


 間髪を入れずにそう答える。


 母は僕の肩を強く摑んで揺らす。


「わたしはこうちゃんの母親をやめる気は絶対にないからね!」

「冗談だから」

「こうちゃんはらぶちゃんとじゅんちゃんのこと以外興味なさそうだから、本気に聞こえるから心臓に悪い冗談はやめて!」


 ドアが開く音がする。


 素早く僕の肩から手を離した母は、出入口の方に体を向ける。


「三実さん。音響の人が聞きたいことがあるって、呼んでいましたよ」

「ありがとう剣さん。ステージの方に行けばいい?」

「はい。そうです。昴も一緒にきてほしいって言っていました」

「ありがとうね。すぐに戻ってくるから、こうちゃんとじゅんちゃんはここで待っていてね。行くわよ、昴さん」


 母と昴は足早で部屋から出て行く。


「きてくれてありがとうございます」

 軽く頭を下げる剣。

「感謝するのは僕達の方だよ。昴のライブに呼んでくれてありがとう」

「ありがとう」


 僕に少し遅れて純がそう言った。


 剣は左右を見てから聞いてくる。


「矢追さんはトイレですか?」


 純の眉間に皺が寄り、それを見た剣は深々と頭を下げる。


「余計なことを言いましたか?」

「らぶちゃんは体調を崩してこられていないよ」

「そうなんですね。もしよかったら、今日の昴のライブはネットで生放送するので、矢追さんに教えてあげてください」

「予約はいらない?」

「必要です。三実さんに特別に見ることができるか聞いてきます」


 慌てながら部屋を出て行った剣は1分も経たずに戻ってきた。


 母の許可が得られから、剣から愛に電話してもらってネットで昴のライブを見る方法を説明してもらった。


 電話から漏れる愛の声は元気そうで安心した。


 少しして、難しそうな顔をした母がやってきて、机に置いているスマホを手にする。


「今日の昴のライブで踊るバックダンサーが怪我をしたから、代わりに出られないかしら? そう、いいえ、こちらこそ急に言ってごめんなさいね」


 数10件ぐらい電話した母は、溜息をしながら椅子に座る。


「全員が出る3曲目と5曲目以外はどうにかなる。知っている人には全員電話かけたから、バックダンサーを減らすしかないわね。でも、そうしたら、立ち位置を変えないと1か所だけが空いているように見えるわ。全体の立ち位置を変えるのはリスクが高いし」


 独り言のように母は呟いている。


 剣はそんな母を心配そうに見てから、純に視線を向けて口を開く。


「小泉さん、踊りは得意かな?」

「それだわ!」


 母は椅子から跳びあがって、純に駆け寄る。


「純ちゃん、この動画見てもらっていい?」


 純の返事を待たずに、スマホで動画をかけだす母。


「1番身長の高い女性の踊りに注目してほしいわ」

「おう」


 5分ぐらいの8人が踊っている動画を2つかけた。


「じゅんちゃん、今見た踊りってできる?」

「……おう」

「昴のライブで踊ってもらっていい?」

「……おう」

「ありがとう。今からリハーサルだから行くわよ」


 控えめに返事した純の手を摑んで、母は部屋を出て行く。


 急なことだったけど、なんとなく状況は分かった。


 怪我をしたバックダンサーの代わりを純がする……純が晴れ舞台で踊るだと⁉


 急いで愛に連絡をしないといけない。


 そのことを愛に伝えると、「やった――――――――――――‼」と劈く声がスマホから聞こえてきた。


 純がどんな風に練習しているか気になった。


 剣に頼んでリハーサルを見ることにした。


 剣に案内されて1番前の真ん中の客席に行く。


 ステージの上で、昴の後ろで踊っている純がいた。


 純は自分以外の7人の女性と息を合わせて、全く遅れることなく踊れている。


 動画を少し見ただけであそこまで踊れるのは、やっぱり純は天才だな!


 ステージにいた人達がハケていく。


「もう少ししたら、ライブが始まります。昴の着替えを手伝うので行きますね」


 隣にいた剣は足早に去って行き、母がやってきた。


「2時間ぐらい立って見ることになるけど大丈夫かしら?」

「じゅんちゃんのダンスを見られるなら、何時間でも立っていられるよ」

「じゅんちゃんの出番は10分ぐらいしかないわよ」

「もっと増やすことはできないの?」

「今日は無理ね」


 意味ありげな笑みを浮かべる母。


 どういうことだと聞こうとしていると、大量の客が入ってきて押し潰されそうになる。


 両隣にいる中年の男性の汗の臭いがやばい。


 吐きそう……アップテンポな曲がかかる。


 会場にいる全員が昴の名前を呼ぶ。


 ステージの中央の床の所から、昴がジャンプして現れ歌い始めた。


 周りにいる客は涙を流しながら歓喜している。


 思わずに口ずさみそうになるぐらい、心が揺さぶられる。


 今までアイドルの昴に興味を持つことはなかった。


 少しだけ愛と純の気持ちが理解できた。


 2曲目が終わりステージの電気が消えると、母が純の出番がきたと口にした。


 ついにこの瞬間がきた。


 目を見開いてステージの方を見る。


 電気が点く。


 8人のスーツ姿の女性が現れて、左の1番端に純がいた。


 1、2曲目とは違い、大人っぽくてゆったりとした曲がかかる。


 バックダンサーは踊りだす。


 練習と同じで純は浮くことなく、いやある意味他のバックダンサーより動きに切れがあって人目を引いている。


 それに、化粧をして髪を上げている純は、いつも以上に大人っぽい。


 いつもなら愛に純を攻めてほしいけど、今は純に愛を攻めてほしい。


 青のドレスを着た昴が現れて、しっとりとした声で歌い始めた。


 そんなことより、純に全集中する。


 5曲目は半袖とスカートのラフ衣装で、激しく踊っている。


 純のスカートが捲れないか心配しながら見守った。


 熱気を残したままライブは終わり、僕と母は楽屋に向かった。


 母は疲れて椅子に全体重を預けている昴の前に行き頭を撫でる。


 昴はとろけた顔をした。


 半袖、スカートの衣装のままの純が、僕の所にやってきて清々しい笑顔を浮かべる。


「こうちゃん、楽しかった」

「3曲目は格好よかったよ! もっと上手く褒めたいけど、ボキャブラリーの少ない僕が憎い。5曲目は凄く楽しそうに踊っていて、僕も思わず体が動きそうになった」

「ありがとう」

「らぶちゃんにも感想を聞かないとね」


 愛に電話をかけようとしていると、僕のスマホが鳴る。


 スマホの画面を見ると、愛と表示されていた。


 出てスピーカーにする。


「じゅんちゃん‼ 凄かったよー‼ 凄過ぎるよ‼」


 大音量の愛の声が聞こえてくる。


「らぶちゃんありがとう」

「じゅんちゃんが帰ってきたら、らぶの前で踊ってほしいよ!」

「おう」

「楽しみに待っているね!」


 電話が切れてすぐに、剣が部屋に入ってきた。


「小泉さんは物怖じしないであそこまで踊れるのはすごいと思います。それに、歌も前に聴いた時に上手だったので、アイドルに向いていると思います」

「私はアイドルになる気はない」


 さっきまでやり切った満足気な顔をしていた純は、剣に冷たい視線を向ける。


「ごめんなさい」

「謝らなくていい」


 純はトイレに行くと言って、部屋を出る。


 僕達と離れてしまう可能性があるから、純はアイドルになることを否定したのだろう。


 純の気が変わって、アイドルになりたいと言われたら僕はどうすれば……考える必要もない。


 僕と愛が東京に行き、純と一緒に暮らせばいいだけの話。

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