178話目 面倒な客
9時前だからもう少しで、カットの予約している客がくる。
今日は体調を崩している恋の分も頑張らないといけない。
本棚の上に埃がついていることに気づく。
布巾で拭こうとしていると、
「あ! 幸君に言うのを忘れていたよ。9時に予約している柏木さんはキャンセルになったから。伝えるのが遅くなってごめんね」
のほほんとした笑みを浮かべた檸檬さんが言った。
「時間が空いたからシャンプーの練習をしようか? 幸君が私の髪を洗って」
檸檬さんは勢いよくシャンプー台に横になる。
檸檬さんに言われたことを思い出しながら髪を濡らしていく。
「数回しかしてないのに、頭部の後ろの地肌まで濡らせているのは上出来だよ。これならすぐに美容師になれるよ」
「僕が美容師を目指すことを恋さんから聞いたんですか?」
「聞いたよ。今までに見たことのない笑顔を浮かべながら言ってきたから嫉妬したよ。それでどうするの? 専門学校に行ってもいいし、美容院で見習いをしながら通信でもいいし」
シャンプーを手に伸ばして、全体の表面につけてから泡を立てていく。
美容師になる上で気になることがあるから質問する。
「美容院は男がくる割合が多いですか?」
「私の美容院には知り合いや常連がほとんどだから、男の人は滅多にこないよ。男のお客さんは1年ぐらいで前にきた男子だけだね」
それなら、美容師になりたいな。
「安心している所悪いけど、男の美容師の所には男のお客さんが集まりやすいよ。あくまでも私の主観だけどね」
「男のお客さんをとらない方法はないんですか?」
「ないね。私もそんな方法があるなら実践させないな。幸君みたいに男の人が嫌いではないけど、ナンパしてきたり、体を触ってこようとするから」
美容院に髪を切りに行った時に、女性の美容師にしつこく住所を聞く男がいたことを思い出し腹が立つ。
「美容師は自然と体に触れたり、愛想よく話かけるから勘違いする男の人が多いのかもね。どうしても面倒な客は、次からは予約をとらないようにしているよ」
「女性限定の美容師になるのは無理ですか?」
「女性限定の美容院はあるけど、男性がそこで働いているのを私は知らない。下心があると思われるからなんじゃないかな」
納得できる返しに思わず頷いてしまう。
「本気で美容師になるなら、男の人と我慢して関わるしかないね」
愛、純の傍にいられて、2人の役に立つ仕事なら何でもいい。
今は思いつかないだけで、美容師以外にも選択肢がたくさんあるのかも。
「美容師になるかどうか少し考えて見ます」
髪についた泡を流し終えてタオルで拭きとってから、椅子を起き上がらせた。
鏡の前に座った檸檬さんがドライヤーを、僕の方に向けてくる。
「ついでに髪も乾かしてもらおうかな」
「いいですよ。コツとかあるますか?」
「髪を持ち上げて地肌から乾かす。頭皮が濡れたままだと、雑菌が繁殖してカビや嫌な臭いの原因になるからね」
ドライヤーを受け取り言われた通り地肌から乾かしていく。
「私の言ったことをすぐに実践できるのはやっぱり幸君は美容師に向いているよ。高校卒業したら私の店においで」
「男子の髪を触らないといけないと考えたら、美容師をしたくないですね」
「将来の夢なんて簡単に決められる人の方が少ないから、たくさん悩むといいよ」
檸檬さんは鏡越しに僕を見て豪快に笑った。
「さっきの話と繋がっていることだけど、面倒なのは男の人だけじゃないよ」
意味深なことを言って立ち上がる檸檬さん。
何のことか聞こうとしているとドアが開く。
「久しぶり~。檸檬。会いたかったよ~」
布面積の少ない服を着た女性がレジ前にいる檸檬さんに抱き着いて胸を押しつける。
「おはよう。コハクって、酒臭っ。また、振られたの?」
「そうなの! 聞いて! 朝起きたら、彼氏からランイで『お前面倒だからもう付き合ってらんねえ』ってきていたの! 電話をしてもランイをしても返事がなかったから、彼氏の家に行こうとしたけど彼氏の家知らなかった……」
「髪を切るから、椅子に座ってね」
「冷たっ⁉ 檸檬から話を聞いておいてスルーするのは酷いよ!」
「座ったら話聞くから」
「なら、座る」
客と視線が合う。
抱き着いてこようとしてきたから避ける。
「癒して! 振られて心がすさんでいるお姉さんを!」
目を血走らせて再度抱き着いてこようとする。
客の腕を檸檬さんが摑んで椅子に座らせる。
檸檬さんは僕を見ながら口を開く。
「この子は恋の友達で、少し前から手伝いをしてもらっているの」
「恋ちゃんの友達ってことは……じゅる、高校生か……。若いっていいよね」
客は涎を垂らしながら、横目で僕のことを見ている。
危険を感じて少しだけ距離を置く。
シャンプー台に2人が移動した。
檸檬さんの隣に行く。
「幸君、コハクのシャンプーしてみる? コハクいいよね?」
「いいよ。高校生男子に頭を触られるなんて……生きていてよかった」
恍惚な顔をしている客に檸檬さんはフェイスガーゼをのせる。
「はい。やります」
檸檬さんと場所を代わって髪を洗い始める。
「君の名前って幸君っていうんだね。お姉さんも幸君って呼んでいい? お姉さんのことはコハクって呼んでほしいな!」
「いいですよ。コハクって呼びますね」
「年下の男子に呼び捨てにされるの、嬉しいかも。幸君って彼女いるの?」
「いないですよ」
「この後、暇? よかったらお姉さんと楽しい所に行かない?」
「コハクは檸檬さんといつから友達なんですか?」
「小学校からの友達だからすごく長いよ。子どもに戻って男にセクハラしたいな」
適当に話を合わせて、髪を洗い終わる。
髪を切り終えてセットした客は会計をしてから、僕の方に向かってくる。
「仕事が終わってからでもいいから会えないかな?」
「帰ったら家事をしないといけないから会えないです」
「家庭的な男子って素敵だね。どうやったら幸君の彼女になれる?」
ギラギラさせた品定めするような目で僕のことを見る客。
「ありがとうございました。またきてくださいね」
「うん! またくるね!」
コハクは何度も手を振りながら美容院を出て行く。
「面倒なのは男の人だけじゃないって言ったけど、幸君なら大丈夫だったね」
床に髪が落ちているのに気づいたので箒を取りに行こうとすると、檸檬さんにそう言われた。
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