「元禄吉良鏡」むつみのレポート その六(まとめ)

【最後に】

 赤穂事件の発端となった殿中松の廊下での刃傷事件も、当時の浅野内匠頭の心の内や吉良上野介が実際は何をどう行っていたのか、すべて推測の域を出ないことは残念である。

 実際に何らかの確執があったとして、吉良上野介がそれを口にしなかったことは、わが身を護るためだったとしても、浅野内匠頭自身まで、誰にも「遺恨」の内容を伝えなかったのは何故なのか。そう考えると、浅野内匠頭の根底にあったものは上野介に対する「遺恨」にとどまらず、もっと大きなものだったのではないか、と思える。

 そしてそれは、彼を取り調べた目付け役やお預けとなった田村家でさえ、外聞を憚りあえて禁句としなければならないものだったのではないか、という思いが湧き上がってくる。だがそれも所詮は想像であり、当時の真相を知るすべはない。


 私がここで言及したいことは、素直に一つ。

 当時の風潮から現代に続くまで、赤穂浪士は美談として語り継がれても、吉良家は全くの「敵役」としか伝えられていないこと。当時の吉良家の状況はむしろ誰の目にも付かないように隠され、吉良家は「忠臣蔵」の悪役としてのみ存在すればよいとでもいうような一方的な扱われ方であり、吉良上野介を筆頭に討ち死にした家臣ですら、一向に顧みられることがないという事実である。


 討ち入りで犠牲となった者の中に、十代の茶坊主が二人いたこと。刀を持たず立ち合うことすらできない中間、小者も含まれていること。ドラマのような戦闘なぞほとんどなく、侵入してきた赤穂浪士の一団に、大方の吉良家の人間は抵抗もままならぬうち、出会い頭に槍で突かれ刀で斬られて死んでいったことは、残念ながらほとんど知られていない。

 何より、名乗りを上げて正々堂々、真正面から同じ条件で立ち合ったのではない。

 深夜に人知れず屋敷内に乗り込み、「火事だ!」と叫んでおびき出した者を斬り伏せ、無言で屋敷に押し入った一団が、出会ったものを片端から切り捨てていくという、事象のみを見ればまさしく問答無用の大量殺人となる。


 そう考えれば、映画やドラマであるように、本懐を遂げて心晴れ晴れ、笑顔で泉岳寺に向かう赤穂浪士一行と、それを拍手で称える江戸庶民という図式や、また松の廊下での刃傷事件の偏った裁量から引き起こされた一件でありながら、討ち入り後にはすべての責任を吉良家に押し付け幕引きを図った幕府の始末は、あまりにも一方的かつ浅薄単純なものと見えてくる。


 もちろん、赤穂浪士を一方的に糾弾する気もなく、彼らには彼らの論理があり、刃傷事件の最大の被害者が赤穂藩の人間であったことは間違いない。

 そのために江戸の庶民が浅野内匠頭の刃傷事件を知ったころから、徐々に市井には赤穂浅野家への同情心とともに、吉良家に対する敵意が育っていく。

 そして、赤穂事件を「忠臣蔵」という美談に無理やり作り替えたとき、一方的に吉良家は敵役にされ、その結果、討ち死にした家臣、忠節を尽くした人々は死んだ後も周囲から蔑まれるような扱いを受け存在が隠された。だがこの吉良家の人々について、討ち入られた側にも生きた人間たちがいたということは事実であり、真実というものは決して片方のみの一つきりではない。


 起こった事実は一つでも、見方によってそれぞれの目に映るものは変わる。それが個々にとっての真実となるとすれば、真実は人の数だけあることとなり、そのうちの一つにあまりにも強く傾注してしまえば、時として誤った判断をも引き起こす。

 それは、現代という情報化社会におけるヘイトニュースというものにも通じており、自分たちに都合がよいこと、目や耳にして心地よいと思うことのみを信じれば、いずれ視点は事実から外れて行ってしまう。

 複数の視点を持ってみたときに初めて本質が見えてくるということを、私たちは改めて思い知らねばならないだろう。


 「忠臣蔵」とは、まさに日本人が好むドラマティックな物語でありながら、実際の元禄赤穂事件は未だに多くの謎をはらみ、今後も多くの方にさまざまな視点で語っていただきたいと切に思う。


 ― 完 ―



【参考文献・情報源について】

参考とさせていただいた各種の資料、小説、情報源の内、主だったものを以下に記します。

●赤穂義士資料(国立国会図書館蔵)

●討入り後の吉良家家臣連署状写についての一考察 小林 輝久彦

●政変「忠臣蔵」 円堂 晃

●忠臣蔵の真相 飯尾 精

●忠臣蔵の真実 栗原 亮

●知識ゼロからの忠臣蔵入門 山本 博文

●編笠十兵衛 池波 正太郎

●ゑひもせす「吉良供養」 杉浦 日向子

●逆転の日本史 反忠臣蔵読本 洋泉社

●NHK歴史への招待 吉良邸討ち入り

他 Wikipediaをはじめとした各種インターネットの公開情報など

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元禄吉良鏡~げんろくきらかがみ~ 赤穂事件異聞 はらおのこ @haraonoko

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