103話目 デススプレー再び

「……百合中君」


 肩を揺すられて名前を呼ばれた。


 声が愛と純じゃないから、目を開けない。


 体内時計で起きるのは早いとなんとなく分かる。


 まだ寝よう。


 ……顔に微弱な風があったと思ったら、それが少しずつ強くなる。


 寝にくくて目を開ける。


 薄暗い部屋でもはっきりと顔が見えるほど近い位置に恋の顔があって、口を窄めている。


 視線が合うと、恋は後退りベッドから落ちて凄い音がする。


「大丈夫?」

「大丈夫‼」


 起き上がって手を差し出すと、恋はその手を両手で握って起き上がる。


 部屋の電気をつけてベッドに座りながら恋に聞く。


「どうしたの?」

「……東京に行く前に百合中君に会いたかったからきたんだけど、朝早くにごめんね」

「別にいいよ。らぶちゃんは一緒にきてるの?」

「きてないよ。自分の部屋で寝て、ふぁー、たよ……」

「眠たそうだね。8時20分の電車に乗るんだよね?」

「うん。まだ早いかららぶちゃんの家に戻って少しだけ寝てくる。起こしてごめんね」


 恋はそう言って、足早で部屋を出て行く。


 目が覚めたから、枕元に置いていたスマホを手にする。


 WEB漫画を読もうとしているとドアが開く。


「……らぶちゃんの家に鍵がかかっていたから、百合中君の家にいていい?」

「いいよ。恋さんは眠たいだよね?」

「……うん」

「僕のベッド使う?」

「使う!」


 食い気味に恋が言った。


 ベッドを譲ると、恋はおずおずとベッドに近づき転がる。


「……百合中君の匂いがするよ」

「臭かった?」

「全然臭くないよ。むしろいい匂い」


 そう言いながら毛布に顔を埋めてくんくんと匂いを嗅ぎ始める。


 愛の枕をくんくんする純の姿を見たい。


 もちろん逆でも可。


「1階でいるから、何かあったら言って」

「少し待って」

「どうしたの?」

「いつもはスマホのアラームを使って起きているけど、スマホをらぶちゃんの部屋に置いてきたから目覚まし時計借りていい?」

「目覚まし時計は使わないからない……母さんの部屋を探したらあるかもしれないから探してくるよ」

「探すのは手間になるからいいよ。もうそんなに眠たく、ふぁー、……」

「手間にならないから探してくるよ」


 母の部屋に行き引き出しを漁っても、目覚まし時計はない。


 自室に戻る。


「目覚まし時計がなかったから、僕のスマホを貸すよ」


 枕元にあるスマホを見ながら言うと、恋は首を左右に振る。


「スマホを個人情報が入っているから、借りることなんてできない」

「恋さんは悪いことしないって分かっているから別にいいよ」

「信頼されているのはすごく嬉しいけど、借りることはできない」

「だったら、時間になったら起こしにこようか?」

「いいの?」

「いいよ。何時ぐらいがいい?」

「7時ぐらいに起こしてもらっていいかな?」

「分かった。そのぐらいの時間に起こしにくるよ」


 部屋を出てリビングに行きソファに転がる。


 念のために7時前にスマホのアラームをセットして寝た。


 アラームの音で目が覚める。


 自室に行くと、暑かったのかベッドで寝ている恋の上着がはだけている。


 肩を軽く揺すると、恋はゆっくりと体を起こす。


「……何で百合中君がここに……昨日の晩あたしが百合中君の家にきたんだった。起こしてくれてありがとう」

「何時に家を出る?」

「8時20分の電車に乗るから、8時過ぎに出るつもり」

「時間にまだ余裕があるから何か食べていく?」

「百合中君が作ってくれるの?」

「うん。何か食べたいものある?」

「百合中君が作ってくれるなら何でもいい」


 2人でリビングに入ると、鼻を刺激する臭いがした。


「こうちゃんおはよう!」

「おはよう、らぶちゃん」


 愛の声がキッチンから聞こえてくる。


 キッチンに行くと、愛が鍋に調味料を入れようとしている。


 その調味料に見覚えがある。


 ドクロの目がバツ印になっているイラストが描かれている。


 1年前にらぶが激辛調味料展で買った激辛スプレーだよな。


 1カ月もかからず4本の激辛スプレーを使ってから見ることはなかった。


 何でここにあるのだろう。


 疑問に思っていると、愛が激辛スプレーを僕の目の前に持ってきた。


 臭いが強過ぎて、顔を背けてしまう。


「こうちゃん! 見て、見て! 販売中止になっていたデススプレーだよ! 通販限定で買えるようになったから買ったよ!」


 愛が喜んでいるのはいいけど、辛い物が大の苦手な純からすると死活問題。


 前と同じ対処をする。


 愛が持っているソースの注意書きを読む。


「この調味料は1つの料理に1回以上のプッシュはしないでください。また周りに多くの人がいる時は迷惑になるので使わないでください」


 ここに書かれている多くの人は2人以上だと、会社の人に電話して確認したと愛に嘘を吐いている。


「どうしたの?」


 恋が僕達の所にきて、愛に話しかけた。


「デススプレーを多くの人がいる時はかけたら駄目なのに、かけそうになったよ!」

「デススプレーってらぶちゃんが持ってるスプレーのこと?」

「そうだよ! れんちゃんどうしよう!」

「注意書きのことそんなに気にしなくて」


 恋の口を塞ぎ手を摑んで、廊下に連れていく。


 廊下に出てすぐに恋から手を離す。


「乱暴なことしてごめん」

「全然大丈夫だよ。むしろ百合中君に触ってもらったことが嬉しくて、じゃなくて本当に気にしてないから。そんなことより何であたしの口を塞いだの? 責めているじゃないからね。少し気になったから教えてほしい」


 捲し立てるように天井を見ながら恋は言った。


 恋に顔を近づける。


 愛にデススプレーのことで嘘を吐いていることと、その理由を小声で話す。


「…………」

「恋さん、聞こえてる?」

「…………耳元で喋られるのもいいけど、耳元で名前を呼ばれるのはもっといい」

「恋さん!」

「ど、どうしたの?」


 目を見開いた恋は後退り壁に背中をぶつける。


「大丈夫?」

「全然大丈夫。百合中君に話し合わせるね」


 そそくさと恋はリビングに入る。


 その後を追うと、キッチンで瞳に涙を溜めている愛の頭を恋が撫でている。


「らぶは悪いことをしたよ。警察に捕まるのかな?」

「大丈夫だよ」

「2人以上いるのに使おうとしたから大丈夫じゃないよ」


 流れ始めた涙を両手で拭う愛を見て、罪悪感が芽生える。


 自分の嘘で愛を泣かしてしまった……死のう。


 今はそんなことを思うより、愛を笑顔にすることが優先。


 かと言って、嘘を吐いていたことを認めることはできない。


 認めれば、愛は純の前でもデススプレーを使うようになる。


 2人が幸せになれる方法を必死に考えていると。


「らぶちゃんはまだ使ってないから大丈夫」


 笑顔で恋が愛に言う。


「……本当?」

「うん。らぶちゃんが作ったご飯食べよう」

「食べるよ!」

「らぶちゃんはデススプレー使いたい?」

「使いたいなんて全然思ってないよ!」


 恋は僕のことを一瞥して口を開く。


「百合中君は喉が渇いて水を飲みにきただけだからすぐに部屋に戻る。この部屋にはあたしとらぶちゃんの2人だけになるから、デススプレー使っても大丈夫」

「こうちゃん本当?」

「本当だよ。まだ、眠たいから部屋に戻るね」


 水を飲んで早足で部屋を出る。


「舌が~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~! 焼ける~~~~~~~~~~~~~~~! 体が熱い~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!」


 部屋で呆然としていると、恋の絶叫が聞こえてくる。


 デススプレー入りの料理を食べたんだな。



★★★



 8時を過ぎても、玄関のドアが開く音がしない。


「早く行かないと電車に乗れなくなるよ!」

「……らぶちゃん、もうちょっとだけ……待って」


 気になってリビングに入ると、唇を少し腫らした恋がソファに横になっている。


 自己犠牲をして問題を解決してくれた恋にはできるだけのことをしたい。


 今からタクシーを呼んでも、向かいにくる時間を持っていたら間に合わない。


 なら、僕が送るしかない。


 恋の前に行きしゃがむ。


「体調の方はどう?」

「……もう少し、休めばどうにかなりそうかな」

「恋さんがよければ僕が背負って駅まで送ろうか?」

「お願いしたい……けど、あたし重たい」

「らぶがれんちゃんを抱っこするよ!」


 愛は恋に抱き着く。


「れんちゃん! らぶの体をぎゅっとして!」

「あたし本当に重たい」

「大丈夫だよ! れんちゃんを持ち上げることなんて簡単だよ! 早くらぶをぎゅっとして!」

「……うん」


 しぶしぶと恋は愛の背中に手を回す。


「れんちゃん! いくよ! せえの! ふぬ――――――――――――――――! はぁはぁはぁはぁはぁはぁ。ふぬ―――――――――――――――! はぁはぁはぁはぁはぁ」


 愛は顔を真っ赤にしながら恋を持ち上げようとしても、1ミリも浮いていない。


 疲れた愛はその場に座り込んで息を切らす。


 時計を見ると8時10分を過ぎていた。


「恋さんは重たくないからおいで」

「……うん」


 おずおずと背中に乗ってくる恋。


「らぶがれんちゃんを抱っこするよ!」

「駅までどっちが早いか勝負だよ! よーいどん!」

「らぶはこうちゃんに負けないよ!」


 勢いよく部屋を出て行った愛の後を追う。


 玄関にはスーツケース2つと大き目のリックサック2つがある。


「落ちないように、強く僕の首に掴まって」

「そんなことをしたら百合中君が苦しくなる」

「大丈夫だから早く!」


 恋は肩に乗せていた手を首に回す。


 恋を支えていた手を外すと、首が絞められるぐらい抱き着いてきた。


 息苦しいけど我慢できる。


 玄関を先に開けたままにして、両手に荷物を持って外に出る。


「あたし歩けるから下りるよ」

「らぶちゃんの料理を残さずに食べてくれてありがとう」


 机に置かれていた皿が全て空になっていたことを思い出しながら口に出す。


「感謝しなくていい。作ってくれた料理を残さずに食べるのは当たり前だよ」

「感謝するよ。デススプレーがかかった料理は辛いものが得意な人でも、失神してしまうのに頑張って食べてくれたんだから。今度は僕が頑張る番だよ」

「…………うん。ありがとう」


 後ろからしおらしい声が聞こえた。


 駅まで残り半分の所で、愛が道路の端で中腰になっていた。


 考えている時間はない。


「らぶちゃん僕に前から抱き着いて。駅まで落ちなかったららぶちゃんの勝ちで、落ちたら僕の勝ちだよ」

「こうちゃん! 負けないよ!」


 愛が勢いよくお腹に飛びついてきた。


 倒れそうになるけど踏ん張る。


 1歩踏み出してすぐに体が重くて止まりそうになる。


 何も考えるな。


 無心で駅の方に向かって足を動かせ。


 歯を食いしばって走る。


「らぶの勝ちだよ!」


 駅について愛は僕から離れて笑顔でそう言った。


 喋ることができないほど息切れをしていたから頷く。


「れんちゃん早く行くよ!」

「…………」


 駅に着いたのに背中から下りていない恋を愛は引っ張る。


 このままにここにいても電車に乗り遅れる。


 僕は最低運賃の乗車券を買って、恋を抱っこしたままホームに入る。


「みんなたくさん汗かいているからポカリンスエット買ってくるよ!」


 愛は近くにある売店に向かう。


「……ごめん」


 視線を愛に向けていると、恋が申し訳なさそうに謝った。


「謝らなくていいよ。体調の方はよくなった?」

「体調はよくなったけど……ドキドキし過ぎて体が動かない」

「大丈夫?」

「…………大丈夫じゃないかもしれない」


 恋は僕の耳元でそう呟いた。

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